第六話 急なシリアスは正気を保つのに良いと学会で証明されている

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 形容しがたき邪神の微睡みが薄まる時、海底奥深くにて、名状しがたき描写をするには人類の言語では足りぬルルイエの祭壇で


「あ、はい。もう、そういうの、いいんで。はい……はい……」


 邪神は、疲れ切っていた。

 異世界の、かの極東の島国の三百年ほど前と酷似した文化を持つあの異世界に、邪神の心はすり減っていた。

 弱者が強者によって虐げられるのは必定。故に木の葉の如く流されるしかない人類への底知れぬ恐怖の象徴として、未知の深淵のまた更なる深淵の未知の、底知れぬ魂の奥底から湧き溢れる恐怖こそが旧支配者なれば、皆がおのずと理解する。彼もまた理解する。


「に、にんげん、いやだ」


 圧倒的非力である自己と、自己の常識で測れぬ対象の対比。まさに、その立場が入れ替わるだけでこうも恐怖に支配されるのだと、かの恐怖の権化が恐怖しているのだ。


 そんな彼へ何者かが話しかける。


「お、おお、偉大なるクトゥルフ。もしや、ついに地上へ?」


 恐れと畏れの籠った声でクトゥルフに話しかけたのは、まさに家一軒ほどの巨体を持つ魚人のような存在……海底にあるルルイエの神殿奥深くにてクトゥルフに仕える深き者どもが父なるダゴン。そう呼ばれる、いわばインスマスたちの親玉である。

 透明で焦点の解らぬ目が、動かぬそのむき出しの眼球が、暗く透き通った光の少ない海底をどこまでも見渡し、首元からはみ出した赤いエラは不気味にうごめいて荒い息を吐きだし


「あ、うん。ダゴンだ。わー、生首じゃないよー、ははは」


 邪神はクトゥルフ神話的描写どころではなかった。

 というか、ダゴンの言葉にもあんまり聞く耳持てないぐらいグロッキーであった。


「偉大なるクトゥルフ。大いなるクトゥルフ。御身なれば忌々しき名を呼ぶことすら憎き者どもが封印を破り、地上へ出でること叶いましょう。その暁には我らインスマウスの総力をあげて……」

「え? あ、うん。そうね。今日の夢はずいぶんと丁寧だねー。でなに? 次は余は箸でつままれでもする? 兜煮か御造りか? 爺様は強敵ですからな。あはは……はぁ」


 流石にダゴンの、人間には読めぬ表情であっても何とはなしに解る困惑が浮かび、周囲のインスマスたちからもまた同様のざわつきがちらほらと聞こえ始める。

 なにやら、いつもと調子が違うのでは、と、流石にクトゥルフも気づき始めました。


「……もしや、夢ではない?」

「偉大なる我らが主よ、微睡みを遊ばれ目覚められましたことを言祝ぎ」

「いや、その……ん?」


 クトゥルフの灰色かどうかは解らない人智を越えた脳細胞が、久遠のまどろみの最中で渦巻くに、ニャルラトホテップによって自身は異世界へ送られたはずではなかったのか? しかし、今まさに目の前に居る自身に仕える神官や従僕、眷属たちはまごうことなく本物……っぽい。

 では、九十郎である自分は、誰だったのか。あの世界は、本当にただの夢……


「いや、そうではないだろう。あの這い寄る混沌めが、そのような茶番をするとは……」


 少しやりそうではあるけども。


「いやいや、あの無貌の輩の事、かような半端でぬるいことをするはずがない」


 ちょっと調子が戻って来たクトゥルフは、事態の把握に努めます。


「して、何があった?」


 事態の把握には、頼れる眷属たちを頼るのが最もだと、常に微睡みの淵で世界を睥睨する邪神はいつもの調子で……取り戻しつつあるいつもの調子で、問いかけます。

 それに対して、人の耳と脳では聞き取れず情報処理もできない言語で何事か唱えた巨人のような、それでいて魚類を思わせる頭部を持つモノ、深きもののダゴンが答えます。


「愚かしき泥の末裔如きが、偉大なる御身を引き裂いたのです。自らの先祖を薪に水面乱す鉄の無粋な塊にて……いと深く悲しみに我らは暮れ、その玉体をかき集め奉り、今一度祭壇にて御身が戻りし時を伏せ侍りましてございました。御身が身隠れられたとの報は我らを震わせ、髄に至るまでの憤りに多くの同胞が先祖返りを果たすほどであり……」


