8-2



 何か使える物は、と見まわしましても頼れる仲間はみんな眼も精神も死んでます。あるいは、醤油壺しかない。

 考える時間も僅か、九十郎は一か八かでニャルラトホテプへ呼びかけます。


「しかしまあ、流石はニャルラトホテプ、何にでも変身できるんだな」


 バッハムート、ニャルラトホテプはこの言葉に反応を返しました。


「当たり前でしょう? 私を誰だと? なんにでもなれますよ!」

「え? 本当? じゃあ……もっとデカくもなれんの?」

「更に破壊を御望みとあらば良いでしょう! 絶望しろ!」


 空を圧迫するバッハムートは更に巨大になります。

 しかし、ニャルラトホテプがこちらの言葉を無視しないのならば、と九十郎の頭に事態を解決する案が浮かびます。


「え? じゃあ今度は小さくなれる?」

「は? なんで小さくなんて」

「あ、そっかぁ、デカくなるだけかぁ。なーんだ」

「なんだとはなんですか、なんだとは! 死をくれてやる!」

「じゃあ、この壺に入るぐらいの大きさになれる?」


 と、笑いながらカクカクと揺れている銀暮の傍にあった醤油の壺を指さします。

 ニャルラトホテプが答えます。


「いや、なんでわざわざ圧殺しようというタイミングでそんな小さくならなきゃならんのですか」

「じゃあ、代わりにこの壺に入りたい人!」


 九十郎は醤油の壺を高々と掲げて周囲に呼びかけます。


「じゃあ、拙僧が入りまする!」


 と、銀暮が名乗り出ます。


「ずるい! 捨丸が持ってる壺なら兄が入る!」


 と、名乗り出た徳兵衛。


「ずるい! ならば龍が入りまする!」


 と、龍姫が続きます。


「じゃあ私が!」


 と、誰だか分からない人が。


「私が!」


 いや誰だよ。

 次々に連鎖するように、誰もかれもが自分も自分もと名乗り出ます。

 そして、最後に空に浮かんだ巨大な魚が言います。


「せっかくなら私が!」

「どうぞどうぞ」


 その場にいる全員が、何かに操られたかのように声を揃えて言いました。

 空に浮かんだ巨大な魚は見る見るうちに小さくなり、九十郎の持つ醤油の壺に入るぐらい小さくなりながら落ちてきます。

 ニャルラトホテプが壺に入る直前に言います。


「いやそこは私じゃなくて、クトゥルフが入るって言うところでしょう!? おのれ、ギャグワールド!!」


 九十郎が即座に壺の蓋を閉め、それを脇に抱えて走り出します。熾守の屋敷の崩れた壁から跳び降り、御御御家の軍勢が戦で起こした火元を、煙の発生場所を目指して走ります。

 壺の蓋が何かに押し開けられそうになるのを抑え込み、その内側から得体のしれない物が壺を叩くのを聞き流し、一目散にめらめらと燃え上がる火元へ。

 そして火の中へ、そのまま壺をねじ込みました。


「まさかまさかの、ニャルラトホテプの醤油漬け、いや、つぼ焼き? つぼ焼きは別の料理か……」


 火の粉を払いながら、九十郎は壺から、火元から離れました。

 そこへ誰かが声をかけてきます。


「おや、誰かと思えば、九十郎様ではありませんか」


 声の主は、腰ほどまで伸びた髭を腰帯で止めていながら、それほど年を感じさせぬ伸びた背筋をした老人でした。頬にまで届く長さの眉と垂れ目で微笑みながら……インスマスの首を片手に持っていました。

 彼は、いつか智爾ちじの辺境の村、かつて敵対していたれんの国との境目に位置した村に居た奇妙な老人、ケタミキです。

 声にならない悲鳴を押し殺した九十郎に、ケタミキは穏やかな笑みで戦勝を祝う言葉を口にします。顔には返り血がべっとりですが。


「この度の勝利、我々、智爾の民は誠に喜ばしく思っております」

「え、あ、そう、ですか」


 片方の視界の端で揺れるインスマス首、もう片方の視界の端で醤油を押しのけて火元から膨らんでくるニャルラトホテプ、その二つの衝撃に九十郎の精神は悲鳴を上げそうでした。


「ん?」


 九十郎は視界の端に写っていた映像を改めて直視します。首の方ではなく、膨れ上がる謎の肉に関して。

 それは火の中に在りながら、火を押し返す様に膨らみ続け、もはや収まっていた壺はおろか、見上げるほど巨大になっていきます。

 そして、その肉塊が……ニャルラトホテプが口と思しき穴を開きます。


「よくも、よくもこの私を……」


 周囲の誰もが、唾を飲み込みます。なにせ……


「こんなこうばしい匂いまみれにしてくれましたね!」


 周囲に焦がし醤油の美味しそうな匂いが立ち込めていますから。

 香ばしい香りに包まれたニャルラトホテプが、膨れ上がった巨大な肉をこねくり回して自身を成形し保とうとしながら言います。


「ああもう! シリアスが息してないじゃないですか! ギャグに、ギャグ空間に勝てない! だが、だがまだだ! 誰かが死ねばギャグではない。すなわち、周囲の者を殺せば、死ぬのはギャグの方だ!」


 これを見ていたケタミキを始め、御御御の軍勢。その視界に写る外宇宙の人智を越えた存在。精神が摩耗し発狂し、彼らの脳は一つの答えに達しました。

 その巨大な肉塊を前に、ケタミキが言います。


「鯨じゃ……」


 それに応えるように、肉塊姿のニャルラトホテプに

 これに困惑したのは他でもないニャルラトホテプでした。しかし、邪神が動揺するより先に、次々に銛が撃ち込まれ、更には誰かが肉塊に飛び掛かり息の根を止めにかかります。

 九十郎は思わずその場から逃げ出します。


「う、うわぁぁ! 一狩りされてるぅぅ!! 背中に乗り込んで鉱石採掘できる系の狩猟みたいにされてるぅぅぅ!!」


 もはや何が何だか分からずに逃げ出した九十郎の背後から、御御御の軍勢の誰かの、この邪神を邪神とも思わぬ異世界の誰かの、吼えるような声が聞こえました。


「鯨じゃー! 大量じゃあー!! 醤油に付け込んだ鯨じゃー!!」


 いいえ、神話生物です。



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