迫害された動物

 ヒュゥーと、石の裂け目をうねる様に通る風の音。その上に、ぽちゃん、と水の音が聴こえた。

 ヒビキがキュウン、と鳴くと、口からポウっと火が出てきた。火は蛍のようにふわふわと、わたしたちの頭上に浮かぶ。おかげで暗かった洞窟の中が、よく見えるようになった。わたしが先に歩き、ヒビキを肩に乗せたケイが後ろを歩く。

 滴るような形で固まった天井。赤い火に照らされた岩肌は、まるで服を着るかのようにコケとシダに覆われていた。その上からも盛り上がったり、へこんだ表面の陰影をはっきり映す。

 踏めばフワフワとした土と、コケに覆われた岩の感触がした。濡れたコケに足元をとられないよう、壁に手を添える。岩肌はゴツゴツとしていて、とても冷たかった。


 洞窟の中で、コウモリ人間たちのような妖怪に襲われる可能性も考えていたが、拍子抜けするほど何もなかった。


 ただ、怖い。


 これだけ自然にあふれた場所に、虫の気配すらないのが、気味が悪い。この時を象徴するコケもシダも、見せかけているだけのような気がする。

 まるで命の気配が、すべて絶たれているようだ。



 洞窟は長くなく、ある程度歩くと、外に通じる出口が見えた。外からは松明の火が見える。

 出口の手前には、明らかに人造的に作られた階段があった。ここは元々、通れるように作られていた洞窟だったのだろうか。

 洞窟を潜り抜けると、鳥居が目の前に存在した。その先には本殿へ続く階段がある。木々で奥の道が隠れているが、松明がわりの狐火がちらちらと漂っていた。

 後は狐火に誘われるがまま、階段を登る。

 階段を登りきると、もう一つ立派な鳥居が立っていた。そこを潜ると、境内のような場所が、火によって明るく照らされていた。


 小さな鳥居と、小さな祠がいくつか並ぶ。その中央に、黒塗りの寺院が建っている。神仏習合時代の建物なのだろう。

 木々が開けたところには夜空と下界が広がる見晴らしの良い場所があり、そこには巨岩が横たわっていた。


 岩の上には、『玉藻の前』が足を組んで座っていた。

 ただ、先ほどはなかった獣の尾が、炎のように揺れている。金の毛並みは闇夜の中でも輝いて、炎の周りで舞う火の粉のように美しかった。




「はるばるご足労いただき、ありがとうございます。八蝶さま」



 扇で口元を隠しながら、『玉藻の前』は笑った。

 胸元で揺れる扇の房は、狐の尻尾を模しているのか金色に輝いている。



「中々いらっしゃらないので、お迎えに参ろうかと思ったのですけど。迷われていなかったようで安心いたしました。色々と遮るものがございましたでしょう?」


 訳:もう少しこっちに来る判断が遅かったら結界を破ってたぞ。

 ってことですね、よかった間に合って。


「やっぱり、わたしに用がある、ってことですか?」


 わたしが尋ねると、ええ、と『玉藻の前』は言った。

 扇を畳み、艶やかな唇と白い歯が現れる。



「わたくしが手掛ける儀式において、八蝶さまほどふさわしい方はいらっしゃいませんから」



 嗤う口からは、獣の牙が覗いていた。

 ……薄々気づいていたが、やっぱりそうか。というか、『儀式それ』しか思いつかなかった。

 後ろに控えていたケイが足を踏み出そうとするが、わたしはそれを手で遮って尋ねる。


「それ、今すぐしないといけないことですか?」


 わたしが尋ねると、『玉藻の前』は目を丸くした。

 しかしすぐに、怪訝そうに目を伏せる。


「……どういう意味でございましょう? あなた方の上司を待つための時間稼ぎでしたら、その問いは無意味でしてよ?」


 ダメか。まあわかっていたけど。

 ただ、わたしが尋ねた動機は、時間稼ぎだけじゃない。



「――わたしは、知りたいだけです。目の前のことを、少しでも」



 だから、質問に答えてくれるなら、その時間が欲しかった。

『女の蜘蛛』が何を指すのかもわからないし、そもそも何で瓜生島を浮遊させたのかもわからない。わたしが儀式に「ふさわしい」とする理由も、……まあ何となく想像がつくけど。

