『やちよ』とケイ
わたしはとっさに、黒田君を庇って前に立つ。
「『やちよ』さんッ!」
遠心力で振り回され、頭に全部の血液がたまったかのように感じた。
白い糸に身体を拘束され、逆さまに吊り下げられる。足首、手首、腹部に胸部、ついでに首も絞められて苦しい。
しかし糸の主は、楽に死なせるつもりはないのだろう。暗い奥から、やがて月光に照らされた中央まで姿を現した。
――いや、姿を現したのは、頭だけだ。
吊り下げられて、見下ろして分かった。そこにいたのは、真っ赤な大蜘蛛だった。血を体現したような蜘蛛は、わたしたちが認識できる空間いっぱいに存在した。地面は、実は胴体や足の一部に過ぎない。足が動く度に、血の河のように波打っている。
こういう地獄絵図あったなあ、なんて、のんきなことを思った。
「あー……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
一応唱えてみては見たものの、牛鬼はひるむことはない。やはり、念仏では倒せないタイプの牛鬼か。それともわたしの棒読みが原因か。もしくは宗派が違うか、「南無妙法蓮華経」だったのか。
頭は牛と言うより、人の顔に近い気がする。──そりゃそうか。元は人だ、この『蜘蛛』は。
蜘蛛はカチリカチリと牙を嚙合わせた。だが覗かれる口の奥は、蜘蛛というより、人間の奥歯だ。
大きく口が開かれる。腐った卵のようなにおいが、むありと漂った。
その中でわたしは、圧迫されたお腹でなんとか大きく息を吸い込んで、吐き気と苦しさをなんとか堪えながら――思いっきり叫んだ。
「殺すなよ――――‼」
月が、一瞬消える。
丸い夜空から、何かが降りてきて、蜘蛛の顔はその何かの影に隠れた。
それはスカートをたなびかせて、落ちてくる。
絡んでいた糸がザシュン! と切れて、わたしはそのまま空中を舞う。その時、身体を抱えられて、蜘蛛の胴体の上に落ちた。
「――っしゃあケイ! ナイスタイミング!」
「またやっかいな注文つけたな……」
わたしが親指を立てて褒めたたえると、はあ、と、わたしを横に抱えて降りたケイが、ため息をつく。
オールバックの髪に、厳つく無愛想な顔。目は鋭く、強い光を放っている。赤と黒のスカートから覗く足は、揺れる蜘蛛の胴体でも動じない。
今は普通の腕だが、あのやっかいな糸を切り、わたしを助けたのは、ケイの爪だ。
「だ、大丈夫かー⁉ 『やちよ』さーん!」わたしたちより数メートルほど後ろにいる黒田君の声がした。
「あ、黒田君! 大丈夫!」
蜘蛛はこちらを見て呆けていたが、再び口をこちらに向けた。だが。
蛇ににらまれた蛙のように、一瞬で動かなくなった。
横抱きされたまま、わたしは蜘蛛を見ながら言う。
「おおー。さすがはケイ。『にらみつける』攻撃、効果は ばつぐん だ!」
「つっこむ時間ないから、手短に聞くぞ。――
わたしの名前を呼びながら、ケイが尋ねる。
八つの蝶と書いて、
そしてこの男はケイ。退治屋組織『黄昏堂』の戦闘員である。
「今北産業で言うと、『怪談はインスタント』『怪談は被害者』『怪談はバトルロワイアル』」
「特に理由がないなら殺すが」
「あの蜘蛛は人間! どっかのバカ術士が被害者を使って怪談の依り代にして、学校の鏡の世界で『
こんな乱雑な説明でもなんとかなるようで、なるほど、とケイは頷く。
「つまり、勝ち残った人間は出られる代わりに、『呪物』にされると」
「多分確実にそう!」
確かに蠱毒は、唯一生き残ったものだけが出られる。しかし、蟲の勝敗とは弱肉強食、相手を食べ尽くすことだ。相手を殺して生き残った奴は、負けた奴全員を取り込んで別物になる。――つまり、ここでケイが蜘蛛を殺してしまった場合、ケイは蜘蛛と合体してしまう。
幸い、今までの怪異との遭遇で、蠱毒を抜け出す方法もわかっている。わたしが出会った怪異たちは、途中でキレてピアノの演奏をやめても、転ばされてバラバラになっても、プチプチを投げられても、依代だった被害者たちは生きていた。そう、怪異自体は殺さなくても倒せる。
「要するに戦意喪失に持ち込めばなんとかなると思うんだけど、
「いや。だが、局長から連絡が来た。牛鬼は、西牟婁郡タイプだと」
「へえ⁉」
ここは九州なのになんで西牟婁郡タイプがいるのか、それはさておき!
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