歴史にいた女たち

 多くの女性は、陽彦くんの素顔を見ると、必ず失神する。

 多くの男性は、膝をついてその場で拝み始める。

 赤ん坊はあんぐり口を開けてヨダレを垂らしたまま瞬きもせず、年配の方はその場でうっかり天からお迎えが来る寸前。


 姫ちゃんは夜の虫を集める光のように性欲を抱くものを引き寄せるが、陽彦くんは太陽……いや爆弾? のように、人々を圧倒させる美貌なのだ。


 満員電車の場合、バッタバッタと乗員が倒れて電車が止まる。

 授業の場合、半数以上が保健室行き。テスト期間は(先生が)命がけ。

 日常生活に支障が出るレベルの美貌なのである。本人も周囲も。


 これは陽彦くんの造形の問題と言うより、周囲が彼の「妖気」に当てられている。むろん、それは引き金であって問題の本質ではないんだけど。

 なので妖気に耐性のある『黄昏堂』では、「なんかすごい美少年」ぐらいにとどまっている。……とどまっているかな? ちょっと自信なくなってきた。

 そんな彼が一番怖いと感じるのが女性で――基本的に彼は紳士的なのだが――通りがかっただけで、身が強張ってしまうという。見知らぬ女が常に・物陰に大量に潜んでいたら、そりゃ怖いに決まってる。

 そんな彼の恐怖に考慮し、わたしは彼と会う時は『男』の姿でいることにしているのだ。


「……よし」


 わたしは僧侶様から洗面所を借りて、身だしなみを確かめる。

 ケイが持ってきてくれたのは、青いカーゴパンツに茶色のポロシャツだ。髪も短くして、少し無造作にかき揚げる。

 わたしにあった胸の膨らみは消え、腕が少し骨太になった。どこからどう見ても男だろう。


 後は着ていた服をケイのメッセンジャーバッグに入れて返しに……。


 ……なんか今、床の上に置いてたバッグがもごっと動いてた気がするけど、気の所為だよね?







「女が恐怖って言ったって、『黄昏堂』の女は基本大丈夫だろあいつ」

 客殿に戻ると、呆れたようにサトシが言った。

「妖気に当てられないから、襲ってこないのわかってるし。そんな風に腫物扱いする方が、よっぽど傷つくんじゃねーの?」

「うるへー‼」

 サトシのもっともな言葉に、しかしわたしは半分泣きたい気持ちで返した。



「ほぼファーストコンタクトの時に、ほぼ女の下着姿のまま玄関で出迎えてしまったわたしの気持ちにもなりやがれー‼」


「バカなのお前⁉」


 はい、バカです。

 暑いからと言って、シャワー浴びた後にろくに着替えず、扇風機の前でぶおおお! していました。一応ブラジャーとホットパンツは履いていたので「ビキニみたいだしいっか☆」とか思ってました。チャイムが鳴ったので、そのまま自分の恰好を忘れて玄関に出ました。

 そこにいたのは陽彦くんでした。

 めっちゃ顔青ざめていました。

 そりゃ、ほぼ下着の姿で出迎えられたらね……あの頃の陽彦くん、ストーカーに狙われていて、本当に疲弊していたし……。

 しばらくわたしを目の前にすると、陽彦君の身体は少し強張っていた。それでもあからさまにわたしを避けずに丁寧に話してくれた陽彦くんは、本当に忍耐強い。


「ようやく信頼関係がマイナスからゼロに、そしてプラス(だといいなという希望的観測を持てるぐらい)になった今! これ以上下げるわけにはいかないんだよ‼」

「努力するポイントが間違って……いやあってるのか……?」

「サトシはどうなのさ! なんか恥ずかしい思いしてやらかして、陽彦くんから蔑みの目で見られたらどうする⁉」



「死ぬな」


 うん、とサトシは真顔で言った。

「あの善良がそのまま歩いているような奴に、下ネタでもかまして『何言ってんだこいつ』って目で見られたら、死ぬわ」

「でしょ……だから避けられる地雷は避けるんだよ、出来るかぎり……」

 本当に良い人なんだ、陽彦くん……。




「で、陽彦くんがいつ来てもいいように着替えたけど、陽彦くんを待っている時間がない。説明を進めていいかな」


「……時間がない?」


 わたしの言葉を、ケイがオウム返しして尋ねる。


「わたしの推理が正しければ、予言で言われた『女の蜘蛛』は今、準備を進めていると思うんだ」


 その言葉に、サトシとケイが顔色を変える。

「……わかった。進めろ」

 サトシの言葉に、わたしは頷いた。


 部屋を少し暗くし、スライドを動かす。



「大分は昔、豊前国ぶぜんのくに豊後国ぶんごのくにに分けられていたんだ。そのうち、豊前国は福岡県東部――小倉の一部とか門司区とか――と、大分県北部。豊後国は、今わたしたちがいる別府市とか大分市が含まれるね」


