第7話 スモール・ステップ

 カーテンのすき間から、まぶしい朝日が射しこんでいる。

 僕のベッドでは、綾さんが今も可愛らしい寝息を立てている。

 僕は、愛しい綾さんの寝顔をもっと見たくて、長い黒髪に手を伸ばし、悪戯でもするようにそっとかき上げた。


「――えっ?」


 僕は目を疑った。


 長い髪に隠れた綾さんの頭部に、傷跡が細く長く伸びていた。

 その傷跡は、綾さんの髪の生え際のわずか奥で、額のラインを沿うように大きく半円を描いている。


 どうやら縫った跡らしい。

 あまりに痛々しくて、僕はそこから目を離せなくなってしまった。


 やがて、白い光のなかで、綾さんが目を覚ました。

 そして、乱れた長髪を両手で撫でつけながら、恨めしそうな目を向けてきた。


「もしかして……見た?」

「はい」


 正直に打ち明ける。


「あーあ、ついに見られちゃったかァ」


 綾さんはゆっくりと上体を起こし、寂しそうに笑った。






 コーヒーを淹れ、小さなソファに二人で並んで座る。

 綾さんは心を落ち着かせるように一口飲むと、すべてを教えてくれた。


「私のほんとうの病気はね、足よりも、脳のほうなの」


 どうして今まで気づいてあげられなかったのだろう?

 綾さんの足が動かないのは、脳の病気の影響なんだって。


「高校生の時にね、私が脳腫瘍しゅようを患っていることが分かって……。それから、ずっとこの病気と付き合ってきた」


 綾さんは、これまで胸の奥にずっとせき止めてきたものをゆっくり吐き出すように、ぽつり、ぽつりと言葉を続ける。


「大変だった……。薬の副作用で髪がすべて抜けてしまう時もあったし、昔はもっと動いていた足だってしだいに動かなくなっていった……。それでも、ようやく落ち着いてきて、今では病院の外で普通に生活できるようになって……」


 うつむきがちだった綾さんが、僕の顔をまっすぐ見つめる。


「そして、律くんと出会えた」


 綾さんの綺麗な瞳が涙でにじむ。


「律くんと出会って、恋をして、こうして付き合えて……こんな私でも素敵な恋愛ができるだって、それが嬉しくて、毎日が夢のようだった。……でもね、律くんを好きになればなるほど、怖くもなった……」


 綾さんの頬を涙が伝い、細い肩が震え出す。

 僕はそんな綾さんの肩に手を回し、なだめるようにそっと抱き寄せた。


「大丈夫です、なにも怖くありません。僕がずっと綾さんのそばにいますから」

「ありがとう。律くんはいつでも私に優しいね。……でも、そうじゃないの」


 綾さんが、僕の身体をそっと押し返そうとする。


「私の病気はね、記憶をつかさどる部位をもむしばんでいくかもしれなくて」

「それって……」


 綾さんは、僕の視線から逃れるように下を向き、泣きながら打ち明けた。


「私がいつか記憶障害を起こして……律くんのことでさえ忘れてしまう日が来るかもしれなくて……それがたまらなく怖ろしい……」


 その一言で、僕はすべてを理解した。


 綾さんがよく写真を撮っていた理由も。


 綾さんのお母さんが僕になにかを言いかけ、けっきょく最後まで言えなかった、その訳も。


 綾さんは、僕と過ごした記憶がやがて薄れていくことを恐れ、頻繁に写真を撮っては後でふり返っていたのだ。僕と過ごした日々をけっして忘れないために。


 成田山で一緒に手を合わせた後で、綾さんから告げられた言葉が、にわかに耳の奥によみがえる。



――私も、律くんとずっと一緒にいられますように。


――それと、今日という日を一生忘れませんようにって。



「ごめんなさい、今まで黙っていて。でも、どうしても言えなかった。律くんのことが本気で好きだから……。律くんがこの事実を知ったらどんな顔をするだろうって……想像すると胸が張り裂けそうで……」


 綾さんは涙にぬれた顔を上げ、口元を暗く歪める。


「幻滅した? これが私の真実。このまま私と付き合っても、やがて記憶も愛も失って、お互い傷つくだけかもしれない。でも、律くんはまだやり直せるから……律くんにだけは、私のせいで苦しんでほしくない……だから……」


