1-3



 そのミイラの足の一部を千切って、捨丸の口に近づけていきます。


「(あ、ああっ、嗚呼、よ、よせ。止めろ。や、止めてくれ! そんなもの、食べ物ではない! 余が、クトゥルフが食していい物ではないぞ!! 気でも狂ったのかあ!?)」


 いや、今のあなたは人間です。あと、気を狂わせているのはあなたです。

 暴れる捨丸を母親が抑えながら、祖父が眷属のミイラを口に近づけてきます。


「(止めろ! それを余に近づけるな! 余に触るんじゃあないぞ!! 余に、余のそばに近寄るなああー!)」


 捨丸は暴れ、彼の渾身の振り払いがお爺さんの手に当たります。そして、その手から蛸の乾物が床に落ちました。


「(ふ、ふふ、どうだ! 余こそがクトゥルフ! 偉大なる覇者なのだ! そのような、斯様におぞましい物など口にするものか! だが、落とした! 落としたのだ!! やった、勝った! 第一話、完!!)」


 突如、捨丸の頬をお爺さんの手が鷲掴みにします。そして、その髭に覆われた顔で、捨丸の顔を覗き込みます。


「(な、なんだこのジジイ、すごい力で、くっ、抵抗できないだと!?)」

「食い物を、粗末にしてはいかん。良いな? これは、この国の民の献上品、食い物を、粗末に、するな。捨、肝に銘じよ!」


 お爺さんが大声で怒鳴っているように、捨丸には感じました。実際は軽く叱った程度なのですが。

 それを見ていた母親が、さっと何かを捨丸の口に箸を触れさせました。歯固めの儀式は、石や蛸など硬い食べ物に触れさせた箸を、赤ん坊の口に軽く触れさせる儀式です。


「はい、終わりました。父上が抑えてくれていたので、あっさり終わりました。ありがとうございます、父上」


 お爺さんは小さく会釈えしゃくして、よぼよぼと歩いてその場を離れます。


「(お、終わったのか……恐ろしかった。なにか、得体のしれないモノを感じてしまった……だが、終わったのだな……何かわからんがとにかく良し!)」


 儀式の終わりを見計らったように、お爺さんの前にも食事が並べられます。

 しかし、そのお爺さんの食事内容に、邪神はまた驚愕します。


「(あ、ああ、あれは……!)」


 そこには、煌びやかな鱗を持つ鯛が、瑞々しく光を反射しながら切り身を盛りつけられていました。何より、邪神の目に留まったのは……


「(まだ、まだ生きているじゃあないか!!)」


 その料理が、“活き作り”であったことです。


「(た、鯛よ。貴様、そのような……腹を捌かれてもはや頭しか残ってないような状態で……! なんと恐ろしい調理方法だ! これが、人間のやることかよ!!)」


 そうですが?


 しかも、どうやら山芋をとろろ汁にして鯛の刺身と和えるようで、鯛の活き作りにお爺さんがこれでもか、と、かけています。何も知らない邪神が見れば、謎の粘りのある白い液体を、活きたまま腹を開かれた魚の上にかぶせているように見えるでしょう。