 だけどそれ以上に、『玉藻の前』が、何の目的でわたしの前に現れたのかが知りたかった。

 わざわざ『自分の正体を当てて見ろ』と言った、その理由がわからない。


『玉藻の前』は、少し逡巡し、こう言った。



「……そうですね。でしたら、八蝶さま。あなただけこちらにお上がりくださいませ」



 その言葉に、ケイがまた乗り出そうとしたので、わたしはまた遮った。

 おや怖い、と『玉藻の前』が言う。



「八蝶さまのご希望を叶えるだけでございます。不都合であれば、わたくしとして構いませんよ?」



 ケイが厳しい目で、こちらを見る。わたしは大丈夫、という思いを込めて、少し笑った。そして、前に踏み出す。

 ケイは、力づくでは止めなかった。ただ背中から視線は、痛いほど感じる。


 岩の前に立つと、すらりと伸びた腕がこちらに差し伸べられた。

 その腕の先を辿ると、『玉藻の前』が笑顔で、わたしに手を差し伸べていた。



「この岩、登るのが結構難しいのですよ」



 その笑みは、先ほどの毒を含んだ笑みとは打って変わった、まるで木登りする子どものように屈託のないものだった。

 わたしは、その手を伸ばして掴む。

『玉藻の前』はわたしの手首をつかみ、力強くわたしを引き上げた。結構強く掴まれたはずなのに、手首は痛くない。


 岩の上に両手を乗せて、上を見上げる。

 地面を離れ、少し上に登っただけで、どうして風景はこんなにも変わるのだろう。

 さっきだって、星空は十分広いと感じていた。

 でも今は、自分が雄大な星海に漂っているように思える。



 なぜだろう。

 わたしはとても、自由になったような気がした。


「ほら。今日は、こんなにもきれいでしょう?」


 隣では、嬉しそうに『玉藻の前』が微笑んでいた。




             ■




 コポコポとお猪口に、透明無色の液体が注がれる。


「どうぞ」

「いや飲めません」

「ご心配なく。お神酒ではなくて、ラムネでございますよ?」

『玉藻の前』の言う通り彼女が持っているのは、『湯上りサイダー』というラベルが貼られた、縊れた形をしたラムネ瓶だった。

「いや、飲んだら戻れなくなりそうで」

 わたしがそう言うと、おや、と妖しく彼女は笑う。



黄泉戸喫よもつへぐいの方を心配しておりましたか。そちらもご心配なく。あの洞窟は、そういう意図ではございませんの」

「……薬が仕込まれていたり」

「ご希望なら、今から仕込みますよ?」

「それじゃいただきまーす」


 笑みが黒くなったので、慌ててグイ、と液体を飲む。

 しゅわしゅわと口に弾ける感覚。甘く、ほのかに酸っぱいかぼすの味。間違いなくラムネだ。割と香料が強い。鼻が利くケイが離れていてよかった。



「……油屋熊八は、温泉旅館にお酒を出すことを快く思わなかったそうでございます。湯上りにラムネが用意されたのも、熊八の思想を汲んだものかもしれませんね」

「そうなんですか?」

「いや知りませんけど」


 飲みながら、『玉藻の前』が言った。この人狐だけど、香料の匂いを嗅いでも大丈夫なんだな。



「……八蝶さまもご存じでしょう。この地ほど、宗教が激しく入れ替わったところはございません」



『玉藻の前』が、ポツリと話し出した。



「まずは土着信仰。元々ここは、海を制する海士・海女が権力を持っていたと言われております。ヤマト王権により、習合され、消された水神の名前は、そう少なくはないでしょう」

「……」


「ですが信仰は流動するもの。名を消されても、慣習が消えるわけではございません。習合しても、かならずその名残はあるのでございます。その中の一つが、あの洞窟でございました。

 八蝶さま。あの洞窟は『コウモリ岩屋』と呼ばれ、コウモリと水神を祀る場所だったのでございます。後に山岳仏教の修行場所となりました。……しかし」


 目を伏せて、『玉藻の前』は言った。




「九州の大名によってキリスト教が受け入れた頃、あの洞窟に住んでいたコウモリは、根絶やしにされたのです」


「……それは」


「中世ヨーロッパでは、悪魔サタンの羽などに用いられるほど、『悪』の存在と考えられておりました。また、魔女の使い魔、魔女の化身とも。……ヨーロッパ人からすれば、コウモリと女神を祀る洞窟など、甚だしいものだったのでございましょう。

 この瓜生島は南蛮交易も盛んでしたし、商人たちの心証を良くするためにも壊したのかもしれません」


 愚かでございますね、と彼女は言った。



「瑞獣であった狐を、国を亡ぼす存在として描いたのと同じでございます。動物は動物。それを人間はいつの時代も、



 まあそんなものは史実には残っていませんが、と、『玉藻の前』は言った。

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