5-2



 御爺様が家臣に手で合図を送ります。それを受けて彼らは入り口の障子戸を開けました。するとそこには、真っ白な服装に身を包んだ女性が一人。とても美しい女性が居ました。

 九十郎はその女性に見覚えがあります。


「あっ、先月の」


 と口にした段階で、その女性から微笑みと共に無言の圧がかかるのを九十郎は感じました。

 周囲の人が「先月とは?」と思い始めた直後、その女性は咳払いをして口を開きました。


「お恥ずかしい。少し前、既に一度お会いして居まして……ちゃんと嫁ぐ前に旦那様にお会いしてしまった恥ずかしさから、私、その際に逃げてしまいまして。その節は失礼しました」


 おお、そうかそうか。と周りの人がそう思う中、九十郎の頭にとある予感が浮かびます。


「(というか、もしかして、もしかして……)」


 その予感に対する答えはすぐに返ってきました。

 御爺様がその女性を紹介します。


「既に会っているということだが、なに、怪しいものではない」


 いえ、めっちゃ怪しいです。

 そんなことを思う九十郎を他所に、御爺様が話を進めます。


「彼女の名は龍姫たつひめ。少し遠方の、申奈阿須さるなあすより来た姫君で、捨丸が元服した暁には輿入れする約束になっておった」

「こしいれ……」

「つまり、九十郎。この美人の女子おなごは、お前の嫁じゃ」


 頬を釣り上げて喜ばしいことの様に言う御爺様をはじめ、その場の誰もがそのことを歓迎しているように見えます。

 龍姫と紹介された見目麗しい女性は、花の様に微笑みながら九十郎に膝をついて頭を下げて言います。


たつと申します。今後、どうぞ末永く……御傍に」


 普通の人間であれば、飛び上がって喜ぶような美人ですが……

 とはいえ、このお話の主人公は人間ではありません。


「(嫁……嫁だと!? しかも人間の!?)」


 読者の方に分かりやすく置き換えますと、グールやゾンビ、インスマスが嫁に来る感覚でしょうか。人間としては龍姫は美人ですが、半魚人としての価値観での美人を嫁に欲しいかと言われてYesと答える人間が少ないように、クトゥルフの抱いた感覚は言うまでもなく。


「(こ、断りたい……だが、断れない空気。断れなさそうなことの運び! これが、空気を読むということかっ! 余にも空気が見えるぞニャル!)」


 周囲は龍姫を歓迎し、既に決まった縁談を進めている様子。誰一人として九十郎の真一文字に結ばれた口の意味を探ることもせずにとんとん拍子に話が右から左に当事者を捨て置いて進みます。もはや、九十郎の頭には如何に逃げるか逃げられないのかしか回らず、気もそぞろに話が頭に残りません。


「(いや、それ以前に、人の布団の中に潜り込んで、屋根裏に逃げるような人を嫁に……そもそも怪しさしかないよね!?)」


 と思いつつもそれを言おうと口を開こうとすると、蛇に睨まれた蛙、もとい、旧神に睨まれた蛸の如く、龍姫からの石化の魔眼を受ける九十郎でした。






「いかん。このままでは、貞操の危機。バージョン2だ。どうしたらいいんだ」


 この時代の婚姻の儀式は三日かけて行い、その都度お嫁さんは服を着替えたり化粧を変えたりする、いわゆるお色直しのために度々、未来の旦那様のもとを離れていたようです。

 そして、まさに龍姫が居なくなったタイミング、結婚の儀二日目の夜。

 九十郎は、なんとかして逃げる算段を立てていました。


「人間の感覚では美人なんだろうそうなんだろう、解る。解るぞ。理解を示そう。だが、正直なところ……無理。想像するだけで霧散しそう」


 鈴虫の鳴く音の涼やかな秋の夜長。空に昇る煌々とした丸いお月様たち……ここは地球ではないどこかの時空のいずこかの大陸。智爾の国の領主の館の離れの一室。

 そこに旧支配者の転生体であるはずなのに何かにつけて不運な主人公が一人。頭を抱えて答えの出ない問いに取り組んでいました。


「というか、気が付けば弟になってたニャルが居ないじゃないか。何してるんだよ! せめて文句を言わせろ!」

「呼びましたか? 捨丸、いえ、九十郎」


 そんなところに唐突に現れた褐色肌の僧侶が一人。つるりと剃った頭に妙に整った顔立ち、日焼けにしては濃すぎる肌の色。袈裟を纏った聖職者の様相でありながらも隠し切れぬ邪神の気配。

