8-4
一瞬、何を聞かれているのか、九十郎には、いえ、クトゥルフには解りませんでした。しかし、徐々にその意味を咀嚼し飲み下した時、反射的に答えていました。
「帰って良いなら帰る以外に何もないでしょうが!!」
「では決まりですね。さっさと帰りましょう。あ、そうだ」
黒郎は思い出した、と言わんばかりに一言付け加えます。
「もうこの世界にクトゥルフが来ることは無くなります。この世界には元々向こうからの一方通行でしたが、そもそも意識体が
「あれ? そうなの?」
「熾守は現に帰ってこれてなかったじゃないですか」
「言われてみれば、そうだわ」
「で、これからはそれすらなくなります。九十郎は“異世界の九十郎”に、あなたは“地球のクトゥルフ”に戻ります」
では、と、黒郎は九十郎に手を差し出します。この手を取れと、言わんばかりに。
「ま、また騙されたり?」
「ああ、良いですね。今度からそうしましょう」
「うっ、悪かったって」
その手を取る直前、龍姫が九十郎の傍にそっと座りました。
「殿、どこかへ……いえ、帰ってしまうのですか?」
九十郎はその一言に心臓が跳ねる思いをして、思わず龍姫に向き直ります。
「か、帰る? え、なんの、こと?」
「ご安心を。我らが殿が“二人いる”ことは、皆が知っていることです」
「二人、ってどういう? え、気づいてる? しかも皆が!?」
「いえ、どうなのでしょう? なんとなく、ですが……いえ、皆が、とは言い過ぎですね。しかし、龍は気づいております。我らが殿の、我が殿の……本質を」
彼女の目には、九十郎はどう見えているのでしょうか……本当に、クトゥルフを見ているのでしょうか……
龍姫は何かを九十郎へ差し出します。
それは、尖った物でした。一枚の板を加工したかのような薄い物で、円形の板から同じ方向に、二本の細い棒状の棘のようなものが出ています。
所謂、
「それは?」
「これは、件の鯨から取り出した骨です」
「“鯨”って……ニャルじゃねぇか。ってことはニャルの骨!?」
龍姫はそれを大事そうに、大切な物を見せるようにおずおずと九十郎へ差し出します。
「あの、殿……これ、頂いてもよろしいでしょうか?」
「え、あ、はい。そんなので良ければ」
そんな得体のしれない物で良ければ。
「ああ、では、殿、お願いがあります。あなたの手から、龍へ送ってくださいませ。簪は普段使いませんが、殿からの贈り物であれば肌身離さず持ちたいと思います。そして、あなたと出会った時には、こちらからまた、この贈り物を渡させていただきます」
九十郎は、その妙な形をした神話生物の骨を受け取り、受け取った相手へそのまま返します。しかし、龍姫はこのことをとても喜び、涙を流して言います。
「ああ、ああ、嬉しい。こんなにも嬉しいことがありましょうか……私は、幸せです」
その黒髪がさらさらと涙で濡れた頬を撫で、均整の取れた見目麗しい顔はほんのりと紅色が濃くなります。
しかし次第に、堪えられないとばかりに涙がこぼれ、嗚咽と共に顔を伏せてしまいました。
「いつか、またあなた様に会った時、今一度あなた様の手よりこれを私に送り返してくださいませ……いつか、いつか……」
その様とは対照的な冷めた調子で黒郎が言います。
「帰りますよ、クトゥルフ。それとも、残りますか?」
九十郎の中で少しの迷いが生じたその時です。龍姫が立ち上がり、背後から迫りくる徳兵衛の刀を手甲に仕込んだ暗器で受け止めます。
「おいこら女狐。泣き落としで贈り物を貰うとは、命が惜しくはないようだな……」
「贈り物を貰うのは当然では? 正妻ですもの」
二人がまた乱闘騒ぎをし始め、皆がインスマスとニャルラトホテプの肉を喰い、銀暮がヘドバンし、スケベコールで酒を呷り続ける御御御の家臣たち。
その中を、唐突に現れた九十郎の母君が悠然と歩いて来て九十郎の前に座ります。
「さあさ、母が腕を振るいましたよ、捨丸。天下人になろうとも、私には私の腕の中で天井を力強く睨む赤子の頃のまま。そうそう、あの頃のことに耽っていて思い出したのです。当時、捨丸に作ってあげると約束して未だに出してなかったですからね」
笑顔の母君が古い記憶の扉を叩き始め、嫌な予感をさせます。
「助兵衛殿、こちらへ、あの料理を!」
母の呼びかけに答え、ゴリラが現れます。肩に何か、木製の船を抱えて……
その時、九十郎に電流走る。彼の赤子の頃の記憶、そして先ほどの銀暮の言葉、それらから予測される未来は確定的に明らか。
ずばり、インスマスの活け造りです。
九十郎の前に置かれた和船のミニチュアには、インスマスの生首と、サシの入った何かの肉が煌びやかに並べられております。
九十郎は眩暈と溢れてくる謎の涙で、視界が歪み始めます。自身の呼吸の音と心拍の音が耳の中を圧迫する感覚に襲われ言葉がでません。
そんな九十郎を見た母君は、九十郎が喜びに震えているのだと誤解したようで……
「あの頃、捨丸が御父様の召し上がられている鯛の活け造りとろろ掛けを見て泣いていたのを思い出して……その時いつか作るからと約束していたのに、こんなに遅くなってしまって。ええ、よかった。泣くほど嬉しいのですね。では、次も作りましょう」
船盛の上のインスマスの生首の目がぎょろりと動き、九十郎を見つめた瞬間、クトゥルフは悲鳴を上げながらニャルラトホテプの手を取りました。
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