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 行く当てなどありませんでしたが、別に布団と飯と雨風が凌げれば、主に布団の上でゴロゴロ寝て過ごせればそれでよい彼にとって、どこに住むかどうかなど取るに足らない事柄でした。


「(智爾の国から追いかけられないように、いっそ煉の国に逃げるのもありなのでは? そうと決まれば、さっさと川を渡って……)」


 などと思って川に足を突っ込み渡り始めたクトウルフの目の前の水面が盛り上がり、その中からずんぐりとした大男が、川の中から現れました。


「え、えぇ!? ……も、もしやインスマス? インスマスなのか!?」


 インスマス、とは、深きものども、と呼ばれる魚面の魚人のことで、地球ではクトゥルフを信奉しクトゥルフの復活を待ちわびる、人のようでいて人ではない存在のことですが……

 その顔を見た時、捨丸は絶句しました。思い描いた魚のような顔ではないどころではありません。

 非情に毛深く縦に長いその顔は、鼻は低く小鼻と鼻の穴が大きく、目の彫りが深く眉間が広い、鼻の下が長く唇は分厚く前に突き出している、いわゆるところの……


「ゴリラだ……!」


 ずばり、ゴリラのような顔。

 思わず口をついて出てきた捨丸の言葉に、ゴリラは人間の言葉で返します。


「なぜ、俺が五里良騨ごりらだだと解った!」

「ぎいやあああああ!! しゃ、喋ったぁぁぁぁぁああああ!!」


 ゴリラが人間の言葉で喋っている、というかゴリラがゴリラだと何故分かったのかと今ゴリラから聞かれている? すごい流ちょうに喋ったなこのゴリラ。


 などという捨丸の混乱を他所に目の前のゴリラは鼻息荒く彼を睨みます。

 というか、魚が喋るのが普通の感覚であるクトゥルフが何を言ってるんでしょう?


「俺をで呼ぶ以上、俺が何者か分かっていての行いだろうな、若者よ! この俺を井々是の家の人間、まして助兵衛だと知ってこその、俺を五里良騨と呼ぶのだろうな!」

「自分がスケベだと解っているのかと初対面の相手に確認してくる奴とか初めて見たぞ!? いやそうじゃなくて、え? あ、ああ! スケベ推奨ゴリラ!」


 どうやら、目の前のこのゴリラ顔の男が、井々是 助兵衛 五里良騨、その人のようです。


「しかしなぜだ。村民に化けていたというのに、いったい何をもって見破ったのか、それを聞かせてもらいたい」


 いやだって、めっちゃゴリラ顔なんだもの。


「え? いやその、普通の村民は川の中に沈んでないと思うんだが!?」

「暑いときは頭から水を被りたいものだろう? 目立たないようにしていたというのに」

「むしろどうして目立たないと思ったの? 既にSAN値無いの?」


 五里良騨は鼻息を荒くして捨丸に迫ります。


「さあ、隠し立てせずに吐くが良い! なぜ、俺が井々是 助兵衛 五里良騨だと気づいたのか! ……口封じをする前に、それは知っておきたいところだからな」


 口封じ……? それって殺されるということでは!?

 捨丸は咄嗟に後ずさりしますが、その倍の距離を五里良騨はにじり寄ってきます。


「え、えーっと……き、企業秘密、的な?」

「キギョウ? ヒミツ……」


 二人の距離が徐々に縮まります。


「いやあの、魔術じゃない、占いとかそういうので?」

「占術……」


 と、ここで捨丸が躓いて、川の中でしりもちをつきます。


「あ、そ、その、口封じとかマジで勘弁してほしいんだが……ゴリラって言ったのは謝るから! そのことは謝るから!」

「謝る……」


 五里良騨は捨丸を見下ろしながらじっと見つめています。


「(バナナあげるから許してとか言ったら駄目だろうな。ああ、まさかのエネミーエンカウントで死ぬとは……というかゴリラにゴリラって言ったら殺されるとか理不尽過ぎない!?)」


