7/6 PM6:00




 わたしとケイは、それ以降喋らず、暫く小屋を見ていた。

 時間は18時近く。サトシと陽彦くんが出てから、30分経つ。異常がない。強いて言うならめっちゃお腹空いてきた。

『ファ〇チキはよプリ~ズ』と、サトシに〈念話〉を送ったその時。

 口を開いたのは、ケイだった。



「……においがする」

「におい?」



 ケイは龍蛇の〈憑き物〉だ。そのため、蛇の嗅覚も備わっている。蛇の嗅覚はかなり鋭く、鼻だけでなく舌で空気中の匂いや味を察知する。

 わたしには温泉の硫黄臭ぐらいしかわからないが、ケイがそれをわざわざ指摘するとは思わない。

 ケイは困ったように眉をひそめる。目の動きからして、何か言葉を探しているようだ。

 これが誰かとの対話中であれば、普段使うケイの語彙力や話題は把握しているので助け船を出すけれど、今はイレギュラーな情報についてだ。さっぱりわからない。


 どうするか、と思った時、サトシから念話が来た。



「……⁉」


 わたしはサトシの心の声を聞いて、その場に飛び上がる。

 ケイを見ると、ケイも聞こえていたようだ。顔つきがさらに険しくなった。


 ケイは腰巻の真ん中にあったファスナーを下ろす。ひらひらとマントのように揺れる腰巻。その下からは、古代ギリシャの人が履くような膝丈のスカートと、鍛えられた足に巻きつく黒い膝当てがついていた。



「飛ばすなら後ろ⁉」

「いや、前に来い」


 わたしはケイに抱きかかえられる。

 右手には杼を持ち、そのまま腕をケイの首に回した。ケイは自分の腕の上に、わたしの太ももを乗せた。



 わたしを抱きかかえるケイの身体が、少し沈む。――瞬間、ケイは地面を蹴った。


 砲弾を空に向けて打ち上げるように、わたしたちは飛ぶ。

 砂埃が空に巻き上がる。それよりも高く昇ると、高い笛のような音が耳元で響く。



 一瞬強い光に襲われて目の前が真っ白になる。が、すぐに目が慣れ、夕焼けの空が見えた。

 最後に透明な壁である結界を突き破ると、水面に墨汁を垂らしたように、風景が一瞬ぐにゃりと曲がる。



 そのぐにゃりとしたものがなくなると、眼下には温泉街が広がっていた。


 山々の手前に並ぶ、長方形の形をしたホテルの建物。色も形も、よく見れば違うはずなのに、全部同じように見える。

 煙突や地面から、あちこちに昇る湯気は飛行機から見下ろす雲海のようで、その雲は、夕焼けと街灯、建物から漏れる光によって、薄く螺鈿のように輝く。夕焼けの光は強いが、その分影は濃く、路地の様子は真っ暗で見にくい。



 その視界の中で、――いた!



「サトシ発見! 陽彦くんいない!」


 風に負けないように声を張り上げる。

 温泉街から少し離れた路地で、サトシは男に抑え込まれている。そこに陽彦くんはいない。

 ブロック塀で作られた路地を辿る。

 真逆の方向の行き止まりで、陽彦くんが背中から翼を出して飛んでいた。


 背景に溶け込むような色をした生き物が、陽彦くんを襲っている。腕っぽいものを振り回して、陽彦くんを捕まえようとする。その下を陽彦くんが飛びながら潜り抜けて躱す。

 ――なんだあれ。何か形はあるはずなのに、どんな形なのかがわからない。


 ともかく、サトシも陽彦くんも、襲われていることはわかる。



「陽彦の所にはおれが行く! ――行け!」



 つんざくような声でケイが叫び、投げるようにわたしを空中に放り投げた。

 わたしはケイを踏み台にしてジャンプするように、膝を思いっきり曲げ、両手を高く上げる。


 一瞬、身体がバラバラになったような浮遊感。

 その後、すぐに叩きつけられるような力で、わたしの身体は落下する。



「〈ソメさん〉!」

『任せろ』


 杼に繋がった糸が、わたしの周りを包む。

 わたしの身体を襲う風圧を極限に抑えつつ、落下スピードは変えない。

 木々や建物があっという間に通り過ぎる。情報処理が追い付かず、視界は機能しない。それでもどのあたりに落下するのかは覚えている。

 耳元で風の音がうなり続ける。不愉快な感覚をオフにして、わたしは足を伸ばした。



「らあっ――!」



 マウンテンブーツを履いた足を、男の頭部にえぐるように叩きつける。

 落下加速を乗せたその蹴りで、そのまま男は横に吹っ飛ばされ、歯と歯茎をむき出しにしたまま倒れた。


 着地して、足の異常を確かめる。うん、ひねってないな。


 その次に、傍で茫然と座り込んでいたサトシに向き合った。




「サトシ⁉ 大丈夫⁉」

「……っ」



 サトシが我に返って、最初に言った言葉が。




「何で来たんだよお前!」




 っていう怒鳴り声だった。理不尽。



「ケイは⁉ 陽彦は⁉」

「ケイは陽彦くんの加勢に行ってるよ。それより、これどういうことよ」


「俺が知るかよ! いきなり妖怪が出て、陽彦が対処していた時に、この男が……いやそうじゃない。小屋から離れてどーすんだよ!」


 つまり、現場から離れて助けに来たことに怒っているらしい。

 呆れてわたしはため息をつく。


「あーのーねー。あれだけ切羽詰まった念話が届いて、動かないわけに行かないよ」




 サトシは人の心を読むだけでなく、読めない人に自分の思考を送り付けることが出来る。人よりも高性能な受信機能と送信機能を持っているわけだ。

 だが、わたしたちがサトシに〈念話〉を送ることはあっても、仕事上でサトシが他者に〈念話〉を送り付けることは、殆ど無い。大概はスマホで連絡を取ろうとする。


 緊急事態に、自分の思考を、相手に読まれるのが怖いんだそうだ。

 自分はビビりだから、不安定な心をそのまま伝えてしまえば支障が出るだろうと。


 そんなサトシが出したSOSは、不安と絶望がむき出しになったものだった。


 サトシの爪は、猫のように鋭く伸びていた。きっと応戦しようとして変化したのだろう。だが、その手は小刻みに震えている。




「……」



 わたしはそれ以上、サトシに聞けなかった。わたしには、サトシがどんな傷を持っているかわからないからだ。無知のまま人の心の内に入れば、人を簡単に壊してしまう。


 とりあえず、わたしは吹っ飛ばした男に寄った。

 ぐるりとあたりを見渡すと、赤さびた飲み屋の看板ばかりある。繁華街か。休業しているのか、シャッターが沢山閉められている。

 薄暗い路地。電柱の光はポツポツつき始め、スポットライトのように男は照らされていた。

 大体、20代後半から30代前半と言ったところか。マッチョというわけではないが、そこそこ筋肉がついている。


 ……一般人の男が、〈憑き物〉のサトシを抑え込む、か。『融合型』の〈憑き物〉は、常人とかけ離れている腕力を重視される傾向にある。戦闘班への憧れを捨てられないサトシにとっては、屈辱的な出来事だろう。


 横たわる男の服装と所持品をチェックする。灰色のチェック柄のワイシャツに、ベージュ色のチノパン。財布は……ないな。ポケットにはタバコとライターとスマホ、それから飾り気のない銀のストラップがついたカギがある。切符やICカードの類は見当たらない。

 もう少し調査するか、と思った時。



 グイ、と物凄い力で引っ張られた。



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