解ける自意識の糸の浮遊
山のトンネルをくぐる時のような耳鳴りがする。
脳みそが溶けそうだと思いながら、わたしは、ふと目を開けた。
上にはきらきらと揺れる光と、それをカーテンのように通す、緑色の透明な水。
あのガラスを割ったような強い光があるのが、水面だ。その証拠に、光が届かなくなるほど濁り、暗くなっていく。底は藻がどうしようもなく繁殖して汚れた、湖のようだった。
光に手を伸ばして、かざしてみる。指の隙間から、丸い光が零れた。
その零れた光に溶け込むように、指先が消えていった。
ほつれた布のように、指先が、髪が、つま先がほどけていくのが感じられる。ほどけた糸は、重さを忘れて、光に、水面に向かった。
このままだとわたし、ただの糸くずになって海に浮かぶな、と他人事のように思った時。
その糸を、誰かが繋ぎとめて結んだ。
光に消えた指先は、見間違いだったんじゃないかと思うぐらい元に戻っている。
ほどいて、結んで。まだ切れて、結んで。面倒な作業を、ずっと繰り返す。
自分の身体は、意識は、誰かによって織られ、編まれたものだと知っている。
身体を成す糸が切れて解かれて、結ばれるたびに、頭の中でセピア色や緑色の記憶が思い出される。
一本目の記憶は、緑色の記憶。
保育園の門の前で、お姫様のようにひらひらとした服を着た女の子と、そのお母さんがわたしとお父さんに話しかける。
『綺麗ね、緑の目なんて。外人さんみたい』
そう言って口元を上げる、女性の目の色は解らない。くぼんで出来た陰が、目元を見せない。
『この子も八蝶ちゃんみたいに、可愛い顔をしていればよかったんだけど』
女の子の小さな手が、ひらひらのスカートを掴んでいた。
『せめて愛想ぐらい良ければよかったのに、可愛くないったら。うちの子と交換してほしいわ』
――6歳のわたしにはわかりませんでした。どうして、自分の子どもを卑下してまで、他所の子どもを、それも目の色を褒めようとするのか。
その子がひどく傷ついているのが手に取る様にわかるのに、どうしてこの人は女の子を見ないのでしょうか。
そのことを拙いながら話してみましたが、『八蝶ちゃんは、大人みたいな考え方をするね』と言われるだけでした。
わたしが「大人」であるか、じゃなくて、彼女を見てほしいのに。
二本目の記憶は、小学校一年のセピア色の記憶。
お便りのプリントを見ていると、漢字を間違えていたので、担任の先生に伝えた。すると担任の先生は、湯気を出して怒り狂った。
怒鳴り散らされることで長引く帰りの会。しまいには、
『頭がいいからって、わたしを見下しているんでしょう』
『勉強だけ出来ても駄目ね。性格が悪い。可愛いからって甘やかされたんだわ』
と、言われた。
またある時には、同じクラスの女の子に、
『ブスがかわいいって勘違いしている』『可愛いって鼻にかけている』と陰口で言われた。
――7歳のわたしにはわかりません。間違いがあることと、頭がいいことと、可愛いことと、見下していることに、何の関連性があるのでしょうか。
わたしは自分が頭がいいとも、かわいいとも思ったことはありません。他人から外見をよく褒められますが、それは顔と言うより、『緑色の瞳』に希少性があるからです。
愛されて育ったと思います、でも一通りの礼儀作法は学んだはずです。見下したことだってないはずです。……でもそれは、自分の採点が甘いからでしょうか。いつも、「あなたは整理整頓がよくできた」という欄で、できる、に丸をつけたくなるように、わたしは皆が言うような嫌な奴だということを見ないふりしているのでしょうか。
わたしがわたしである、ということには、何の信頼性もないのでしょうか。
三本目の記憶は、男性教師に言われた言葉だけ。
『……は、女にしちゃ、身長が高いな』
『……は、女にしちゃ、随分力があるな』
『まあ、外人の血を引いているから、当然か』
その時わたしは、クラスの中で誰よりも身長が高く、腕相撲で優勝していた。昔からずっとそうだった。
――10歳のわたしにはわかりませんでした。どうしてわざわざこの先生は、『女にしちゃ』と言うのでしょう。その言葉には、『女は男より劣っているのが当然だ』というニュアンスも見えたし、なにより『お前は女として例外だ』という言葉がにじんでいるように思えました。『外人』という言葉にも、『お前は純然な日本人じゃない』と言われているように思えました。
でも、もう問いただすことも面倒です。この時点でわたしは、三度引っ越していました。転校は二回ほど。もうすぐ、四度目の引っ越しと三回目の転校になります。
ずっとわたしは、水面で漂う浮き草のようだった。
自分の目が、黒くないことも。父親が外国で生まれ育ったことも。子供っぽくないことも。自分の性別に違和感があったことも。引っ越しをずっと繰り返していたことも。
全部わたしを成す要素が『例外』だったから、どこにも属せなかった。色んなグループを、ずっとあちこち、つまみ食いするように漂っていた。
それが寂しいと思ったことはあっても、嘆いたことはない。だって最初からそうだったし、そういう自分にしかなれない。
ああ、でも、今の自分があの頃に戻れるなら、
「いちいち口にするなッ‼」
って、叫びたかった。
いつの間にかわたしは、水の中じゃなくて、黒い背景の空間にいた。そこにはスポットライトが当てられたように、人の姿がくっきり浮かぶ。
わたしじゃない、緑色の目をした別のわたしが、もう一人そこにいた。
「見りゃわかるだろうが、わたしの目が緑色なことぐらい! そんなに、わざわざ言わなきゃ、そんなにわたしは異常かよ‼」
胸を掻きむしって、泣きわめきながら叫んでいた。
「色に意味なんてつけるんじゃねえよ‼ 『嫉妬深い』ものでも『魔性』でも、世界で2パーセントも、優性遺伝子も劣性遺伝子も何の関係もない!」
人は、目の前にあることを、そのまま受け入れられない。
験担ぎだったり科学的な根拠だったり、何かを意味づけようとする。そしてそこに、優劣を求める。
それは、様々な属性に言えることだった。
人は、『優』であれば言っていいこと、正しいことだと思っている。褒めたたえることなら、何でも決めつけていいと思っている。
どうして。悔しくないのですか。
『男は女より力が強いから、何時だって簡単に痴漢やレイプが出来る』と思われながら、電車や夜の街を歩くことに、
どうして、そんなにも平気な顔をして生きていけるのですか。
「わたしの身体だ!」
もう一人のわたしが、叫ぶ。
「瞳の色も髪の色も性別もっ、わたしがどう思うかだって、わたしが好きにしていいはずだ! 他人が決めつけんな! 全部わたしのもんだ! 勝手に使うな! 口にすんな!!」
全部わたしのものだ。
そのはずだ。
なのに。
「……全部、わたしから零れ落ちていく」
もう一人のわたしは、そこで砂のように崩れ落ちた。
……わたしは今、どんな顔をしているのだろう。
自分の意思で、瞳の色も変えた。性別もその時その時変えられるようになった。顔も変えた。
自由になった分、しがらみもほとんどなくなって、ますます浮き草みたいに漂い始めたけれど。
何も言われたくなければ、誰もいないところで、一人になればよかったかもしれない。
でも、わたしは、自分の瞳の色を見ることが出来ない。
自分がどんな表情をしているのか、ちゃんと確かめられない。
自分がどういう人間かすらも、一人じゃ何も、わからないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます