第二話 旧支配者だ、信仰しろください

2-1





「うわぁぁあああああああああ!!」


 クトゥルフは悪夢から目覚めました。


「お、恐ろしい夢だった。あの国、あの異世界の文化が恐ろしかったのだ……二度とあのような場所になど行くまい。……あ、でも、これ、次に悪夢として飛ばすネタにはなるか。覚えておこう」


 しかし、クトゥルフは自身の手を見て気づきました。


 緑色をしていない肌。指が五本しかない手。藍色の和服を身に纏い、そもそも畳と木材の部屋。ここはルルイエの奥深き館ではなく、深淵の奥底でもなく、まして自分の体もまた邪神クトゥルフではない……

 何よりも、ふかふかモフモフ、お布団に包まれている自分。


「……ああ、なんだ。まだ夢の中だったか。寝よう……お布団最高」


 クトゥルフの転生体こと、捨丸は二度寝に入ろうとしました。


「……夢じゃない! 夢だけど、夢じゃない! うわあぁぁぁぁ!!」


 が、思わず飛び起きました。


「おのれ、ニャルめ!! 今度会ったら殴り飛ばしてやる!!」

「呼びましたか、捨丸?」


 突然、捨丸が寝ていた部屋の障子戸が勢いよく開け放たれ、そこから褐色の肌をした美男子が現れます。


「……誰?」

「やだなぁ、『捨丸あなたの双子の弟の黒郎こくろう』ですよ」

「いやだから、誰だよ、このニャルラトホテプは」

「解ってるじゃないですか、クトゥルフ」


 邪神ニャルラトホテプは、人間に化けることのある邪神としても有名です。いくつもの変身後の姿を持ちますが、彼の好みとして“褐色の肌に絶世の美男美女”という姿になることが多いようです。

 黒郎、と名乗った褐色の少年は部屋に入って障子戸を閉め、捨丸を部屋の隅に連れて行きます。


「いや、最初は近所のお寺の和尚にしようと思ったんですけど、思ったより家の中が覗けなくて……そこで犬になったのですが」

「なってたな、ポメラニアンに」

「でも、そうすると言葉が通じないじゃないですか」

「犬だからな」

「そこで、あなたの双子の弟になることにしました」

「ぶっ飛んでないか、その発想。なぜそうなった」

「双子の兄は自重したでしょう?」

「違う、そうじゃない」


 しかし、黒郎は捨丸の突っ込みを他所に話を切り出します。


「ところで、あなたは捨丸としての記憶をどれぐらいお持ちですか?」


 はて、それはどういう意味だ、と、捨丸は自分の体を確かめます。


 あの口固めの儀式の時より体は大きく育っており、かといって人間の成体よりは小柄でありました。

 微かに、そう言われてみればこの世界で捨丸として育った記憶が、うすぼんやりとあるように感じました。それは他人の記憶を夢に見ているような感覚で“思い出せる”という、自分ではない自分への気づきでもあります。

 なんとはなしに、捨丸としてこの世界で、およそ十三年ばかし育った記憶があるのです。


 そう、気が付けば、捨丸の歳は十三になっていたのです。


「うぉわ、なんだこれ。気持ち悪い! この体の記憶が“そこはかとなく”ある!」

「普段他人の夢を覗き見して、挙句悪夢に書き換えてる邪神の言うこととは思えませんね、クトゥルフ」

「やかましい! それは自身が人間畜生になどなってないから言えたんだよ! 何が悲しくて人間なんぞに……人間だなんて、ニャルラトホテプが毎回“おもちゃ”にしてる種族じゃないか……」


 ふと、捨丸の口から洩れた核心を突く一言に、捨丸は思ったことを聞いてみることにしました。


「ところでニャルさん、この世界に転生させたのは、あんただったな?」

「そうだね」

「もう一つ質問いいかな? ……お前、俺をおもちゃにするために人間に転生させたな!?」


 すっと鼻から息を吸い込み、そして満面の笑みでニャルラトホテプは言います。


「君のような勘のいい邪神は、嫌いじゃないよ」


 直後、捨丸の放った蹴りが、黒郎の顔面に飛びました。


「何するんですか! 宇宙遺産にも登録されかねない美男の顔を蹴るなんて!」

「遺産なら失われてないとダメだろうが。“遺産”にしてやるから黙って殴られろ」


 追撃の拳を振り上げた時に、ふと捨丸は思い出します。


「あ、そうだ! 我が眷属が言っていたが、『帰り道が無い』とはどういうことだ?」


 黒郎……無貌なる神はゆったりと崩した姿勢で座り直し、人を模した底知れぬ存在としての邪悪な笑みを浮かべて言います。それは、非力な人間を見下す邪神らしく怖ろしい、彼が畏怖の存在であると感じさせる雰囲気を持っていました。