 などと思っていたところ、五里良騨は急に息を荒げ捨丸の顔を覗き込み、直後に捨丸は背筋に寒さを感じました。それは水に濡れたが故の寒さなどではなく、ふと脳裏に徳兵衛が過る寒さでした。


「貴様、よく見れば……愛らしい顔をしておるな」

「(あ、この感じ、兄上から感じた寒気と類似品だ)」


 五里良騨の長い鼻の下が更に伸びて、自分を舐めるように見ていると捨丸は感じました。


「よし、気に入った! 口封じは止めよう。代わりに、お前を貰おう!」

「なにいってんだ! ふざけるな!」

「案ずるな。もう部屋は取ってあるんだ」

「城持ちだろうがあんた!」


 五里良騨は捨丸を軽々と肩に担ぎ上げ、その尻に頬ずりをしました。

 捨丸の口から汚い高音が出ましたが、近くに御御御家の他の者が居るわけでもなく、捨丸は軽々と担がれていきます。


 五里良騨が捨丸を担いで対岸へと渡り、そのまま森の中に入ると、そこには他にも幾人かの人間が居るようでした。しかも、全員警戒した様子で……

 その只中に投げ込まれるように下ろされた捨丸を、白装束の男が覗き込みます。

 男の風貌は足袋たび手甲てっこう脚絆きゃはん頭襟ときんを被る、所謂、修験者の姿をしていました。

 修験者の顔は五里良騨とは正反対に薄い顔で、糸目はどこを見ているか分からないような顔だちをしています。


「(なんでこの男、額にちっちゃい御椀おわんを括りつけているんだろう?)」


 そのようなことをふと思った捨丸を見ながら、修験者の男が五里良騨に聞きます。


「助兵衛殿、この者は?」

「国境で拾った。気に入ったので連れ帰ることにする」

「身に着けているはたからしてそれなりに金のある家のおのこの様子……のちの火種になりかねませぬが?」


 五里良騨の口角が下がり、眉間に皺が寄りながら、修験者に応えます。


「なんだ? 修験者風情が何か文句があるのか、銀暮ぎんぼ

「いえ……井々是の家に抱えられている身でそのような大それたものなど持てるはずもありません」


 銀暮と呼ばれた修験者は、口ではそう答えつつも捨丸をまじまじと見ています。


「(な、なんか、落ち着かない視線だ……)」


 五里良騨が何やら他の者に指示をしている最中、なおも覗き込む銀暮の糸目から浴びせされる視線に居心地を悪くし、捨丸は心の中で思わず念じます。


「(ええい、なんだ。そんなに見ても私の中の“余”が見えるわけではあるまい! 余がクトゥルフのままであれば、直視した人間が勝手に狂い死に始めるのに!)」


 直後、銀暮の糸目がギョロリと見開き、斜視の目で捨丸を見ながら口を鯉のようにパクパクとさせます。

 そして一言。


「おお、まじぇすてぃっく……」


 そうつぶやきました。

 何事かと驚いて後退る捨丸から、何事もなかったかのように銀暮は目を逸らし、どこかへふらふらと歩いて行きました。


「び、ビビった……降魔の儀でも行われるのかと思った。ってか、マジェスティックって言わなかった?」


 などと狼狽する捨丸を、いつの間にか隣に来ていた五里良騨が小脇に抱え込みました。


「ちょ、ちょと待て! 扱いが酷くないか!? セカンドバックみたいに抱えるな!」

「そうかそうか。待ち遠しいか。安心しろ、煉の国の我が城に着けば、すぐにでも交合に移ろうではないか」

「誰もそんなこと言ってねぇ! なぜ私の尻を狙う奴らは揃いも揃って話が通じないんだ!? 言葉が捻じれて伝わったりしてるの? 参照する翻訳サイト間違ってるんだってきっと!」



 智爾の国を抜け出せば、楽に寝て暮らせるかと思いきや、全然そんなことなさそうだと気付いた時には既に遅し……

 むしろ事態は変わってないのか、悪化したのか。


 そんな彼の明日はどっちだ。


「いやだぁ! お布団に帰りたいぃ! 助けてダゴン! 助けてハイドラ!」


 明日はきっと、いや、明日“も”きっと、碌な目に遭わない。






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