6-2



 クトゥルフの脳内に響く不協和音が、彼の皮膚より沁み込み脈打つ血潮を駆け巡り、内部より何かを押し上げるかのような圧迫感を覚えさせ、次第にそれが喉の渇きと締まりに繋がり始めた頃、ようやく彼は言葉を絞り出し始めました。


「あの、忙しく、とは、どれぐらい?」

「そりゃもう、一日に数刻と寝れないほど!!」


 数刻と、寝れない。

 ニャルラトホテプが銀暮を押しのけながら注釈を付け加えます。


「具体的には、朝五時起床の夜十時就寝ですかね。そう考えると七時間は睡眠できてる気がしますが」

「たった七時間、だと?」

「いや七時間も、じゃないですか」

「七時間しか、寝れないなんて……せめて七十年」

「いやいや、神話生物基準で見るな」


 思わず前のめりになる九十郎の傍では、相変わらず皆は喜びに舞い踊り、彼だけが一日の睡眠時間が減ることに悲しみを覚えているようでした。

 いや、実際に忙しくするのはだいたいクトゥルフではなく、その体の九十郎くんのほうですが。


「あ、いや、待てよ?」


 と、ここで何か思い立ったクトゥルフ。


「じゃあ、家督を別の人に私も譲る! これだ!」


 途端周囲の人の宴会騒ぎがピタッと止まります。

 そして、皆が九十郎を見つめ……静寂を斬るように、龍姫が泣き始め、徳兵衛が続くように泣き始め……

 もう一度宴会騒ぎが始まりました。


「え? え? どういう、え? なに?」


 黒貌和尚がにやにやしながら九十郎に言います。


「家督は継がせる相手が居ないといけませんよ、九十郎」

「え? もしや、すぐに隠居とかできるもんじゃない?」

「あなたの父上はあなたが居ましたし」

「あ、兄上に譲ったりは?」

「できないと思いますね。さっき、家督を長男ではなく次男に譲るのは長男の意向もあってのことだと言われてたじゃないですか」

「え? ということはこれ、もしや馬鹿にされてる? 家督を譲る先が居ないのに譲るとか言ってる馬鹿な奴だと思われてる?」

「いえいえ、そうではないと思いますよ」


 突如、龍姫が九十郎の正面に出て手を取り、涙を流しながら言います。


「龍は嬉しゅうございます」

「んん? どいうこと?」

「九十郎様が私との稚児ややこをそんなにも早く望んで居られたとは」

「そんなこと言ってないが!?」

「家督を譲る相手を、早く作らねばなりませんね!」

「あ、そういうこと!?」


 どうやら、周囲の人々は九十郎が世継ぎを作ることを宣言したともとったようで……

 徳兵衛が龍姫を押しのけるように捨丸の手を取ります。


「捨丸……そんなに、この兄との間に|稚児ややこを望んでいたとは」

「そんなこと言ってないが!?」

「家督を譲る相手を、早くに作らねばならんだろう?」

「なぜそうなった!?」

「大丈夫だ。捨丸が懐妊したら、万事私に任せるが良い!」

「いやもう一回言うぞ? なぜそうなった??」


 と、ここで臣下たちの間に紛れているひときわデカい類人猿、服を着たゴリラがドラミングをし、床を叩いて鼻を鳴らします。

 皆がそのゴリラを見ます。そして、銀暮が感嘆の声を漏らしながらそれに続くかのような発言をしました。


「おお……そうでしたそうでした。流石は助兵衛殿。我らが手本にすべき忠臣は発言が違いますな!」


 周囲の者も「そうだそうだ」と声を合わせ頷く中、九十郎だけが取り残されていました。


「いやあの、ゴリラがここに居ることも突っ込みどころだけど、あのゴリラさん何て?」


 九十郎はゴリラを見つめます。

 だがゴリラは何も語らない。なぜならゴリラは賢いからだ。


「いやそこは何か言ってくれ」


 だがゴリラは見つめ返すだけだ。なぜなら優しいからだ。


「ゴリラの言語は解らないんだけど……えーっと、銀暮くん? ゴリラはなんて?」


 と、銀暮の方を見るに、彼は涙しながら言葉を口にし始めました。


「なんという、なんという雄弁……! この銀暮、心が震えましたぞ」

「あ、そういうの良いんで、翻訳を……」


 ついには九十郎すら捨て置いて、銀暮が立ち上がって皆に言います。


「皆の衆! 我らが御御御家の臣下の鏡、忠臣助兵衛すけべえ殿に我らも習うべきではないのか! 私に考えがある!」

「そのフレーズダメな奴」

「助兵衛殿に倣う、すなわち、助兵衛塾の開設をここに願うものとする!」

「すけべ、塾……その名前はアウトでは!?」


 一同の湧き上がる歓声。スケベコール。もはやゴリラが床板の隙間に指を突っ込んで遊び始めていても見向きもせず、何やら漢を磨く助兵衛塾なる狂信者団体が設立される中、銀暮が何かを思い出したように九十郎の方に向き直ります。


「おっと、忘れるところでした。御御御家が仕える元締め、御屋形おやかた様から召喚を受けていたことを伝えなくていいのかと、助兵衛殿はおっしゃっておられましたな」

「今の鼻息一つでそんな意味が込められていた訳があるかとか、その大事な事っぽいのを伝えるのが遅くなりすぎてるとか、そもそもそいつ五里良騨じゃなくてまんまゴリラじゃんとか、というかスケベコールをするなとか、諸々合わせてツッコミを放棄するからその召喚に関して詳しく」


 銀暮は何食わぬ顔で、スケベコールをバックに話し始めます。


「御御御家が仕える大殿様、すなわち、熾守おきがみ 三四郎さんしろう様は、我らが御御御家が支配する領地、智爾ちじがまるまる三つ入るであろう巨大な領地、智爾より北東に位置する大山脈地、加陀須かだすを支配する今もっとも天下に近きお人。熾守様は古来からの貴族諸侯に打って変わり、力による我ら武士階級の支配という絵図を描かれたお方。しかもその絵図、もはや夢物語ではありませぬ。商人などの銭の回りなどにも介入された結果、民衆からの人気も高いのが特徴です」

「……ほぇー。というか、我が家は中間管理職だったのか」

「九十郎様ならば知っておいでとは思いましたが、今一度お聞かせした方が良いかと思いました。なんとなく」

「なんとなくで説明セリフをありがとう」

「というわけで、召喚がなされていたことをお伝えいたしましたぞ。ただの顔見せだと思いますし、勤めの合間に行かれるとよろしいかと」


 召喚……

 なんだか、その言葉で言われると抗えない気持ちになる神話生物の性。

 ちょっとワクワクしながら九十郎が立ち上がります。


「よし、じゃあ、召喚に応じ、推参しようじゃないか」





 などと御御御家の屋敷を離れ数週間。御御御の領地である智爾より出て一週間と数日。熾守の領地である加陀須へ入り数日の頃。

 馬上で九十郎は大きなため息をついていました。


「いやおかしいって」



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