ケイ視点 転換点

 おれからしても不気味に思えた蛸は、燃え始めた途端にその雰囲気を霧散させた。

 だがしだいに炎の勢いは増し、蛸の周りで激しく打ち付ける波が、ジュワワ……という音を立てて沸騰していく。

 あれが市街に入れば、一瞬で崩壊する。だが、どうすればいい。おれが向かったところで、蛸の身体は傷一つつかないし、海水ですら炎の勢いを止められない。


 ――おい、ケイ!


つんざくような声が、右のこめかみから左のこめかみを撃ちぬくように響く。サトシの『念話』だ。


 ――早くあの蛸止めねえと、市街が燃えるぞ!

 焦りの感情が、そのまま心臓を逆なでするように流れ込んでいく。

 ――それはわかって、

 ――陽彦が倒れたんだ! 意識は失ってねえけど、両腕火傷を負っている! 体温の上昇も酷い! 結界はもう持たねえぞ!


 その言葉を聞いた時には、既に陽彦の張った結界はぐにゃりと歪んでいた。

何も方策が思いつかないまま、何か言おうとした――その時だった。


「ごめんなさいね。遅くなったわ」


 聞きなれた朗らかな声が、耳元で響いた。

 だがその声は、どこか神秘的な、あるいは威圧的なものを含んでいた。



 途端に波音は消えた。辺りは凪いで静かになる。



「でも、遅れた分お仕事はするから、任せてちょうだい」



 凪いだ海面の上には、声の張本人――川姫がいた。

 輪を描くように、川姫の足元に波紋が立つ。彼女は暁の空を映した海面を歩いていた。

 川姫の髪は、くるぶしまで伸びており、意思があるようにうねる。頭上には、朝日を反射する鏡が浮かんでいる。白い着物の胸元には大きな玉がさげられており、腰には太刀をさげていた。


 川姫の両手には、槍の穂先につけられた真っ白な旗が握られている。

 風がないはずのそれは、なぜがたなびいていた。


「賢木に八握釼やつかのつるぎ八咫鏡やたかがみ八尺瓊やかさに、それから白旗――。これをもって来ないと、昔捨てた名前神様を名乗れなかったから」


 紅をさしたように鮮やかな唇は、緩やかに弧を描く。


「ここは八幡神のおわすところ。八幡は数多くの旗、旗は神の依り代。そして戦神の象徴」


 八幡神は、源氏の神様でもある。

 平氏の旗が赤だったのに対し、源氏は白の旗だった。

 その白い旗を持ち上げて、川姫は声を張り上げた。


「ならば白旗これは、降伏ではなく、汝を制圧するためのものである!」


 そう言った途端、辺り一帯の海が、白い水しぶきをあげる。

 世界は爆発するように音を取り戻し、まるで散らばった真珠のような水しぶきは、龍のような形をとって川姫の旗を包むかのように宙に浮かぶ。

 そして、川姫が裸足のまま、大きく足を踏み出した途端、


 市街側に近づいていた大蛸が、沖まで吹っ飛ばされていた。

 宙には、旗で蛸を薙ぎ払った川姫が、着物の裾から素足を出して跳んでいた。

 市街側の海が、衝撃によって出来た大波に包まれる――前に、新たな結界が張りなおされた。


――こちらも遅くなった。よく、市街を守ってくれたね。


 念話が、頭の中に響く。

 おれは、ホテルの方に視線をやる。


 5階のベランダに、黒い着物を着た20代後半の男――局長が立っていた。

 京都から帰って来たんだ!


 ――陽彦の方は心配いらない。今、医療班が治療にあたって眠っている。

 その言葉を聞いて、おれはほっとした。

 ――私が結界を担うから、市街の被害は心配しなくて構わない。なんなら、穴の開いた砂浜とかアスファルトとかの修復もしてるし。


 言われて見れば、あれだけ穴が開いた砂浜や割れたアスファルト、なぎ倒されて杭のようになっていた木々が、時間を巻き戻していくかのように修復されていく。

 湾に囲まれた市街まるごと結界張った上に、修復までリソースが回せるのか……。さすがは局長だ。


 ――ここからは私たちに任せて……と言いたいところだが、川姫曰く、「ケイ君の力がないと、あの神様は倒せない」んだそうだ。もう少し戦えるかい?

 ――了解です。でも、おれの力って……?


 おれの鉤爪では、あの大蛸は倒せなかった。完全変化すれば倒せるかもしれないが、それはあまりにリスキーだ。怪物がもう一匹増えるのだから。

 すると大蜘蛛に変化していたヒビキが、水面を蹴る様にこちらへ向かっていた。変化を一旦解くと、いつもの猫のような姿に変わる。

ヒビキは、つるぎを口に咥えていた。これは、さっき川姫が腰に差していた剣か?


 ――それを使って、あの蛸神を斬りなさい。


 局長は、そう言った。


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