ケイ視点 恐怖と執着

「……これが、『玉藻の前』の、本当の目的――『女の蜘蛛』なのか?」

 おれの言葉に、隣にいた八蝶は何か考えていた。


 そして、あ、という言葉を呟いた。


 激しくぶつかる波音を裂くように、ザリ、という、砂利で皮膚が擦りむいた音がする。


「……八蝶やちよ?」


 八蝶は、崩れるようにして倒れていた。

 八蝶の目は、前髪に覆われて見えなかった。だが呆けたように開いた口の端からは、唾液が流れている。

 出血や痛みよりも、嗅覚をやられたのがまずかった。殴られたように頭痛が走り、肺に入り込む。筋肉が強張り、反射神経が鈍る。


 巨大な蛸の触手は、おれが反応する前に、意識を失った八蝶の身体を浚った。


 その太い触手なら一本で充分だろうに、その動きはまるで八蝶を捕食するかのように、いくつかの触手を使って運んだ。

 そうして、頭部と思わしきてっぺんに、持ち上げていく。


『蛸の頭はね、頭じゃなくて胴部なんだよ。そこに心臓があるんだ。八本あるのは脚じゃなくて腕だね』


 八蝶の言葉が、頭の中で蘇る。そんなこと、今は思い出している場合じゃない。

 今すぐ動いて、触手を鉤爪で切り落として、八蝶を取り戻さなければならない。

 ならないのに、身体は全く動かない。

 触手によって持ち上げられた八蝶の身体は、まるで食虫植物に捕まった虫のように、蛸の胴部に吸い込まれた。

 吸い込まれた、というより、埋め込まれた、沈みこんだ、という表現が正しいだろう。

 混濁した黒い蛸の胴部が、透明な緑色になって、朝日をビー玉のように通した。その中で、人の影が静かに落ちていく。

 何の色もついていない小さな気泡が、八蝶の身体から出て上へのぼり、そして消えていった。


 大気が揺れた。

 空中にある水滴一粒一粒を揺らし、身体を震わせる。


 それまで、そこにあるだけの蛸の身体は、ただ風や波にそって揺れて動いていただけに過ぎなかったことに気づく。

 今、蛸は、電池を入れたロボットにスイッチが入ったかのように、何かの意思を持って動き始めた。

 ここに来る前に、コウモリ人間たちがおれたちを襲って来た。八蝶はそのコウモリ人間たちを「喰った」。

『蟲』は、喰うことでエネルギーを蓄積していく属性だ。あの蛸は、大量のコウモリを食べた八蝶を「喰う」ことで、エネルギーを獲得してしまった。


『玉藻の前』の狙いは、コウモリ人間を八蝶に食べさせたあと、八蝶を蛸に「喰わせる」ことだったのか。



 八蝶を取り込んだ蛸は、また胴部を黒く混濁した色に変えて、街へ向かおうとしていた。

 市街への被害は、今はまだ結界で抑えられるだろう。しかし風圧や波浪だけで、砂浜付近の地面や木々はなぎ倒されている。結界を破壊されるのは時間の問題だ。


 そしてそれを止める方法を、今おれは持ち合わせていない。

 持ち合わせていそうなのは、この儀式を行った張本人――『玉藻の前』だけだ。


 砂浜から走って、脚力のみで海を渡る。

 山の中腹、木々が避けられた場所に聳える巨岩。その上に座る狐は、下界を見下ろすかのように、優雅に足を組んでいた。

 その首元を狙って、おれは鉤爪を振り下ろす。


「くどい」


『玉藻の前』の尾が、鎌切のように弧を描いて下から突き上げられる。

 刃のように硬い毛は、まるで針山のようで、密集した凶器はおれの腹を目掛けてえぐりにかかる。

 鱗で覆った腕で防御して、攻撃を流す。身体は尾によって吹っ飛ばされた。

 そのまま海へ落ちる前に、大蜘蛛に変身していたヒビキによって受け止められる。

 蛸の動きが読めない以上、ヒビキには隠れて様子を見てもらって正解だった。


「悪い、ありがとう」


 ヒビキの背中の上に立つ際、左腕で右腕を抱える。攻撃を受けた右腕は、骨が砕かれていた。少しすれば回復するだろうが、今攻撃されれば今度こそ死ぬだろう。

 少し腫れた瞼をなんとか開いて、『玉藻の前』を見上げる。

 ぼやけた視界は、尾が着物の帯のように、『玉藻の前』の腰に巻き付くのを捉えた。

『玉藻の前』は凍った表情で、おれたちを見下ろしていた。

「知識がないのは許せますが、遊びがないのは許せませんね。もう少し智慧あたまを使えないんですか?」



「……おれは、心が無いからな」



「はい?」

 口が滑った。

 少し考える素振りをして、ああ、と『玉藻の前』の威圧的な声が和らいだ。


「あなたのお名前、『ケイ』でしたっけ? 心が無い、ということは、『智慧』の『ケイ』から心をとって、『彗星』の『ケイ』になる、ということですか」


 ふうん、と『玉藻の前』が言った。

「あなたがクトゥルフあれを見て発狂しないのは、知識がないから発動しないのかと思いましたわ」

 違うのでございますね、と『玉藻の前』は言った。



「あなたは、あなたの名前に既に『見立て』られていた。――発狂する心すらないことを『見立てる』なんて、一体どんな親につけられたのやら」

「……」

「まあいいです。邪神クトゥルフを知らない人がいることぐらい、想定内ですから。ですがあれに対策がないことぐらい、恐怖こころがないあなたにもわかりますでしょう?」


「……それはどうだろうな?」


 おれの言葉に、ゆらゆらと動いていた尻尾が、ぴたりと止まった。

「八蝶はあの状態でも、策を考えているかもしれないぞ」

「…………わかっていませんね。もう八蝶さまに自意識は存在しないんです」

 はあ、と『玉藻の前』はこれ見よがしにため息をついた。

「八蝶さまが『邪神』と認識することで、蛸神に同化した。馬と鹿の区別もつかない人でもわかるように、簡潔に説明しているつもりなのですが。これでわからないとなると、つける薬が」


「じゃあなんで、八蝶と話したんだ」


 おれの言葉に、まくし立てるように喋っていた『玉藻の前』が黙った。


「さっきからお前は、おれたちを見下している。おれたちが同じ位置で話すのを決して許していない」


『玉藻の前』は、人を見上げない。それは伝承通りの行為だからだ。

『玉藻の前』は、人を見下しながら、人を屠る。見上げる時は、『玉藻の前』が人によって退治される瞬間だ。

 なのに、八蝶だけは上へあがらせた。


「八蝶に『正体を見破れ』と言ったのもそうだ。お前は、明らかに八蝶に執着している。――八蝶とお前が『同類』なら、その執着を自らの手で断つなんて出来ないはずだ」

「……わかったような口で、」


「おれは、八蝶の執着によって生かされているんだ」


 真っすぐに睨みつけて、おれは言い放った。



「おれがここにいるということは、まだ八蝶の執着は続いている」



 言葉の最後を覆いかぶせるように、

 後ろで、うなじを焼くような熱さと、爆発するような暴風が吹いた。



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