ケイ視点 〈憑き物〉の在り方 1
洗濯物を干していたら、八蝶の部屋から物音がした。
部屋の持ち主の許可なく、ドアを開ける。
クローゼットやタンスからは服が散らばり、皺だらけになったものもあれば、無残にも千切れたり、爪で引き裂かれている。
本棚からは本が落とされ、広げられたページは変な折り目がついたり、紙吹雪となっていた。
おれに気づいたのだろう。たった今、枕を引き裂いていたヒビキが、こちらを振り向いた。羽を口にくわえる姿は、野鳥を捕った猫のようだ。
おれは床に散らばったスカートや漫画本を避けながら、ベッドの上にいるヒビキに近づいた。
「……ヒビキ」
ヒビキの視線に合わせて、おれは膝をつく。
「そんなことをしても、
出来るだけ優しい声になるよう、ゆっくり喋る。
親や先祖がわからない〈血族〉や〈憑き物〉――特に〈憑き物〉は、虐待されて育ってきた子どもが多い。特に身体が変化するタイプは、「化け物」と呼ばれて当然、という意識がある。『黄昏堂』に引き取られた後暫くすると、モノを壊したり、暴言を吐いたり、暴れたり、喧嘩が増える。
だからモノが壊れることには、皆慣れているのだ。本当に大切なモノを壊されたら局長に修繕を頼めばいい、という余裕が、団員にはある(過酷な労働環境だな、局長……)。
憂う点と言えば、ケガをしたら危ないという、その程度だ。その点ヒビキは、ガラスを割ってはおらず、布や紙に留めていた。紙で大きな目を切っていないことにも安堵する。
こうやってモノをわざと壊し、相手の態度をうかがう行動を「ためし行動」と言うらしいが……恐らく、ヒビキは違う。確信があった。
「ここにいる奴らは、お前にどんな嫌がらせをされても、お前を殺すことはない」
ヒビキは、殺されたがっている。
今まで、「死んで当然」だと、「生かしてやっているんだから
それなのに突然、ただの子どものように扱われて、人間のように扱われて。
「……辛いだろう。お前にとって、ここは。お前の幸せを願う人たちばかりだから」
何もしていないのに、ゴミもガラスも毒も入ってないご飯が食べられる。何もしていないのに、綺麗な服が着られる。何もしていないのに、クーラーのよく効いた涼しい部屋にいられる。気まぐれに殴る奴もいなければ、難癖付けて怒鳴る奴もいない。
――その優しいものを受け取るたびに、わけもわからないまま惨めになり、過去が後ろめたくなる。将来が不安になり、無性に悲しくなる。
世界が違う。優しさがなくても、生きていけた。少なくとも呼吸ができて動けるぐらいには。暴力を振るう人間に従えば、生きていけた。なのに今までわかっていた基準が、突然なくなって放り出された。なにかのせいに出来ないぐらい、眩しいほどの善人に、ひたすら心をかき乱される。
その惨めに感じる心を、
幸せであることが、悪いことなんて思うはずがない。
八蝶を責めているわけじゃない。まともな大人に愛されて育った人間には、共感はおろか、想像すらできないと言うことだけだ。
もちろん、八蝶をそう断じるおれも、ヒビキの境遇を完全に理解できるわけじゃない。
おそらくヒビキが向き合わなければならなかった現実は、おれの現実よりもはるかに過酷だ。
『そうかい。――それは、大人のエゴだね』
……昔話を思い出す。
以前、マッチ売りの少女の話をした時、八蝶が言った「大人がお金やご飯を与えて、子供として引き取ったら、こんなことにはならなかったのに」という言葉に、八蝶の母親が言った言葉だ。
八蝶は父親と長く暮らしており、おれも世話になっている。一方八蝶の母親は、海外のあちこちを移動して仕事をしているらしく、数回ほどしか会ったことがない。
だが、あの時窓際で語る彼女は、忘れようにも忘れられなかった。
『食べ物を与えれば、お金があれば幸せになれる、なんて──地獄を見ていない人間にしか言えないことだ。
マッチ売りの少女はね、死ぬしか幸せになれないと思うよ』
その喋り方は冷淡だと言い切ってもいい程で、とても一般的な母親が子どもに言う言葉には聴こえなかったからだ。
だが。今思えばあれは、現実をよく知った人の優しさだったのだろう。
家から追い出され、あるいは逃げてきた子供。放り出された路上で、何が悪いのか、何を信じていいかもわからず、人の良さそうな大人たちに否定され、傷つけられ、騙されて。
ただ、後ろ盾のない
その中を生きるために盗み、人を傷つけ、銃やナイフで壊して殺して、麻薬を売り、麻薬に手を出し、身体を売ったり買ったりする。ますます大人たちは、彼らに対して不快さを隠さない。
