7-2
思わず、九十郎はそのニャルラトホテプを両手で叩こうとします。
「おいこら! なんで叩こうとしてるんだ寝坊助蛸!」
九十郎の目の前には蠅にしては大きい、小さな蠅がせわしなく飛び回っています。
「いや、反射で。つい」
「反射か。じゃあ仕方ない……わけねぇだろうが! 死んだらどうしてくれる!」
「あ、良かった。お前は顔見知りのニャルラトホテプだな」
「無貌の神と顔見知り、とは」
九十郎は、動かなくなった門番の死体を見ます。
「あれなんだけど……」
「ああ、あれですか。懐かしっ。生きてたとはなぁ」
ニャルラトホテプは、水の中に半分沈んだ門番の遺体の上に止まり、九十郎へ言います。
「『トカゲのしっぽ』ですよ。ニャルラトホテプ千の顔の……0.1ぐらい?」
「え? トカゲのお尻にはそんな胡散臭そうな人型のニャルが生えてるの?」
「その昔、といっても私にとってはつい昨日の出来事だったんですが……」
「スルーされた」
ニャルラトホテプは蠅の姿のまま、どこが肩だか解らないものの何とはなしにそれっぽい動きで肩をすくめて見せます。
「過去に人間の船にどつかれて霧散したクトゥルフの精神の一部を、クトゥルフの体に戻ろうとするところで脇から回収したんですよ。そうすると次回の目覚めまで時間がかかるんじゃないかなぁ、って思い付きで」
「思い付きかよ……いや、待った『過去に』? 今回の話じゃなく?」
「ええ、過去ですね。で、考えなしにこの世界の成体男性に、分離した寝坊助蛸の精神の一部をぶちこんだら思ったより馴染んじゃったみたいで……直後にその分離体がぶちギレて私を魔術で攻撃してきたんですよ。もう少しで私は粉みじんにすりつぶされるとこでしたね」
「ニャルがすりつぶされる魔術って、そんなん外なる神の大物でもない限り不可能じゃ……え、もしかして?」
「ええ、そのもしかしてです。よりによって、その外なる神の肉体の一部を召喚して、その質量で潰されるところでした」
この場合の外なる神とは、ニャルラトホテプが仕えている(あるいは世話している)人智を越える宇宙規模の巨体を持つ邪神のことです。だいたいは寝ているか、広大な宇宙においては塵芥のような人間には興味がない(あるいは目に入らないほど“こちら”が小さい)という者がほとんどのようです。
この外なる神の端っこ、指先(どこが指かも分からない外見をしている者ばかりですが)を呼び出す魔術があるのですが、これがごくわずかな端っこでありながらも、周辺地域一帯の万象を文字通り粉みじんにするほどの質量があり、すなわちそれを振るわれるということは「決して生かして返さない意思表示」でもあると言えます。
さすがの邪神でもこの威力の攻撃を受けると痛手を負いかねません。なので、当時のニャルラトホテプがどうしたかというと……
「仕方がないので、私のごくごく一部を切り離して私のフリをさせて、『
「おまえ、自分の分離体にも厳しいのな」
「なに、千の顔を持つ邪神のうちの一つにすら満たない分離体です。あれは私として扱っていません」
九十郎は門番が「この時までの契約のはず。自由にしてほしい」と言っていたのを思い出しました。
「そういやそんなこと言ってたっけ。あれ? もしかして、私はあっちの“余の分離体”の策略でまんまと呼び出されて、もう少しで吸収されるところだった?」
「いや気付いてなかったんですか? まぁ、私もちょっと手を焼いてたんで、あなたを新たにこの世界に転生させて、アレの対処をさせようと思ったんですよ」
「おい」
「おもちゃにするためにこの世界に呼んだのではなく、あなたという餌があれば、むやみやたらと邪神パンチで攻撃してこないだろうと」
「肉盾の扱いじゃねぇか!」
「ああ、でも、あなたが吸収されたら詰みだったんで、あの二人に感謝してますよ。ええほんとに」
今なお、激しい剣戟の音を響かせ、熾守相手に一歩も引かずに攻撃の手を緩めない徳兵衛と龍姫。
「そもそも、捨丸の尻は兄である私のだ! いや、尻以外も私のだ!」
「何をおっしゃってるのやら! 九十郎様は嫁である私のものです!」
口も緩めてないけども。
しかし、二人の猛攻を受けてなお、熾守の方が優勢のようです。決して受けない被害と肉眼で捉えられない魔術による攻め手。このままではいずれ勝敗は悪い方向で決することでしょう。
と、ここで九十郎は思い出します。
「あ! そうだ! さっき、魔術で作ってる鎧の効果がちょっと緩まってた! 何か方法があるんじゃないか?」
「ほお、お気づきになりましたか?」
思わず眉間にしわが寄る九十郎。
「はは、そんな目で見ても私の美しさは変わりませんよ」
「蠅の姿で美醜を言われても困るが?」
「この流れ、前もやりましたね」
「いいから早く言え」
「といいますか……」
ニャルラトホテプはその小さな姿で九十郎の眼前を煩わしく飛び回りながら言います。
「既に気付いているのでは? 魔術に対抗する術など一つでしょう」
ハッと息をのみ、かすかに脳裏に浮かんでいたその解決案を、正しいのかどうか恐る恐る九十郎は口にします。
「
「いやなんでだよ」
「ええ!? ハズレなの? いやほら、マジカルにはフィジカルで、ってロールプレイングゲームではよくあるだろ?」
「君にはガッカリだよ」
「ああ、待った、待った、確かに御ふざけが過ぎた。……そうだな、筋力で解決じゃないよな」
「そうですよ。ボケてていい状況じゃないですよ」
九十郎は改めて言い直します。
「ギャグ時空ならシリアスだって倒せる」
「もう一度考え直せ、三流蛸」
「ただの罵倒!? いや蛸に一流も三流もねぇよ!」
そうこうしているうちに、徳兵衛と龍姫が徐々に押され始めていることに九十郎は気づき始めます。見えない鎧、避けられない突き飛ばし、不可視の攻防を持つ相手では流石の二人でも長くはもたない。二人の限界が近いことは、二人の怪我や呼吸の乱れから素人でも推し量れます。
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