第9話 私よりも可愛くて健康な子

 朝八時。

 綾さんを迎えに行くと、はじめに家から出てきたのはお母さんだった。


「おはよう、律くん。ちょっと待っていてね、綾はもうすぐ出てくると思うから」


 ニコニコと朗らかに僕に微笑みかけてくれるお母さん。さすが母娘だけあって、優しい目元が綾さんとよく似ている。


「もう、ママは家にいて!」


 遅れて綾さんが玄関から姿を現した。

 お嬢様感のある、腰回りがきゅっと締まった清楚な長袖のワンピース。歩きやすい白いスニーカー。そして、黒いナイロン製のリュックサック。


 そこには、いつものように赤い下地にハートと十字が白く描かれた『ヘルプマーク』が付いている。

 僕は、綾さんの『ヘルプマーク』を目にするたび、僕が綾さんを支えるんだという気持ちを強くするのだった。


 綾さんは車に近づくと、助手席の扉に手を伸ばした。


「綾さん、今回も助手席ですか?」


 僕が借りてきたのは、前回と同じ、後部座席がスライドドアになっているコンパクトカー。

 足の悪い人にはスライドドアのほうが乗りやすいから、とレンタカーのお店の人に勧められていたのだ。

 しかし、肝心の綾さんが後部座席に少しも興味を示さない。


「もちろんだよ。律くんだって、私がとなりにいたほうがいいでしょう?」

「それはまあ、そうですけど」

「じゃあ、前に乗る」


 綾さんはそう言うなり、助手席のドアを思い切り横に開き、座席にお尻を乗せる。そして、曲げにくい脚をなんとかたたみ、身体を回転させて助手席に乗りこんだ。

 見るからに大変そうだけど、そうまでして僕のとなりに座ろうとしてくれる綾さんの気持ちが嬉しい。


 ちなみに、身体障害者用のステッカーは今回も貼っていない。

 できれば貼りたくない、というのが綾さんの素直な気持ちなのだ。

 僕はそんな綾さんの気持ちをくんで、障害者用の駐車スペースに車を止める時だけステッカーを貼ることにしていた。


「綾さん、忘れ物はありませんか?」

「うん、大丈夫。それじゃ、行こっか」


 こうして、僕たちは綾さんのお母さんに見送られ、木更津へと出発した。






「律くん、道分かる?」

「はい。なんとなく」


 千葉県の旅行ガイドブックなら持って来ている。ルートはすでに確認済みだ。

 国道十六号線をひたすら南下し、千葉北ICインターで高速道路に乗る。そして館山たてやま方面へとひた走り、途中で東京湾アクアライン方面へ。そうすれば、目的地へとたどりつけるはずだ。


「でもさ、律くん。ナビは反対方面を示しているよ」

「そうなんですよね。なんでだろう?」


 ナビは、さっきから僕が考えている道とは異なるルートをやたらと勧めてくる。『引き返せ。今なら間に合う』そう説得されているみたいで、ちょっと焦る。


 あとで調べて分かったのだけれど、どうやら家から一番近いICで高速に乗り、ひとたび埼玉方面へと走った後、東京湾方面へと折れ、ふたたび千葉県へと戻ってくるルートもあったみたい。

 けれども、運転初心者の僕にしてみれば、国道十六号線を南へ一直線、高速に乗ったらまた館山方面へ一直線という、くねくね曲がらないルートのほうが断然いい。


 しばらくナビの声を無視してひた走る。すると、ナビもついに観念したのか、ようやく僕が考えているルートを示してくれた。


「よかったね。道をまちがえているんじゃないかって、ハラハラしちゃった」

「綾さんは、もっと僕を信頼してもいいと思う」


 もっともらしいことを言ってみる。

 ほんとうは、僕も綾さんと同じで内心すごくホッとしていたのだけれど、それは内緒の話。


 心に余裕ができて、ようやく綾さんを横目にちらりと盗み見る。

 まっすぐ前方を見つめ、期待に満ちたおだやかな微笑を浮かべる綾さん。

 こんなに可愛い人が僕の彼女でほんとうにいいのかな?