彼らのやっていることは犯罪で、子供たちにとっては不幸な環境だろう。だがそれが彼らの故郷であり、日常だった。
そうやって無垢のままでは生きていけなかった子どもたちが、突然価値観の違う世界に放り投げられる。
勿論、やり直したい、生まれ変わりたいと明るい未来を期待して入った子供もいるだろう。だが、今までいた環境を「汚い」「可哀想」「間違い」だと否定され、かろうじて自分で見つけた繋がりや関係を「せっかく抜け出されたのにまた非行に走られてはたまらない」と破壊されて、「そんなのことも出来ないのか」「なんでわからないのか」「何度言ったらわかるんだ」と、ハンディキャップに共感できない大人たちに、善意で踏みにじられてボロボロになって。
またスラムに戻り、臭う服を着て、薬漬けになって、アルコール中毒で嘔吐しながら、雪が降り積もる寒い路上にある不法投棄のゴミの中で死んだ。
それを見た大人が、
「また一人街のダニが死んだ」
と嗤う姿を、
「あれだけ助けてやったのに、厚意を裏切りやがって」
と怒る姿を。
彼女は、知っていたのだ。
『子どもは何の苦労も心配もいらない、無垢で無邪気で清らかで、将来があって大人に守られて幸せな存在……そういう枠に押し付けて、大人は綺麗だの美しいだの感動に酔うために、子供を使うんだよ。
マッチ売りの少女は、なぜ盗まなかったのだろう。本当に生きたかったのなら、理不尽で冷酷な大人たちの言うことに従うより、あるいは法や神様に従って清く正しく生きることよりも、選べたはずだ。あるいは、地元のストリートチルドレンと結団して、大人たちと戦争をすることも考えられたはずだ。
なのに、どうしてそうしなかったのか。
生きることは、奪い、搾取し、殺して、貪ることだ。どんな身分でも、どんな場所でも、誰もがそうして生きているし、大抵の人はそこから目をそらして生きている。
マッチ売りの少女は、
森を伐採して出来た大量の薪の火も、家畜から奪った命で出来た豪華な晩餐も、──それがマッチの火が見せてくれた幻想だとしても、彼女は幸せだったに違いない。
幸福に生きれば生きるほど、付きまとう後ろめたさも罪悪感もないまま、愛する祖母の元へ行けた少女。
これ以上の地獄を見ることなく、マッチ売りの少女はきれいな無垢のまま、微笑んで死ねたのだろう。
「……これを片づけたら、食堂行こうか」
ヒビキにそう言う。
おれの能力は、戦闘に特化したものだ。局長のようにモノを修繕することは出来ない。爪で破壊し、毒を撒き、炎を吐き、雨を降らせる能力。災害を形にした蛇の〈憑き物〉だ。
だけど、妖怪じゃない。
『君は、人だろう。――人だと言え!』
泥まみれになりながら、全身傷だらけになって、血が水に溶けて流れて行っても、必死に手を伸ばしてくれた奴がいる。
あれから、掃除も洗濯も料理も出来るようになった。
人だから、他のことが出来る。生きているのなら。
だから、どんなことをしても生きていたい。目の前の存在にも、そうやって生きていて欲しい。
何をどうすればわからない。ヒビキをただ苦しめるだけかもしれないが。
『だからね、八蝶。ケイ。君たちは――自分のために、生きなさい』
あの後、八蝶の母親はそう言った。
『誰かに綺麗だと思われなくていい。卑怯なことをして構わない。そんなの、誠実であろうとする人間なら必ず裏についてくるんだ。役に立つこともしなくていい。価値も自分を中心に考えなさい。じゃなきゃ、他者の価値の重みはわからない』
八蝶の母親は、人差し指を立てて、いたずらっ子のように口角を上げた。
『私との約束はたった一つ。……自分のしでかしたことは、ちゃんとしっかり、後悔することだよ。ああ、死にたくならない程度にね?』
「今日は、人が少ないらしい。八蝶も出かけている。お前の好きな、佐藤さんに会えるよ」
暫くヒビキは動かなかった。おれもそこから動かなかった。
「……梅ときゅうりの和え物、好きだろう」
おれの提案を飲んだわけではないのだろうが、その言葉をきっかけにヒビキの腰が上がった。ベッドのスプリングを利用して、音もなく軽やかに跳躍する。
おれが腕を伸ばすと、ヒビキの長い身体がすっぽり収まる。まるで固まる前の茶碗蒸しかプリンだな、と思った。
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