7-5



 銀暮はまた眼を大きく見開きながら、興奮した様子で続けます。


「その証拠に、殿の走った道すがらの諸侯は皆、今回の下剋上へ出兵を惜しみませんでしたぞ! まさかまさかのあの移動の速さで各諸侯を御御御家へ吸収し出兵の約束も取り付けるとは、熾守殿も夢にも思わなかったことでしょう」

「は? なんで? というかその人らと面識ないぞ? ……あ」


 ふと脳裏に浮かぶ、九十郎の父の言葉「クトゥルフの名前聞くだけでみんな狂っていくとかマジで怖い」

 つまり、九十郎が移動した道中で九十郎を見た人、その人から話を聞いた人、そのまたうわさを聞いた人、それらの人々が片っ端から狂人になっていった、と。

 そうはならんやろ。


 そうこう話しているうちに、加陀須のあちこちで勝鬨の声が上がり、ものの数分で制圧してしまったことが解ります。所々で火の手が上がり、いくつかの場所で火災が起きています。

 懐かしのゾスの建築様式、見慣れたインスマスのような者ども、それらが有無を言わさずに制圧されていく様にどこか郷愁を覚える九十郎です。

 などとノスタルジーに浸っていると、誰かが背後から抱き着いてきます。


「やりましたね、殿。龍もまた嬉しく思います」


 それは意識を取り戻した龍姫でした。

 九十郎は龍姫へ向き直り、その様をまじまじと見ました。

 龍姫は、あちこちに怪我を負いながらも気丈に九十郎へ微笑みます。どこか弱弱しく儚げにも思えるその姿に九十郎は言います。


「龍姫、お前……」


 視線はその背後へ向きながら。


「離れた方が良いぞ。このままだと我々揃って兄上に刺殺されそうだ」


 そこには悪鬼か修羅の如き表情で龍姫を睨む徳兵衛が佇んでいました。


「おいこら女狐。捨丸から離れろ。弱ってる振りとか目障りだぞ。そこから離れろ。私の捨丸から離れろ」

「あら兄上様、頭でも打たれました? いつ我が殿が兄上様の物になったと? 頭をもっと強く打つべきでしたのに」


 少しにらみ合った後、ほぼ同じタイミングで両者から拳が出ます。お互いの拳がお互いの顎を捉え互いによろけます。そこから踏みとどまり、また殴り合いの喧嘩を始める二人、仲良いですね。

 そこへ銀暮が、半壊した熾守の屋敷、九十郎たちが居る謁見の間まで上がって来て、九十郎の前で臣下の礼をとって言います。

 なにやら、脇に壺を抱えていますが……


「改めまして、下剋上の策、成功したことをお喜び申し上げます! これにて、殿の天下、殿の世が訪れることでしょう! めでたい! 実にめでたい!」


 なんだか異世界転生系主人公っぽいことを結果的にしていた、いまだ実感がわかない九十郎へ銀暮が続けて言います。


「つきましては殿による天下統一のために、内政や各諸侯への視察に各地の行政の改革と軍の掌握と……忙しくなりますぞぉ、殿!」


 九十郎はさっきから気になっていたことを銀暮へ聞きます。


「うん。ところで、その壺は? 戦道具ではないよね?」

「これですかな?」


 蓋の付いた一抱えほどの大きさをした陶器の壺を開けながら銀暮が言います。


「これは溜まりです。溜まり醤油ですよ」

「なんで戦場に醤油?」

「道中の様々な幸、珍味を潜らせたこれは、それはそれは美味い溜まりに違いありません」

「いや、そんなことは聞いてない」

「これから忙しくなる殿のためにと、この銀暮丹精込めて用意をいたしましたぞ」


 と、ここで忙しくなる、の一言で九十郎の眉間にしわが寄ります。


「え? 忙しくなる?」

「え? ではなく。天下統一はもはや目前ですから。ここからが忙しい時です」

「え? どういうこと?」

「え? ではなく。天下統一はもはや目前で」

「いや、聞こえなかったわけじゃないのよ」


 銀暮は耳まで裂けんばかりに開いた口から、更に続けて言葉を発します。


「とはいえ、まずは勝利を喜びましょう。宴など催すのがよろしいかと思います」

「やだ。忙しくなるなら寝貯めするんだ。五十年ぐらい寝貯めするんだ」

「既に宴の用意は進行しています」

「いや、宴開くかどうかOKもGOも出してねぇじゃろがい!」

「道中で既に宴のための食材は収集しながら来ております。醤油はお任せ!」

「準備が良すぎる! いやよくねぇ、醤油しかねぇ! というか会話になってねぇ! 狂い過ぎてて話にならねぇ!」

「殿も楽しみですかそうですか」

「かつてこれほどまでに期待できない宴があっただろうか」


 徐々に眩暈を覚え始めた九十郎に、銀暮は一言を発します。


「ご安心ください、殿。宴の席には」


 九十郎の視界の端に、浅黒い肌をした男が映ります。



 その男、顔があるべき場所には、うろが開いていました。





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