1-2
まぁ……もちろん、狂人に神も何も無いのです……
弁助は、捨丸を獣のような眼で見つめながら、その尻を撫でながら頬を釣り上げました。
「ああ……あと、あと何年待てば良いですか? 兄は……兄はお前から離れないから……安心して、可愛い、愛しの捨丸ぅ……へ、へへへ」
「(ひぃっ! 変な予約が入った!!)」
さらに父親が続けて言います。
「言っておくが、弁助も捨丸も嫁を貰う予定はあるのだから、嫁が嫁いで来たら、それはそれで大事にせよ」
「(それで済ますな父親だろうがあ!!)」
流石の邪神も自身の精神汚染が、自分が思っても無い方向へ流れている事へ気付き始めました。
「嫁、ですか。捨丸に、嫁……? それはどこの誰ですかすぐ殺さないといけません私急用ができたのでちょっと暗殺の旅に出かけてまいります」
「まだ生まれておらん。諦めろ。
「なんと……ではその国を滅ぼさないと……」
「ん、そのうちな」
父親は何食わぬ顔で食事を続けていることといい、この兄の性的な愛情といい、そして先ほどから何もおかしいことが無いかのように見守る母親といい、明らかにおかしなことになっています。
母親に拾い上げられ、あやされながら邪神は思いました。
「(こ、こんなはずでは! だ、誰か、誰か余を助けよ! マジで! どこかに眷属とかいないの!?)」
そんな混乱とショックを受けている彼の前に、何か黒い物が通りがかります。
はぁはぁと息を吐いて舌を出す、獣の眼光を携えた顔。床をその足で踏みつけ、爪で掻いてカリカリと音を発して歩くその生き物は……
「(あ、あれは! もしや、時間を超えたり歴史をいじったりした者の前に現れると言う、『猟犬』……鋭角さえあれば時と場所を選ばず、時を侵害した罪人をどこまでも追い詰める存在。その舌で対象者の頭蓋を吸い、時を奪う狂気の“犬のようなモノ”……形容しがたきティンダロスではないのか!?)」
その犬は、邪神の転生体より一回り大きく、真っ黒な毛並みをしていました。
さらに、この犬は邪神の転生体に対して、言語を口にしました。
『気づきましたか? クトゥルフ』
「(な、なんと……やはり、貴様はただの犬ではないな!?)」
『もちろん。あなたを異世界に転生させたのは、何を隠そう私です』
「(まさか……ティンダロスの猟犬ごときにそのようなことができるはずが……)」
犬は邪神の転生体の顔を舐めます。
『猟犬? まさか。あのような輩ではありませんよ。分かりませんか? この神々しき姿が何者であるのか!』
「(神々しい姿って……)」
犬は邪神の前で一回りして見せます。
『見よ! このモコモコふわふわの黒い毛並み! くるりと回った尻尾! 小さな小型犬の姿! 愛くるしい黒い両目! 何を考えてるか一件解らない顔! 見る者の心を蕩かす魔性の愛おしさ! この“ポメラニアン”の可愛さを!!』
「(いや何言ってんだ、お前)」
両者の会話の内容は解らないであろう母親が、犬の頭を撫でながら言います。
「あら、
それを脇目に犬は答えます。
『ふふ、この家族はあなたと私の狂気の神気に当てられて、もはや正気を保ってはいないようですね。良いですね、もっと腹、腹を、お腹を撫でてください。ああ、そこですそこ』
「(いやだから何言ってんだ、お前)」
おもに仰向けで。
と、犬が咳ばらいをしながら立ち上がります。
『と、そうでした。あなたにはいくつか説明をしなくてはいけませんね、クトゥルフ』
「(そ、そうだ。そうだ! なぜ余がこのような芥に転生しておるのだ! 貴様は一体何者なのだ!)」
『分かりませんか? 私は、“盲目にして無貌なる者”。“大いなる使者”。“強壮なる使者”。“ユゴスに奇異なるヨロコビをもたらす者”……“這い寄る混沌”……』
「(まさか……貴様は!!)」
『そう、偉大なる暗黒神、ニャルラトホテプなのです!!』
転生体の母親が撫でる手にすり寄りながら、黒色のポメラニアンが続けます。
『そもそも、クトゥルフが目覚めれば人類が滅びかねません。それを阻止するために、あなたが目覚めるタイミングに合わせて、タンカーの船員たちを狂気に落としてあの海域に突撃させたのは私です。過去にあなたにぶつけられた蒸気船より重量を大きく跳ね上げておきました。確実に仕留めるために』
母親に撫でられながらどんどん脱力していくポメラニアンは、その立ち居振る舞いとは似ても似つかぬ美声で更に続けていきます。