 綾さんの瞳から、大粒の涙がぼろぼろと一気にあふれ出す。


「だから、もう終わりにしましょう、私たちの関係を。律くんには、きっと私なんかより、もっと健康で可愛い女の子のほうがお似合いだよ……」


 綾さんはそう言ってしまってから、わああ~っ! と大きな声を上げて泣いた。

 僕は両手を広げ、今にも崩れてしまいほうな綾さんの細い身体を抱きすくめた。


「僕はあきらめません」


 僕ははっきりと宣言し、綾さんを抱きしめる腕に力をこめる。


「僕は、綾さんに救われたんです」


 思えば、僕の大学生活は暗闇からのスタートだった。

 見知らぬ街でたった一人、誰と声を交わすこともなく、夜に震えていた。

 実家からは帰って来るなと言われ、友だちもできず、僕は初めて『孤独』という言葉の意味を知った。

 そんな暗い闇の深淵から僕を救い出してくれたのは、まぎれもなく綾さんだった。


「僕にとって、綾さんは希望でした」


 綾さんの優しい笑みに照らされて、僕の世界は輝き出した。

 病に負けず懸命に生きる綾さんの姿に、僕は何度も励まされた。


「だから、今度は僕が綾さんの光になりたい」


 綾さんの凍える心を、今度は僕が温めてあげたいんだ。


「もし、綾さんの顔に暗い影が射したら、僕が明るく照らします。そして、綾さんを必ず笑顔にしてみせます。だって、僕は綾さんの笑った顔が好きだから」


 綾さんの優しい微笑みに、僕はどれほど救われてきただろう。

 綾さんにとって、僕もそうでありたい。いや、そうなれるように頑張らなくちゃいけないんだ。


 僕の肩の辺りに顔をうずめて泣いていた綾さんが、ようやく顔を上げ、涙ながらに問いかける。


「もし、将来私が律くんを忘れてしまったら?」

「二人の間にあった出来事を何度でも語って聞かせて、思い出させてみせます」

「それでも、最後まで思い出せなかったら?」

「僕のことをふたたび好きになってもらえるように、何度でも告白します」


 綾さんがすっかり記憶を失って、新しい綾さんになったとしても、きっと僕はまた綾さんに恋をする。

 だから、何度でも好きだと叫ぼう。


「この先どんなことがあっても、僕は綾さんのことがずっと大好きです。これからも、ずっと僕のそばにいてください」


 綾さんの美しい瞳が、さらに潤いを増していく。


「……ほんとうに、こんな私でもいいの?」

「そんな綾さんがいいんです」

「……私も、律くんがいい。ずっとそばにいてもいいですか?」

「もちろんです」


 綾さんが、涙ながらに笑みをこぼす。

 綾さんの笑顔は、純粋な少女のようにきらめいていた。


 僕たちは見つめ合い、やがて互いの想いを確かめ合うように唇を重ねた――。






 春のおだやかな街並みを、綾さんと手をつないで歩く。

 綾さんは小さな歩幅で一歩ずつ、ゆっくりと進んでいく。


 病を受け入れ、愚痴の一つもこぼさず、健気に謙虚に生きる。

 そんな綾さんを僕は心から尊敬し、心から愛おしく感じている。


「綾さん、大丈夫ですか」

「律くんは心配性だなあ。大丈夫に決まってるじゃない。私を甘やかさないで」


 綾さんが楽しげな笑みを輝かせる。

 病を抱えてなお自立した生活を送ろうとする、綾さんの強い意志や生命力を感じさせる、晴れやかな笑顔だ。


 だけど、僕は知っている。

 綾さんが、ほんとうは心の奥底で不安におびえていることを。


 今のところ、綾さんの病状に大きな変化はなく、記憶力の低下の兆候も見られない。

 でもいつか、綾さんが不安や悩みに押しつぶされそうになり、美しい顔を曇らせることがあったら。

 その時は、精一杯、僕が支えてあげたい。

 それが、この街で見つけた、僕の生きがいだから――。


「僕は、綾さんに甘えてほしいんだけどなあ」

「律くん、私のほうがお姉さんだってこと、忘れてない? 私だって律くんに甘えてもらいたいの。律くんに必要とされることが私の喜びでもあるんだから」

「僕も同じ気持ちです」


 僕たちは笑い合い、つないだ手にさらにぎゅっと力をこめる。


 世界はいまだに混沌としていて、かつての日常を取り戻せず、出口のない閉塞感に気分が沈んでしまうこともある。

 将来に不安をおぼえるのは、なにも綾さんに限ったことではないだろう。


 けれども、僕と綾さんなら、きっと明るい未来へと進んでいける。

 僕はそう信じている。


「これからも一緒に歩いていきましょうね。綾さん」

「うんっ」


 こうして、僕たちは今日も小さな一歩を積み重ねていく。

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