 国が分けられていたと言えど、豊前国・豊後国、そして愛媛県にあたる伊予国は、古代から海峡をつないで交流が頻繁だった。その軌跡は、古墳の副葬品や記紀からも伺える。


「このお寺もそうであるように、別府の神社仏閣は豊前国にあった宇佐八幡宮のお寺と、深い関係がある」

「ん? 『宇佐八幡宮』?」


 ここで声を上げたのが、サトシだ。


「あ、遮って悪い。でも確か……日本史の期末に出てきた気が……」

「うん、多分それ、『宇佐八幡神託事件』だね。769年の」

「年号まではちょっと覚えてねーけど……あれだろ、女帝とねんごろになってた道鏡に、天皇の地位を譲れーって神託が下されたヤツ。結局和気清麻呂が宇佐神宮まで行って『嘘だった』って言って、道鏡は追放されたらしいけど」


「一般的なイメージとしては合ってるけど、そのあたりを詳しく説明するには、少し遡らなくちゃいけない」



 わたしは次のスライドに進める。

 映るのは奈良の大仏と東大寺金堂(大仏殿)だ。


「奈良時代、奈良の大仏が建ったのは、二人とも知ってるよね?」

「鎮護国家ってやつだろ? 飢餓や内乱で荒れた国を、仏の力で護るってやつ」


「そう。その奈良の大仏の造営に全面的に協力すると託宣したのが、宇佐八幡宮の女禰宜――大神杜女おおがもりめさ」


「え……禰宜ねぎ?」


 サトシがさらに疑問を浮かべる。


「その頃の神社って、女が禰宜してよかったのか? 巫女じゃなくて?」

「今と違って、神の憑坐よりまし――便宜上巫女というけど、巫女の力は当時絶大だったんだ」

 元々禰宜という言葉は、「ねぐ(ねぎらう)」から来ており、神様を和ませたり、神様に意見を聞く人だった。

 禰宜は大体トップの宮司……なじみのある言い方だと神主の次に偉いとされるが、実質この大神杜女がトップだったと思われる。


 と言うのも、彼女の偉業は主に二つ。

 一つは禰宜(巫女)でありながら自ら尼のスタイルをとり、神仏習合を先取りしていたこと。

 もう一つは、東大寺の大仏造営事業に協力したことで、八幡神を伊勢神宮と並んで鎮護の神に押し上げたことだ。


 もちろん、この辺りは鉱物が豊富な場所だったため、その権力と資本力あっての協力体制だろう。しかしこの神託なくしては奈良の大仏は作れなかった、とわたしは思う。

 今じゃ八幡宮は、日本各地に支社・分社が存在する、有名な神宮だ。



「なんたって大神杜女は、聖武太上天皇、光明皇太后、そして女帝孝謙天皇の目の前で、紫の輿に乗ってたらしいからね?

 一説によれば紫の輿は、孝謙天皇と同じ扱いだと言われているよ」

「う、うわー……」


「さらに言うと、道鏡を天皇にしろって託宣したのも、同じく宇佐宮の女禰宜で憑坐の辛島からしまの与曽売よそめ


「えええええ⁉」


「こんな風に宇佐八幡宮の女禰宜は、国家を揺るがすほどの力を持っていた、っていうこと。授業では習わなかったでしょ?」



 けれどこの機を境に、宇佐八幡宮の女禰宜の力は弱まっていく。言わば、政争に負けたのだ。それでも権力自体は14世紀まで続いており、女禰宜たちは紫の輿に乗り続けたらしい。



「そもそも、北部九州は女性首長の名前や形跡が結構残っているんだ。古代、宗教と政治は一つだった。彼女たちの力は、かつていた女性首長たちの名残だとわたしは考えている。

 『豊後国風土記』には、五馬山の五馬媛いつまひめが土蜘蛛として残されているしね」

「……土蜘蛛か!」


 苦々しく言うサトシに、わたしは頷く。


 土蜘蛛。九州地方にいた「熊襲クマソ」とともに敵視され、まつろわぬ民の長としてヤマト王権に滅ぼされた後、中世を経て災禍や病魔を振りまく蜘蛛の妖怪として恐れられた。源頼光を始めとする頼光四天王に倒されたとして、能などの演目にもよく取り上げられる妖怪である。

 今では土蜘蛛を知っている人は少なくなっているが、現在の蜘蛛の妖怪への畏怖は、大体この土蜘蛛がベースになっているとわたしは睨んでいる。

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