 そういえば、綾さんのコーデについて、朝からひと言も触れていない。

 今さらになって『今日の綾さんも可愛いです』と告げるのは、さすがに間が悪すぎるよね? タイミングを見計らって、後でさりげなく伝えよう。


 車内を流れるのは、朝の情報番組の音声だけ。せっかくこうして綾さんを独占しているんだもの、やっぱり会話を楽しみたい。

 えーっと、なにか話題は……と考えを巡らせていると、


「私たち、あと数日で二年生だね」


 綾さんのほうから話を切り出してくれた。


「今年はちゃんと大学に通えるかな?」

「きっと通えますよ。去年よりは状況もよくなると思いますし」

「もし、大学に通えるようになったらさ、出会いも増えそうだね」

「たしかに」


 大きな教室でみんなと授業を受けたり、同じゼミの人たちと少人数でディベートしたり。

 上京した時に思い描いていた通りの、そんなキャンパスライフがようやく叶うかもしれない。

 しかし、綾さんはなにやら浮かない様子だ。


「律くん。この先、可愛い女の子たちと毎日会うかもだよ? 大丈夫?」

「大丈夫って、なにがですか?」

「浮気しちゃダメだからね」

「しませんよ。僕には綾さんがいますから」

「うぅ……私は心配だよ。これまでは大学が開いていなかったから私としか会わなかっただろうけど、これから他の子たちとも会うようになったら、目移りするかもしれないじゃん」

「そんなこと心配しなくていいのに」

「律くん、どうする? 私よりも可愛くて健康な子が律くんに迫ってきたら」


『健康な子』という言い方が耳に引っかかる。

 綾さんは、今こうして僕とデートに出かけられるくらい、健康そのものに見える。


 だけど、あえてそういう言い方をするのは、きっと障害を気にしているからで。

 綾さんは、自分が障害を抱えているという事実を受け入れているように見えながら、心の奥底ではまだ認めきれていないような節もある。


 そんな綾さんの複雑な心情を、僕はどこまで理解できているだろう? 

 こんな時、なにを言えば綾さんの不安を拭い去ってあげられるのか、その答えが僕にはまだ分からない。


 だから、綾さんへの素直な思いを伝えることしか、今の僕にはできない。


「だとしても、関係ありませんよ。僕は綾さんひと筋ですから。僕は綾さんが大好きです」

「あぃ……」


 綾さんが言葉にならない小声をもらし、口をつぐむ。

 僕の答えで、綾さんは満足してくれただろうか?

 黙られると、自分が発した言葉が急に恥ずかしくなってくる。僕は冗談めかしてつけ加えた。


「綾さんこそ、イケメンが迫ってきたらどうするんです? 綾さんはアイドルみたいに可愛いんですから。僕はそっちのほうが心配です」

「大丈夫。……私も律くんひと筋だから」


 もじもじと、照れくさそうに告げる綾さん。

 少女のように恥じらう姿に、僕の心も温かくなる。


「相手が雪斗でも?」


 ちょっと意地悪なことも聞いてみる。


 『雪斗』とは、綾さんがハマっている男性アイドル育成ゲームの二次元のキャラクターだ。

 顔が良くて、足も長くてスタイルもいい、キラキラと輝く王子様。平凡な僕とはまるでタイプがちがう。


 高校時代、入院中の綾さんはずっと雪斗の存在に支えられていたらしい。僕と出会う前の話で、ちょっぴり嫉妬してしまう。


「雪斗が迫ってきても? も、もちろん律くんだよ」

「だいぶがありましたけど」


 綾さんがおかしそうに笑う。

 うーん、やっぱり僕はまだ雪斗に負けている気がする。僕は綾さんの一番でいたいのに。


 しばらく走っていると、ガソリンスタンドや飲食店が立ち並ぶにぎやかな場所に差しかかり、車の数も増えてきた。


「そろそろ高速道路の入り口が近づいてきたみたいですね」


 僕たちは広い駐車場のコンビニに立ち寄り、お手洗いを済ませたり飲み物を買ったりしてから、いよいよ高速道路へと乗り出した。

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