 唐突に障子戸を開け放ち、夜風を部屋に呼び込みながらその怪僧は現れました。


「いや誰だよこのニャルは」

「解ってるじゃないですかこの蛸」


 見れば、九十郎、捨丸の双子の弟であった黒郎よりずっと年上のようで、よく見ると別人の顔つきをしています。


「というか、黒郎じゃないの? 誰?」

「ふっ、良い質問ですね、九十郎。今の私は近所の寺の住職、黒貌こくぼうと言います。良い名前でしょう」

「そのまんま過ぎて地球では探索者に開幕袋叩きにされる奴だ」

「え? そんな死に急ぐ探索者居るんですか?」

「気を付けろ。昨今の探索者は神話生物を目撃し次第、開幕火焔瓶とかエレファントガンとか跳躍とか乗馬とかするから」

「んー、正気とは思えませんね」

「正気を失わせてるの、我々だがな」


 と、黒郎改め黒貌和尚、ニャルラトホテプが咳払いして言います。


「ところで、九十郎、ご結婚おめでとうございます」

「お? 喧嘩売ってる?」

「はは、何を今更……と、そんな話をしに来たのではないのですよ、九十郎」


 と、殴ろうと構えた九十郎を手で制しながら黒貌和尚は涼しい顔をしながら言います。


「あの龍姫という女性、怪しいと思いませんか?」

「なるほど、お前の差し金か」

「違いますよ。まだ何にも言ってないじゃないですか」

「なるほど、今から策に嵌めようと」

「え? ……チガイマスヨー イヤダナー」

「おい」

「というか、私そんなに信用ないですか?」

「自覚あるだろ、その聞き方」

「あ、わかります?」


 九十郎は思わず黒貌和尚の耳を掴んであらん限りの力で引っ張ります。

 痛がって逃れようとする黒貌和尚とそれを逃がさないように抓り続ける九十郎は、部屋の中を行ったり来たりしながら口論を続けます。


「だいたい、貴様が、元凶だろうが!」

「痛い! 痛い! 耳はやめなさい! ちょ、マジで反撃に出ますよ!」

「うるせえ! いつもいつも人が苦しむ様で喜ぶ変態のくせに!」

「それだいたいの物書きやTRPGプレイヤーに当てはまる攻撃なんで、ああもう、耳痛いんだからやめなさい!」

「物理的か? 物理的だよな? 良心の呵責とかないだろうからな、クソニャルめ!」


 と、ここで九十郎の足に何かが当たりました。その蹴られた何かは、乾いた音を響かせながら遠くへ飛んでいきました。

 九十郎はバランスを崩し尻餅をつき、ようやく黒貌和尚の耳は放されました。

 自身の腰をさすりながら、九十郎は何を蹴飛ばしたのか確認しながら言います。


「ああもう、素直にお前が耳を引き千切らせないから、何か蹴っちゃったじゃないか。ここには今日は捨丸の物以外もあるというのに……あ、捨丸じゃなく九十郎か。ややこし」

「普通は耳を引き千切らせませんからね? 蛸には耳たぶが無いから解らないでしょうが」

「あー、これどこに片付ければ良いんだ?」

「聞こえてます?」

「蛸には耳が無いから聞こえないなー」

「聞こえてんじゃねぇか寝坊助蛸」


 ニャルラトホテプにも耳たぶは有りませんが?


 どうやら、二人は揉み合っている間に、部屋の中の物をいくつか散らかしてしまったようで、見るに九十郎の物ではない物がそこら中に散乱しています。

 例えば、化粧道具。

 例えば、鏡台。

 例えば、髪留め。


「あ、これ、もしかしなくてもあの龍とかいう女のだな。散らかしちまったな。うーん、壊れてなきゃいいけど」

「女、って、もうあなたの嫁ですよ?」

「やめろその現実はまだ受け止められてないんだやめろください」


 蹴り散らかしたことを誤魔化すためにも、現実逃避しながら九十郎は散乱した物をかき集めて片付け始めます。

 と、それらの龍姫の所持品の中で、ふと、九十郎はある物に視線を奪われました。

 漆塗りの質素ながら造りの良い箱……開けてみるに、中には硯と墨、筆と……


「なんだこれは? 本……いや、日記だな」


 紐で止められた紙束、いえ、書物の様に丁寧に製本された紙束は、内表紙に『日記』と書かれているのが確認できました。


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