『その時霧散したあなたの一部を捕獲し、異世界に転生させることであなたの次の目覚めを遅らせよう、と考えたのです。しかし、その際にせっかくですので、こうしてあなたを近くから監視し、視察し、傍観し、凝視して楽しもうと……こうして黒き犬の姿……ブラックドックの姿でこの家に潜り込んでいたのです。とはいえ、もはやあなたは邪神クトゥルフではなく……無力な人間、捨丸、ですけどね』
撫でられるのが気持ち良かったのか、ついには、ポメラニアン……ニャルラトホテプは目をつむって眠そうにしています。
『ふむ。驚きのあまり、声も出ない。あ、いや、赤子では喋れませんでしたね。いやぁ、滑稽、もとい、失敬しました。ははは』
「(違うわい! お前のその姿とのギャップで気が抜けるんだよ!)」
『姿? 可愛いでしょう? ブラックドック』
「(なんでそこでポメラニアンだよ! せめて和犬にしろ!)」
『何を言うんですか。ブラックドックが和犬のはずがないでしょう?』
「(愛玩系の小型犬な訳もないだろうが! いや、それ以前に、お前が余をこの世界に運んだなら、帰り道とて貴様は作れるはず! 帰るにはどうすればいい!)」
しかし、ニャルラトホテプは答えません。
「(答えよ! ニャルラトホテプ! ……ええい、既に“クトゥルフではなくなった者”の問いかけなど聴くに堪えぬというのか!! 余に示すのだ! 地球への帰り道を!!)」
と、ここで母親が撫でる手をどけて言います。
「あら、黒、寝てしまったわね。撫でられるのが本当に好きね、黒は」
「(寝たのかよ! 会話の最中、しかも今大事な、一番大事なところだっただろうがぁ!!)」
黒いポメラニアンは幸せそうにしながら眠ってしまいました。その状況に、赤子は必死にあらん限りの悪態をつこうとして、ぐずり始めます。
端から見れば、なぜ捨丸が唐突に暴れ始めたのか分からない状況ですが、そうして暴れた捨丸を抱えた母親があやしながら、言います。
「あらあら、捨丸。あなたも黒と遊びたかったのかしら? ごめんなさいね、今日はあなたの“儀式”がありますからね。もうじき、“お食事”が来ますよ」
その言葉に応えるように、邪神の転生体の前にお膳が運び込まれました。しかし、そこに乗っていたのは……
「(あれは、食事……なのか? ど、どう見ても石だぞおい! そんなものを食べれるはずがないだろうが!!)」
この世界では、生後三か月の赤子には『歯固めの儀式』を行います。
それは、実際に日本の一部地域にて行われている儀式でもあります。赤ん坊の歯が丈夫になるように行う儀式です。
歯固めの儀式には、神社から石を貰って来まして、それを使って儀式を行います。もちろん、実際に食べさせる訳がありませんが……邪神はそんなことを知りません。
そう、何も知らない邪神には、石が食事として出てきたように見えるのです。
「さあ、お食事ですよー、捨丸」
母親が、気のせいか先ほどよりしっかりと抱え込みながら、膳の箸を手に取ります。
「(う、うぉぉおおー!! は、離せぇい!! そのような物、この歯も無い体では食すことなどできるはずがなかろうが!! こ、これは、まさか暗黒の儀式! 禁止されたはずでは!?)」
「あら、暴れて上手く出来ませんわ……怖くありませんよー」
そう言う狂人の顔こそ恐ろしい。
すると、どこからか初老の男性が現れました。父親より年老いて見えます。頭は白髪だらけでヨボヨボと歩き、腰も曲がっています。
その老人は小刻みに震えながら、母親に言います。
「なんじゃ? 捨は、石を食べるのか?」
それに母親は笑いながら答えます。
「違いますよ、父上。歯固めです。歯固め」
母親の父親、ということは、祖父、ということですね。
「あ、で、石を食べるのか?」
「違いますよ。しっかりしてください、父上」
しかもちょっとボケていらっしゃるご様子……
と、このお爺さんが母親に言います。
「石では、食べられんじゃろ。嫁いできたお前さんは知らんじゃろうが、この
そういって取り出しましたる平たい物は、磯の香り湧きたち、表面にうま味の粉噴く乾物。八方へ伸びましたるその足の、付け根にありましたる袋のごとき頭(正確には腹)の生き物……すなわち、蛸の乾物です。
「(う、うわぁぁぁぁぁぁああああああああ!! な、なんということだ!! 我が、我が眷属の、ミイラだぁぁああああああ!!)」
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