「そりゃもちろん、この異世界と、あなたが居た地球は次元的に別の世界ですから。海を渡ろうが宇宙に飛び出そうが、帰ることはできないということですよ」

「な、なに……? では、帰るにはどうすれば?」

「ですから、文字通り『帰るのは諦めろ』ということですよ……理解しました?」


 クトゥルフ……いえ、捨丸はうなだれました。


「そうか……では、ゾス星の母星に帰る事も、地球に置いてきたルルイエの信徒たちや眷属たちにすらもはや会うことはできぬと……」


 無貌なる神は捨丸に近づいて、囁くように続けます。


「そう。この世界は完全に元の世界とは別の世界、別の場所。お前がここに居る限り、俺の地球おもちゃ箱でクトゥルフが目覚めることはない。お前はここで、残り数十年余りで寿命を迎える弱い種族、人としての生を生きるしかないのだ」


 捨丸はふらりと立ち上がります。


「どこへ行くつもりかね? クトゥルフ、いや、無力な捨丸よ。いっそ人間らしく足掻いてみるか? それはそれで、俺の遊び心が満たされる。どうか足掻いてくれ」


 そして、捨丸は布団をかぶって寝始めました。


「って、ちょっと待てい!! そうじゃないでしょうがそこは!!」

「なんだ、何を言いたい。私は寝るぞ」

「いやいやいや、解るでしょ? 解るよね? 今の流れ的に『なら見ているが良い。捨丸は勇者になるぞ、邪神!』とかさ、『知った事か! 異世界であろうと余はクトゥルフ。で、有るが故に、この世界を征服する!』とかさぁ、あるいは『解った。お前を殺す』とかとか、はたまたラスボスである私を超えるためのトレーニングに励み始めるとか、色々あるでしょセリフが! 行動がぁ! 異世界転生したんだよ君は!!」

「知らん。寝る。寝るクトゥルフは良く育つのだ」

「育たねぇよクトゥルフは! 寝るな起きろ寝坊助ダコ! ここはルルイエでは無い! 動けよ主人公!」


 黒郎は捨丸の布団を剥ぎ取り始め、捨丸は布団を掴んで放そうとしません


「止めろ! 寒いだろうが! 布団が破けたらどうしてくれる!」

「今の暦は夏なんだから寒いわけないでしょ! それに海底で寝ていた頃は布団なんて知らなかったはずですよね、クトゥルフ様は。ほら起きて!」

「いーやーだー! 帰れないなら私は捨丸として、ぐうたら暮らすのだ! さっきお前もそういったじゃないか!」

「あれは話の流れ的にあなたに発破をかけてんですよ! 察しろ! 空気を読め!」

「空気とか海底に無いんだから読めたことなどあるわけなかろう!」

「言葉の綾って知ってるぅ? いいから起きろっての!」

「そもそも人間の目では大気は見えん! 空気は読み物ではない!」

「違う、そうじゃない」


 疲れて黒郎は布団を手放し、捨丸は寝返りを打ちながら布団を伸ばしてくるまります。

 すっかり疲れた黒郎が肩で息をしながら言います。


「く、くそ……人間の、しかも子供では体力も力も足りなさ過ぎる」

「そうだな。私もお前も人間の幼体なのだ。あー、眠い眠い」


 ふと、黒郎は何かを思い出したように、大声で何かを言い始めます。


「あー、でも困ったなぁ。捨丸兄さんは、“お爺様の任務”である見回りを今日はなさらないということですね。嗚呼、黒郎は困りましたー」

「なんだそのわざとらし過ぎる大声での棒読みは」


 黒郎はにやりと笑い、捨丸に囁きます。



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