 驚愕やまぬ邪神の耳に、鯛からうめき声のような物が聞き取れました。クトゥルフである彼には、一部の海産物の声が聞こえるようです。

 鯛は呻きます。


『あ、ああ……う……』

「(あ、ああっ! 聞こえているぞ、鯛よ。なんだ、何が言いたい? このクトゥルフが聞いてやるぞ!)」


 鯛は虚ろな死んだ魚の目でうわ言の様に呟きます。


『か、か、か……』

「(か? か、何だと言うのだ?)」

『かゆ……』

「(かゆ?)」


『かゆうま……』

「(かゆうま!?)」


 お爺さんは鯛の山掛け汁に舌鼓を打ちながら食べ始めました。


「(鯛ぃぃー!! しっかりしろぉぉー!! かゆうま、ってなんだー!?)」


 そのような彼の元へ、別の声が届きます。


『聞こえ、まつか? 聞こえまつか、我らがしゅ、クトゥルフたま……今、あなたの脳内に直接語り掛けていまつ』

「(なんだ? 誰だ? 誰が余の名を呼んでいる!?)」


 鯛の活き作りの向こうの小さな皿に、それはいました。

 それは丸い頭をした、小さな蛸でした。


「(ま、まさか、お前は……!)」

『そうでつ。はクトゥルフたまの眷属の一つ。使い魔でもある蛸でございまつ』

「(お、おお! このような地で会うとは……なんと心強い!)」


 邪神は、このほんの数十分の間に心が折れかけていました。

 巨大な神の肉体から、自分が気にもかけぬほど劣等種だと思っていた人間の肉体へと転生し、その劣等種に力で負けて身と貞操の危機を感じました。さらに自慢の精神汚染はうまく機能せず、邪神のSAN値正気度は減る一方だったのです。

 その最中に出会った言葉通じる存在。しかも自分をクトゥルフだと分かっている。これほど心強いことはありませんでした。

 と、そんな捨丸を母親が見ながら言います。


「あら? 捨丸が笑ってるわ。鯛の活き作りが面白いのかしら。いつかまた作ってあげましょうね」


 母親のこの発言は、途中から駆け寄ってきた兄、弁助によってかき消されたことを、邪神は後に思い出しますが、今の邪神はそれより、『お爺さんの御膳の上に乗せられている』蛸に気が向いていました。


「(眷属よ、ここはどこなのだ? 帰り道は?)」

『主よ、帰り道はありまちぇん……お諦めくだしゃい』

「(え?)」


 ショックを受けるクトゥルフへ、精神的なトドメが下されます。

 お爺さんは箸で器用に蛸を掴み上げます。よく見ると、蛸は全ての足を切られています。クトゥルフの視点からは見えていませんが、歯もえぐり取られて食べやすく調理されています。


『あと、わたちはこれから、この人間に食べられまつ』

「(え?)」


 蛸は舌っ足らずに喋りながら、主であるクトゥルフに警告します。


『いいでつか、クトゥルフたま。この人間たちは、蛸を好物として食べまつ。もし、クトゥルフたまが蛸のごとき存在だと気づかれれば……』

「(き、気づかれれば、何だと言うのだ……ま、まさかっ!)」


 蛸はお爺さんの口に放り込まれながら言いました。


『食べられまつ……』


 お爺さんの口の中から、蛸の悲鳴が聞こえ、こりこりと蛸を咀嚼する音共に悲鳴は止みました。


「(あ、ああ……ああ……け、眷属ぅぅう!! おのれ、おのれ、人間! 駆逐してやる!! この世から、一匹残らず!! 駆逐してやる!!)」


 などと思った捨丸の元へ、お爺さんがボヤキながら、ゆっくりと歩いてきました。


「例年に比べて小さい……もっと大きい蛸が食べたいのぅ。いっそ、鯨ほどの大きさが有ればよいのだが」


 彼の脳内に過るのは、先ほどの眷属の言葉……「蛸だとバレたら、食われるで」

 爺型巨人じゃなかった、お爺さんが捨丸の前に座り込み顔を覗き込んできます。


「(あ、ああっ、余、余は……じゃ、邪神クトゥ、る……クトゥル、フ……るぅ……)」


 脳内に残る眷属の断末魔と忠告。

 そして目の前の老人が言います。


「なあ、捨丸。お前は、捨丸だよな? 儂の孫、だよな? お前を見てると、美味そうな緑の蛸に見えてきてしもうたわ。ははは」


 そういって、蛸の墨で歯を黒く染めた老人が笑います。


「(あっ……余、わ、私は、孫の捨丸です! 捨丸! 捨丸でず! 捨丸でず! あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!)」






 こうして、邪神はついに、不定の狂気に陥ったのです。


 このお話は、彼がただひたすら、彼が発した精神汚染のせいで発狂した人に振り回され続ける、そんなコメディ作品です。





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