7/7 AM1:00

 口から漏れて、小さなつぶになった息が、上に上がる。


 下は黒く、光が届かないのか、何も見えない。


 何だろう、これ。怖い。


 息が苦しい。音が気持ち悪い。暗くて不安。身体が思うように動かない。寒い。




 ぬめぬめした感覚が、わたしの身体をまさぐるように這い寄って来た。


 首を絞めつける。頭を押さえつける。足首を絡めとって沈めようとする。


 腕を伸ばしても、もはや海面がどっちにあるのかもわからない。


 水音とともに、なにかの声が聞こえる。

 ワンワン響く。声が割れて、何を言っているのかわからない。


 怖い。


 自分が、自分でなくなるのが、怖い――。












 はっと目を見開いた時、その重苦しく乗っかっていたのが、ホテルの布団であることに気づく。

 シワだらけになった布団は、ずっと照らすベッドサイドライトによって、その陰影を作っていた。

 重い布団をのけて、わたしは乱れた息を整える。

 この二人部屋には、わたししかいない。隣のベッドは空だった。ケイはまだ帰って来てないようだ。

 ケイ、君、少しは睡眠取ろうぜ……。

 自分の体力を度外視して、休むことを怠っているのが、幼なじみとしても同僚としても不安。まあ、タフなのは事実だから、肝心なところでバテることはないだろうけど。


 わたしは閉めていたカーテンを開ける。

 町の街灯はほとんど消えていて、外はより一層暗く感じた。はっきり見えるわけじゃないが、海面に異常はないようだ。

『女の蜘蛛』が何を示すのかはわからないが、儀式が川でおこなわれた以上、『女の蜘蛛』は川を下って海に来るだろう。予言では『川や海が血で染め上げられる』と言っていたし。

 非常時でもすぐ動けるように、売店で買った服を着て寝ていたが、寝汗でびっしょりになってしまった。一応体温計で計ったが、熱があるわけではなく、汗で身体を冷やしたようだ。すごく寒い。

 風邪を引くわけにはいかないし、べったりと油っぽくて気持ち悪かったため、シャワーを浴びて昨日の男物の服を着た。

 そしてふと、ケイがお寺から持ってきた荷物を見る。


 ……さっきから、ケイのバッグがゴソゴソ動いているの、全然気のせいじゃないよね?


 ゴクリ、と飲み込んで。

 わたしは青いメッセンジャーバッグを開ける。


 中には、ヒビキが潜んでいた。


「えー⁉」


 わたしが小さく叫んだのと同時に、ヒビキの耳がバッグの中からぴょこん、と立った。そして音もなくバックから飛び出す。

 ずっとこの狭いバックにいたのー⁉ と思っていると、何時もよりサイズが小さかった。いつもは長い尻尾も、身体のサイズに合わせて、それなりに短くなっている。相変わらず身長よりは長い尻尾だけど。


 そう言えば、お寺で着替えた時もバッグが動いていたな……。サイズを小さくしたのか、幻術で見えないようにしたのか。それでも窮屈だと思うけど。


 ヒビキはふんす、と鼻息を鳴らして、ケイのベッドへ行く。

 今まで隠れていたが、わたしに存在がバレたので、開き直って堂々と部屋にいることにしたらしい。ええ……。

 これどうしようかなあ。あの蠱毒の事件の犯人とあって、ヒビキは今『黄昏堂』福岡支部預かりになっている。無断で『黄昏堂』の結界内を離れたとなると、問題になるだろう。ヒビキの預りを渋った「本部」から文句を言われて、本部送りになる可能性もある。

『黄昏堂』の本部は東京にあるのだが、その主なメンバーは『京一派』と呼ばれる、格式高い家柄の集まりだ。奈良・平安時代にかけて京に仕えて来た陰陽師や道士の家である。


 一応局長も『京一派』に所属する陰陽師の家の出身なのだが、『伝統』に凝り固まった家に反発して福岡支部へ来たらしい。局長のそう言う所好き。――じゃなくて。


『京一派』は、組織の中でも強硬的な保守党であり、その歴史もあって、あまり九州を信用していない。土蜘蛛とか熊襲とか、磐井の乱とか、古代から九州はしょっちゅう反旗を翻しているので、怖いのはわからなくもない。福岡支部としても、すぐ制圧の手段をとる『京一派』に良い感情は抱かない。お隣の国と戦争するために、色んな面倒事押し付けて来たし。

 そういうややこしい政治関係があるので、何か怪しい動きがあれば、『京一派』は福岡支部にいちゃもんをつけてくるかもしれない。うーん……。


 まあ、そろそろ局長がこっちに来るんだし、その時報告すればいっか。


 とりあえずわたしは、ヒビキに向けて、「今色々危険なことしているから、あんまりわたしたちの傍を離れないでね」と伝える。

 しかしヒビキは知らんぷり。わたしの方には、丸めた背中だけが向いている。おい聞いているか。君、わたしに対して本当に反抗的だな。それなのにケイのバッグに入って、ここまで来るなんて。よっぽどケイのことが好きなんだなあ……。



 ――……八蝶やちよ。起きてるか?



 突然、耳ではなく、頭に直接届く声がした。サトシからの念話だ。

 ――サトシ? どうしたの? 異常発生?

 ――いや、特に用事があるわけじゃないんだけど。……ちょっと話、いいか?


 そう言われて、わたしは逡巡した。

 頭の中で選択肢は、「ヒビキを連れていく」「ヒビキを部屋に置いていく」の二択に絞られる。

 勝手に抜け出したヒビキから、目を離すのも躊躇う。こっちにサトシを呼ぼうかな、と思った時、ふと、サトシの心理状況を考えた。


 サトシ、幼少のヒビキがいたら、素直にモノを言わないな。


 何を言うのも言わないのも、サトシの勝手だ。けど、サトシもケイも、「その時遭った被害」を言うのが非常に遅い。特にケイは、4年経ってようやく「実はあの時ああいうことが」とか言い出す。当時に言ってよ! と何度か突っ込んだことがある。なんなんだアイツのあの神経は。深刻な被害を今ケロッと話すんじゃない。

 というわけで、二人きりで話す方がいいだろう。陽彦くんと一緒にいてもらう……いや、今寝ているだろうしなあ。まだ回復しきっていないし、非常時でもないのに無理に起こすのは忍びない。



 なのでわたしは、ヒビキを部屋に置いていくことにした。

 ヒビキはケイの帰りを待っているようだし、ホテルの部屋から勝手に抜け出すことはないだろう。

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