理解できるから理解らない
「……人に殺され、悪役を押し付けられた動物たちの復讐を果たすのが、あなたの動機ですか?」
わたしは尋ねる。
すると彼女は、はあ、とため息をついた。どことなく不機嫌な表情をしている。
「八蝶さま、わたくしとあなたは同類だと思っていたのですが」
「同類……?」
「他者が理解できないことが、理解できない。そう思う自分が、許せない」
その言葉を聞いた時、わたしは、自らの心臓を鷲摑みされた感覚に陥った。
その様子を見て、『玉藻の前』は、一等美しく、可憐に笑う。
『玉藻の前』が、両手を手につけて、こちらに傾いてきた。彼女の顔が、わたしの顔に近づく。火に揺らめく艶やかな輝きを持った黒髪から、甘いにおいがした。
激しく心臓が鳴り続ける。身体全体が熱くなる。
ねえ、八蝶さま。と、彼女の唇がゆっくり動いた。
「その瞳。――どうして、そんな色なんです?」
その言葉だけで充分だった。それ以上の言葉は不要だった。
この人は、わからないんだ。不合理なのに、徹底的に攻撃し虐め抜く人間の気持ちが。
だから、
彼女の指が、わたしの顎の線をなぞる。わたしの顔を映す、今の彼女の瞳は黒かった。とても黒くて、夜の湖面を見ているようだった。
彼女の唇が、わたしの唇に近づいてくる。
わたしは、顔をそむけることができなかった。いや、する気もおきなかった。このまま口づけをするのが、当然のように思えた。
キン、と刃と刃がぶつかる音がして、わたしは我に返った。
「……おやまあ」
尻尾をかざしながら、面白げに『玉藻の前』は笑う。
彼女の尻尾が喰いとめたのは、龍の鉤爪を振り下ろして跳んできた、ケイだった。
静止画のように、ケイの身体が浮かんだまま止まる。だがすぐに、尻尾に弾き飛ばされた。砂埃が、境内一面に舞う。
少し晴れた砂埃の合間からは、鉤爪が付いた手の甲で頬を拭うケイの姿があった。ケイは鳥居まで吹っ飛ばされていたが、態勢は立ったままだ。
同時に、わたしたちの頭上から黒い影が落ちる。
『蜘蛛』に変化したヒビキが、彼女の隙をつこうと背後から襲い掛かった。
だが、『玉藻の前』は振り向くこともなく、尻尾をバットのように振り回して、ヒビキを落とした。
直撃したヒビキは、そのまま崖から落下する――寸前で、わたしはヒビキをキャッチした。
「とっとと……よかった」
巨岩から乗り出したわたしも落ちそうになっていたが、何とかバランスをとる。
腕の中にスッポリ収まったヒビキは、ペシペシとわたしの頬を前足で叩いた。
「ああごめん! 隙を見せたわたしが悪かったです!」
ケイが動かなかったら、多分そのまま魅了されていました。甘んじてヒビキの前足キックを受ける。
「八蝶さま。あなたが『
尻尾をゆらゆらと揺らしながら、『玉藻の前』は立ちあがってケイを見ていた。
「悋気なんて、随分かわいらしいことをなさいますね」
ケイは『玉藻の前』を無言で睨みつける。
わたしは、「そういうのじゃないですよ」と言った。
「そういうのじゃないけど、ケイがいるからわたしはここにいます」
そうだ。だから、『玉藻の前』の言葉には、頷けられなかった。
「……あなたが言わんとすることを、わたしは恐らく理解しています。わたしたちと他の人間じゃ、知力の差が違う」
自分のことを「頭がいい」とは思わないが、少なくとも『玉藻の前』と共通点を見つけるなら、そこから生まれる周りとの齟齬と軋轢だろう。
彼女は恐ろしく頭がよかった。医者ですら、彼女の知識には叶わなかった。
でもその頭の良さは、『愚か』とされた女同士では共有されなかった。それを共有できる男は、彼女の頭の良さを性的な『価値』とでしか見ていなかった。
物語を読む限り、彼女は常に教える側だった。どんな人にでもわかりやすいように、引用元の経典を引き出し、例え話を出し、言葉を惜しまず尽くしていた。要するに彼女が周りと話すとき、「理解できない」人たちの理解のなさをカバーしていた、ということだ。
それは多分、言葉が違う人に、言葉を教えるのと同じぐらい負担だった。
人は頭を使わないで話せるのに、彼女は話す時、常に頭を使って、人に尽くさなければならなかった。対等に喋れる相手も、師と仰ぐ相手もいなかった。常に「頭の良い人」とされて、疑問を投げかけても答えてくれる人がいない。だから自分で何とかするしかなかった。
だけど、彼女の言葉への誠実さを、「見下している」と攻撃した人はいたのだろう。自分には持っていないものを妬み攻撃する気持ちを、彼女は持っていなかった。それを教えてくれる人もいなかった。皆、「妬む気持ち、攻撃する気持ちがわかっていて当然」だと考えていたから、寧ろ妬む人の方に回った。
知性ある『玉藻の前』には、劣等感が理解できなかった。彼女は誰かと比べて努力することもなく完璧だったから、誰かを肩書で差別したり、徹底的に攻撃する隙間がなかった。
だからその「攻撃性」すら、彼女は手に入れようとしていたのだ。
彼女は『悪女』を演じることで、知性なき人の「攻撃性」を手に入れようとしている。
「あなたとわたしは似ているけど、同じじゃないです。わたしは理解できないことを知りたいけれど、弄ぶ側だけはなりたくない」
わたしがそう告げると、『玉藻の前』は少し、寂しそうな顔をした。……多分それが、寂しがり屋な彼女の本当の『動機』だった。
だが、すぐに挑戦的な笑みに変わる。
「では。わたくしはこのまま、
パチリ、と、『玉藻の前』は指を鳴らした。
それと同時に、海の底から、なにかの声がした。
その時、さっきみた夢の音を思い出した。
ゴポポポ、という水の音と、低く、鳥肌が立つような声が響く。
頭が、痛い。気持ち悪い。
「……八蝶!?」
頭を抱え、ゆっくりと岩の上に崩れ落ちたわたしの姿を見て、ケイがこちらに跳んできた。『玉藻の前』は今度はケイの邪魔をせず、隣でわたしを見下ろしている。
暫くして、ピタリとその音はなりやんだ。
さっきまでの吐き気と頭痛が嘘のように止まり、わたしは顔を上げる。
その途端。
下に広がる海面が、爆発するように飛沫を立てた。
一直線に空を目指すロケットのように、その腕は海面を叩きつけた。
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