第10話 プロポーズ

 高速道路は、いくつかの車線が合流する宮野木みやのぎJCTジャンクションこそ混んでいたものの、そこさえ過ぎればあとは順調だった。


 運転しながら、千葉県の風景を眺めてみる。

 周囲に視界をさえぎるものはなく、晴れわたった春の青空が道路の先に広がっている。


 田畑が見下ろせるのどかな風景は故郷と重なるところがあって、懐かしさがこみ上げてきた。なにせ僕は、この一年、故郷に帰れていないのだから。

 穏やかで気持ちのよい景色。けれども、田舎からやって来た僕には少なからず違和感もある。


「千葉って、山がないんですね」


 僕が住んでいた故郷では、雄大な山々がいつも遠くに横たわって見えていた。

 けれども、今僕が目にしている景色は、その山々の部分がすっかり削除されて、ぽっかりと空白になっている。


「関東平野と言うくらいだからね。もう少し南に行けば、鋸山のこぎりやまが見えてくるかもだけど」


 綾さんはさも当然のように教えてくれた。

 僕は山のないこの景色に早く慣れるべきなんだろうな。この先も綾さんとずっとこの地で過ごしたいのなら。

 僕のとまどいを察してか、綾さんが優しい声で言う。


「私、律くんが生まれ育った町にいつか行ってみたいな」

「なにもないところですよ」

「いいよ、それでも。律くん、案内してくれる? 私、律くんのことをもっとよく知りたいからさ」


 綾さんの確かな意志が感じられる声だった。


「じゃあ、いつか僕と一緒に故郷に来ます? 僕も両親に綾さんのことを紹介したいですし」

「さ、さすがにそれは早いんじゃないかなあ?」


 綾さんの声がわずかにうわずった。


「ねえ、ご両親に紹介されるのって、どのタイミングが正解なんだろうね?」

「タイミング、ですか?」

「だって、両親に会うのって、結婚の報告をする時って感じじゃん?」


 たしかに、そういうイメージはある。

 ドラマでも、彼氏が彼女の両親に『お嬢さんを僕にください!』とお願いしている場面を見たことがある気がする。

 付き合っている相手の両親に会うというのは、それくらい重みのある行為なのかもしれない。


 僕は綾さんのお母さんとは何度か会っているけれど、お父さんとは会ったことがない。

 もしこの先お父さんと会うとしたら、それは綾さんとの結婚を許してもらう時なのかもしれない。


――結婚、ね。


 僕にはそれがどういうものか、まだ十分には思い描けない。

 けれども、結婚相手が誰かといえば、僕には一人しかいない。


「綾さん」

「なに?」

「いつか僕と結婚してくれますか?」

「ひゃあ……」


 運転中だから、綾さんの顔をじっとうかがい見ることができない。綾さんは今どんな表情をしてくれているだろう?


「いくら何でも早いよ。私たち、付き合ってまだ半年だよ?」

「でも、僕には後にも先にも綾さんしかいないと思うので」

「結婚するってことがどういうことか、律くん、ちゃんと分かってる?」

「好きな人とずっと一緒にいるってことじゃないんですか?」

「それはそうかもだけど、それだけじゃないでしょう? お金のこととか、お互いの生活のこととか。子供だって産まれるかもしれないし。だいたい、ほんとうに私でいいの?」

「はい」

「迷いがないなあ」


 綾さんが呆れたように小さく笑う。

 苦笑なのか、照れ笑いなのか。あるいは、そのどちらもなのか。


 僕にとって、綾さんの存在は救い以外の何物でもないから、綾さんへの好きな気持ちはこの先もずっと変わることはないだろう。

 けれども、僕より一つ年上のしっかり者のお姉さん彼女は慎重だ。


「いい? さっきも言ったけど、四月から大学にちゃんと通えるようになるかもしれないじゃん? そうしたら、律くんにだって出会いが増えるわけで、私よりもずっといい子と巡り会うかもしれないんだよ?」

