第二章 木更津アウトレット・プリンセス

第8話 会話だけでいいの?

「この間の成田山、楽しかったね」


 綾さんがスマートフォンの画像を懐かしそうに眺め、柔らかい笑みをこぼす。

 僕たちは、二人の間ですっかり行きつけとなった、駅ビル四階の和テイストのカフェで過ごしていた。


 綾さんのスマートフォンには、成田山に一緒に出かけた先月の写真が大きく映し出されている。

 肩を並べて、楽しそうに笑う僕と綾さん。二人の背後には赤を基調としたきらびやかな三重塔がそびえ、その上空には晴れわたった二月の青空が広がっている。


「またどこかに行きたいね」

「そうですね」

「でも、車を運転するの大変だったでしょう? 律くん、すごく緊張していたし」

「人生で初めてのドライブだったので、さすがに」

「じゃあ、今度は電車で行く? そのほうが律くんは楽だろうし」

「でも、綾さんが大変じゃありません?」

「いいよ、私のことは気にしてくれなくて。別に電車でも行けるし」

「でも……」


 僕はためらいがちに続ける。


「車のなかならマスクも外せますし、それに……車のほうが、綾さんを独り占めできるじゃないですか」


 気恥ずかしかったけれど、正直な胸のうちを伝えてみる。

 綾さんの頬にぱっと桜色が散った。

 綾さんは抹茶ラテが入ったカップを口に運ぶ。そしてひと口飲むと、カップをテーブルにそっと置いた。


「つまり、律くんは私を独り占めしたい、と」

「そうですね。できることなら」

「そっかー。じゃあ、車で行くしかないね」

「ですね」


 僕たちはクスクスと笑い合う。

 よかった。正直な思いを口にして正解だったみたい。


「じゃあ、次はどこに行く? 律くんはどこか行ってみたいところ、ある?」

「行ってみたいところですか?」


 すぐに思い浮かんだのは、東京にあるスカイツリー。あの頂から眺める景色は、いったいどんな感じなのだろう? 一度は行って確かめてみたい。


 ……と思ったけれど、県をまたいでの移動は控えたほうがいいのかな?

 春休みに入り、幸い緊急事態宣言は解除されたけれど、世間的にはまだ自粛ムードが漂っている。


「千葉県のなかで、ということになりますよね?」

「そういうことになるのかな。いいところだよ、千葉県は。成田山以外にも名所はたくさんあるし。そうだなぁ、たとえば今の時期だと南房総に行けば綺麗なお花がたくさん咲いているはずだよ」

「じゃあ、そっちのほうに行ってみます?」

「それもいいけど、でも、せっかくそっちのほうまで出かけるなら一泊したいよね。ゆっくり見たいし」

「お泊り、ですか」


 綾さんとお泊り。

 その甘美な響きは、僕を高揚させ、一方で緊張もさせる。


 どこか旅行したいね、とはこれまでも二人の間で何度か話題にはしてきた。けれども、いつも冗談交じりで、その場では盛り上がるものの実現に向けて動き出したことはない。


「いいですね、お泊り」

「あー、でも今回は止めておこうかな。この間、律くん家に泊まった時、パパ、すごく心配していたみたいだから」

「そうですか」


 急にトーンダウンする僕。

 たしかに、綾さんと二人きりで宿泊だなんて、未熟な僕にはまだ早すぎる気がする。


 以前、一度だけ、綾さんが僕の部屋に泊まったことがある。

 その夜、綾さんはいくつもの薬を服用した。いつものことだと教えられ、僕はすっかり驚いてしまった。

 そんな綾さんの姿を目の当たりにすると、ますます大切にしなくちゃという気持ちが強くなって、結局、その晩は綾さんに触れることもなく、一緒にゲームをした後、綾さんには僕のベッドで寝てもらい、僕は床に横になったのだった。


 もっとも、綾さんの脳の病気について知ったのはその時で、おかげで二人の絆はさらに深まったのだから、僕たちにとってはかけがえのないお泊り会だったわけだけど。


「でも、どうして分かったんだろう? パパには律くんの家に泊まるとは言っていないはずなのに」


 綾さんのお父さんって、いったいどんな人なんだろう? いつか会う日が来るのだろうか?


「あ、でもママは許してくれるんじゃないかな。ママは律くんのことをすごく信頼しているから」


 綾さんのお母さんとは、これまで何度か会っていた。駅前のアーケード街でばったり出会い、おいしいシフォンケーキをごちそうになったこともあったっけ。


 娘思いの、優しい、けれども過剰に娘にかまってしまうところのあるお母さん。娘が病に侵されたことを自分の責任のように感じてしまう人なの、と綾さんから聞かされていた。


「綾さん、今回もまた日帰りにしましょうか」

「うむ。では、そのようにいたそう」


 なんで急に時代劇?

 綾さんのそういう感性、チャーミングで僕は好きですけど。


「ところで、綾さんこそ、どこか行きたいところはないんですか?」

「私? そうだなあ。アウトレットに行きたいかな。春物も欲しいし」

「アウトレット?」 

「うん。千葉にはね、アウトレットがいくつかあって。幕張まくはりとか、酒々井しすいとか、木更津きさらづとか」


 知らなかった。

 僕が住んでいるこの街だって、実家に比べたらずっと都会で、生活に必要な物はなんでもそろってしまう。

 だから、わざわざアウトレットに出かけようという発想が僕にはなかった。


「律くんは最近なにか欲しいものはある?」

「うーん……綾さんの愛?」

「いつもいっぱいあげてるでしょ」


 綾さんは手のひらを口元に運ぶと、チュッ♪ と茶目っ気たっぷりに投げキッスをしてくれた。

 耳まで真っ赤になるくらい恥ずかしいなら、しなきゃいいのに。


「すみません。すでにたくさんいただいてました」

「そうでしょう、そうでしょう。で、欲しい物は?」

「それが、困ったことに特にないんですよね」

「欲がないなあ、律くんは」


 綾さんが小さく笑う。僕もつられて苦笑した。


「たしかにそうかも。僕は綾さんとこうして会話をしているだけで十分幸せですから。だから、これ以上欲しい物なんてなにも」

「ほんとに欲がなかった」


 すっかり呆れぎみの綾さん。

 でも、事実なのだからしょうがない。


「……会話だけでいいの?」

「えっ?」

「いいえ、こっちの話」


 綾さんがぷぅと頬をわずかに膨らませてそっぽを向く。

 あれ? 僕、なにか機嫌を損ねるようなこと言ったかな?

 とにかく、話を元に戻そう。


「僕、アウトレット行ってみたいです。行きましょう、綾さん」

「まあ、律くんがそこまで言うなら、お供いたしましょう」


 大仰にうなずいてみせる綾さん。

 あれ? 最初に言い出したの、綾さんでしたよね?

 でも、綾さんの嬉しそうな微笑みを目にしたら、僕にも嬉しい気持ちが伝染してきて、なにも言えなくなってしまう。




 こうして、いよいよ春も盛りの三月末。

 僕たちはふたたび車を借り、今度は木更津を目指して走り出した。

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