7-1





 目覚めた九十郎の視界には、ルルイエに意識が飛ぶ前の光景と地続きのようでした。


 一歩、また一歩と熾守おきもりが九十郎へ迫ります。その歩みは不吉と凶兆を感じさせて余りあり、ともすれば剃刀を噛みしめるような、自らの眼球を針で刺そうとするような、神経を逆なでさせる予感を九十郎に感じさせました。

 確実に、このままでは殺される。そう確信させるものでした。


「お待ちください」


 が、その歩みを止めたのは門番でした。


のものを取り込むならば、私にかけた魔術を解いていただきたい」


 門番は熾守へ、膝をついて頼むような口調と姿勢でありながら、語気を荒げながら続けます。


「元よりこの時までという契約に基づく魔術のはず。まさか魔術による契約を反故にするなど正気の沙汰ではないでしょう。であるならば、早く私を解放して……」


 そこまで話した時点で、門番の言葉は遮られました。

 熾守は無言で刀を抜き放ち、ゆっくりとその白刃を眺めます。

 門番は何かを言わんと、陸に上げられた魚のごとく口を開け閉めしましたが何も音は聞こえません。

 直後、門番は苦しそうに自らの喉を抑えようとし、しかし抑えようとした手が手首からぼちゃりと水の中に呑まれて消えていきました。困惑か激怒か恐怖か解らぬ表情で門番は熾守を見上げ、口から、首から、ごぼごぼと血を噴出させながら前のめりに倒れて動かなくなりました。


「(今のは……魔術だ。間違いない)」


 人間の世界の理、科学ではまだ認識も認知もし得ない外なる理。それは人の想像の外の物理現象、事象、あるいは物体を生み出し、ともすればまさに神話の再現をする術。地球の者だけが知らぬ古い技術。それが魔術です。

 無論、クトゥルフもまた魔術が使えるはずです。しかし、九十郎は転生直後に魔術を使えるか試し、うまく使えないことを確認しています。

 そこから、彼は思いこんでしまったのです。


「(てっきり、この世界では魔術は使えないんだと思ってたが……)」


 それは間違いでした。


「(もしかして、それはこの体の魔術の適正の不足か、あるいは“別けられた余の量が少なかったから”使えなかっただけで、魔術そのものはこの世界でも使える可能性もあったということか?)」


 混乱に似た考えの中、蛇に睨まれた蛙のように動けぬ九十郎の元へ、熾守がまた歩を進めます。九十郎は不思議と自分に迫る凶刃から目を逸らせませんでした。いえ、見つめる以外に体が言うことを利かないのです。

 その刃の冷たさが己の肉を切り分けていく音を聞きながらも悲鳴の一つも上げられぬまま絶命していくイメージが、空想を越えて自分の首の皮に突き立てられ、刃の冷たさがゆっくりと己の血肉で温められていく感覚を嫌でも味わい始めた、その時でした。


 突然、誰かが熾守へ斬りかかり、熾守は自らに振り下ろされた刃を防ぎながら後退します。

 九十郎の肩を誰かが揺さぶり、頬を叩き、次第に九十郎の体に、肺に空気が満ちるような感覚と共に力が戻ります。見れば、龍姫が泣きながら九十郎の頬を撫でていました。


「まだ、この世に居られますか? ああ、我が殿、御無事で、本当に本当に」


 言葉に詰まる龍姫からの安否の確認に応えるより前に、激しい黒鉄のぶつかり合う音がそれを遮ります。

 見れば、徳兵衛が熾守に斬りかかり、間髪入れずに激しく攻め立て続けています。が、徳兵衛の刃は熾守に届くことはなく、宙に見えない鎧があるかのように熾守の体から少し離れた場所を撫でるばかりです。

 おそらく、と九十郎は予測を立てます。あれは自身に降りかかるあらゆる攻撃を退ける魔術であると。それこそ、剣も弓も拳も銃も魔術すら退ける防壁ですが、あくまで軽く逸らすだけの魔術。大抵は直撃を免れる程度の防御力しかないはず……ただし、使い手が旧支配者などという強大な魔術師でなければ。つまり、クトゥルフが使うならば核の炎すら退けられる防壁になるだろうとは想像に難しくありません。

 熾守がため息交じりに手を軽く払うだけで、徳兵衛は吹き飛ばされて壁に打ち付けられます。が、直後に弾かれたかのようにまた攻勢に戻りました。


 熾守が烈火か暴風の如き剣戟の最中で、鼻で笑いながら九十郎へ言います。


「なるほど。ただの弱小の存在かと思ったが、狂気の伝播にその力のほとんどが割り振られているとみえる。このように優秀な狂信者を作るとは……ますます貴様が欲しくなるな」


 その言葉に反応した龍姫がゆっくりと恨めしそうに九十郎の傍から離れ、何事かぶつぶつと漏らしながら熾守へ突進し、袖や裾に隠した暗器や格闘術で徳兵衛と共闘し始めます。


「お前も我が殿の尻を狙う不届きものか! 殿の貞操は私のものだ!」


 これに反応したのが徳兵衛で……


「私のだぞ!!」


 思わず九十郎の口から出た言葉が。


「お前のでもねぇよ!!」


 その直後、徳兵衛の刀の切っ先が、僅かに熾守の頬に赤い一文字を引きます。それは本当に僅かな傷でしたが……九十郎には分かりました。


 何のきっかけか、魔術の鎧を今の一撃は通り抜けた、と。


 徳兵衛と龍姫は口喧嘩をしながらも熾守に攻撃を続けますが、また魔術の鎧によって攻撃は完全に逸らされていきます。

 しかし、その鎧は予想より鉄壁なものではない。なにか、この事態を打開する方法があるようです。



「ふっふっふ、攻撃が届き始めましたね。すべて計算通りですよ」


 何かが九十郎の目の前でブンブンと飛び回りながら言いました。




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