「それこそ、僕もさっき言いましたよね。僕は綾さんひと筋だって」

「それはありがとう。でも、律くんの気持ちだって変わるかもしれないよって話で」

「変わらないと思いますけどね。どんな人と出会っても、結局は綾さんがいいって結論になるんじゃないかな」

「そんなに私のことが好きなのかよ」

「はい。自分でも驚いています。人って、こんなにも誰かを好きになれるんですね」

「あのさあ。律くんは今日一日、ずっとそんな調子で私を口説き続けるつもりかい?」

「別にそういうつもりじゃ。ただ、本心がそうだから仕方がないというか」

「うぅー……」


 綾さんが大きく息を吐き出す。


「言っておくけど、私、律くんが思っているほどいい女じゃないからね。あとで幻滅しても知らないよ」

「そうなんですか?」

「そうだよ。だいたい、律くんは私のどこが好きなわけ? 百個言ってみて」

「百個ですか?」

「ふふ、百個だよ。ちゃんと言えたら、結婚を考えてあげてもいーよ」


 そんなこと言われたら、百個言わざるを得ないじゃないですか。


「えーと……優しいところと、可愛いところ。しっかりしているように見えて、意外ととぼけたところもあって、チャーミングなところ。髪が綺麗で、スタイルもよくて、顔も好みで、笑うとえくぼが浮かぶところ。時々お姉さんぶるところ。それと、ちょっとした仕草も好きです、髪をかき上げる仕草とか。とにかく、見ていて飽きませんよね、綾さんって。美味しい物を見つけた時に目をキラキラさせるところも好きですし、驚いた時のくりくりっとした目も可愛いです。形のいい唇も……」


「ストーップ! この話はもうおしまいっ!」


 突然、綾さんが僕の言葉をさえぎった。

 横目でチラリとうかがうと、綾さんは真っ赤に茹で上がった顔をぱたぱたと手のひらで扇いでいた。


「律くんがほんとうに私を好きでいてくれるんだなってことがよく分かりました。降参です」

「やった」


 綾さんは胸に手を当てて呼吸を整え、それから僕に真剣な目を向けた。


「……もう一度聞くけど、ほんとうに私でいいの? 私と生活するの、律くんが想像しているよりもずっと大変だよ?」


 落ち着いた、低いトーンの声だった。

 綾さんは普段と変わらない調子をよそおっている。けれども、その声の底には悲壮感のような暗いものが漂っているように僕には感じられた。


 でも、覚悟ならもう決まっている。

 綾さんを幸せにしてあげたい気持ちに、嘘偽りは少しもない。


「かまいません。綾さんがそばにいてくれるなら、それで」

「ほんとにほんと? あとで後悔しない?」

「僕が後悔するとしたら、綾さんを手放した時です」

「……そっか」


 綾さんが観念したように助手席に深く背を預ける。

 それから、指の背を目尻に当てて涙をぬぐう仕草をした。

 もしかして、綾さん、泣いている?


「ありがとう。こんな私とでも結婚したいって言ってくれて。私、病気になって、もう結婚とかは無理かなって思うこともあったから」


 綾さんの素直な気持ちが、安堵の息と共にするりと漏れた。

 僕は身のつまるような切なさに襲われた。

 そして、心が強いように見えて実はガラス細工のように繊細な綾さんを、この上なく愛おしくも感じていた。


「綾さんはもっと自分に自信を持っていいと思う。綾さんみたいに可愛くて素敵な人、僕は他に知りません」

「律くん……」


 綾さんはいっそう瞳をにじませ、ぐずっと鼻をすすると、こくんと小さくうなずいた。


「じゃあさ、律くんがもっと大人になって、いろんな女性ひとと出会ってさ、それでもやっぱり私がいいって思った時には、またプロポーズしてくれる?」

「分かりました」


 僕たちはやがて大学を卒業し、就職をして、忙しい毎日を送るようになるだろう。

 その時、僕と綾さんはいったいどうなっているだろう? 変わらず僕のとなりに居続けてくれるだろうか?


 今はまだ分からない。

 けれども、僕の思いはこの先もきっと変わらない。

 だから、もっと大人になった時に、ちゃんと綾さんに選ばれる僕でありたいと思う。


「将来、僕がプロポーズするまで、待っていてくれますか?」

「……うん、待ってる」


 その後も車は順調に進み、木更津JCTを海ほたる方面へと曲がると、ようやく東京湾が近づいてきた。


 僕たちは東京湾に差しかかる手前で高速道路を下りた。

 目的のアウトレットはすぐそこだ。

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