 翻訳しますと、「人間がクトゥルフ様を攻撃しやがったんや。石油で水面走る船とかいう奴で。ごっつう悲しかったんやけど、爆発四散した蛸のお刺身を集めて、いつものベッドの上に放置したら『ナマコみたいに復活せんやろか?』って待っとったんや。オツったいう話聞いたら、多くの人間の中のインスマス遺伝子が激おこプンプン丸になって先祖返りするぐらいワシらインスマスみんな怒っとったで」


 クトゥルフは、自身の身に起きたことを推理し始めます。

 タンカーによって自身の腹が抉られたことは事実。そういえば、ニャルラトホテップが言うには「その際に霧散した一部を異世界に転生させた」と言っていたのだったか……つまり、地球には自身の大部分が未だに残っており、そのうちの一部がニャルラトホテップによって九十郎にされている。ということだと推測しました。

 今見ているのは、九十郎として見る夢ではあるものの、地球の本体に夢を通じて一時的にアクセスしている状態なのだろう、とも。


「そうか。余は、自身の微睡みに狂人どもを引き込む力により、異世界の自身の分体すら呼び戻したか。だがこれは一時的な物であろうことは想像に難しくない」


 クトゥルフは、旧神と呼ばれる存在に封印されて、海底深くに沈んだ古代都市ルルイエの祭壇にて微睡みの中で眠っているとされていますが、この夢には時々人間が招かれることがあるそうです。芸術家や狂人ほど招かれる確率が上がるとも、あるいは何かの拍子に招かれたばかりに狂人になるとも言われていますが。

 ともあれ、その力が世界の壁すら超えて、意識だけとはいえ地球に一時帰還できている状態なのではないか、とクトゥルフは考えました。

 ダゴンがまた人智を越えた言語と思しき、あるいは言語などという括りに当て嵌めるには人類の知識が足りないものなのか、その奇怪な、言語化不可能な音を発した後に、クトゥルフに言います。


「恐れながら、偉大なる猛々しき御身といえど、先の時より巨大な鉄の塊にて御身害されし時には、灰色の我が胃臓が凍え千切れる思いが致しました。よもや御身にまさかの事態など起きるはずもないことは承知なれど、次回の目覚めの折には我もはせ参じたく……」


 翻訳するに「前にも船に撥ねられてたやん。気を付けんとあかんで。蛸が死んだぁ思うたら夢見悪うて、御飯が美味しく食べられへんかったんや。んもう、次でかける時は、ちゃんと『行ってきますぅ』いうんやで? そん時は、わしも付いてくわ」と。


 ……前にも?


 そう、前にも。



 船にぶつかられるのは、二度目……



 もしや、その時も……自分の精神は分離していたのでは?




 では、その時別れた自身の一部は……もしや、それもまたニャルラトホテップに連れていかれたのでは……あの異世界に。

 なら、その自分は今どこに? 出会えば、どうなる?

 そも、この身が完全でないなど、看過はできぬこと。




「……野暮用を思い出した。余は今一度、狂気の微睡みに沈む。一時、待つがよい」


 今一度、あの世界に戻り、自身の分体を探さねば。あるいは、ニャルラトホテップに問いたださなくては。

 微睡みに沈むべく脱力していくクトゥルフをダゴンが呼び止めます。


「しばらく、あいや、しばらく。重ねて無礼をお許しいただきたく」

「えぇ……今回の夢、長くない? ……良い。聞くだけ聞いてやる」


 ダゴンが深きものどもに顎で指示すると、その人だかりの中から、一回り小さな、いえ、人間としては一般成人男性ほどの大きさですが、つまり深きものではない人間が、クトゥルフの前に突き出されます。

 なにやら、懐から嫌な臭いをさせているこの男、クトゥルフを見るなりいくつかの邪神たちの礼賛の言葉を唱えてみたり自衛の魔術を試みたりしますが効果が無いと解ると、遥か彼方に消えた存在だか、人間が作り出した虚像の縋りつく対象、いわゆる神だかに祈りながら震えて膝を折りました。

 その男が震えながら口を開きます。いくつかのクトゥルフへの賛辞や礼賛の言葉を口にします。そして、その長ったらしく眠くなる言葉を終えて、いざ、男は本題を切り出します。





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