第一話 クトゥルフ、異世界の大地にまだ立てない

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 クトゥルフが気が付くと、そこは人間の女性の腕の中でした。

 自身は小さな体で、徐々にですが自分の周りが見えてきました。


 ここは、いったいどこなのか。邪神は思いました。確か、船がものすごい勢いで脇腹を抉ってきたはず……


「(う、動けん。何があった。体に痛みは無くなったが、思うとおりに動けんぞ)」


 体は思うように動かず、自身が何者かに抱かれていることがなんとなくわかる。なにせ、視界のど真ん中に、鼻の孔であろう二つ並んだ穴があるのですから。その穴……鼻を持つ人物が自身を抱きかかえているこの状態は……いったい?

 いやそれ以前に……ここはどこなのか。いつもの海底都市ルルイエの自身が祀られている祭壇ではない。あるいは、時々見る人類を恐怖に陥れるための悪夢……とも違う。


 そして何よりも、冷たく硬い祭壇の石材ではなく、肌に触れる布、綿の柔らさ……お布団の魔力のすばらしきことを邪神は初めて知りました。


「(ぬ、この素材、素晴らしい。ああ、ルルイエにもこの素材が、緩衝材が欲しい。安眠できそう)」


 対惰眠貪り系神話生物兵器、お布団。


「(って、いかん! このままでは深い眠りに落ちる! なんだこの魔性の緩衝材は! 恐ろしい……あっ、でも、このまま包まれていたい)」


 眠りに落ちそうな自分を叱咤し、邪神は周囲を見回します。

 そして、彼は徐々に己の状態を認識し始めました。


「(もしや……この小さな五本指の手と思わしき物は、まぎれもなく余の手! 余の指! 触手も無ければ目が二つしかない! ぬめりの無い肌! も、もしやこれは……)」


 彼は、生後三か月のの赤ん坊であった……。


「(これが、昨今人気の、異世界転生だと言うのかあ!!)」



 トラックに轢かれた人が異世界に転生できるんだから、タンカーに撥ねられたクトゥルフが異世界転生したって良いじゃない!



 はい。タイトル回収致しました。


「(ま、待て。これは何かの間違いだ。そもそもなぜ余が人間などに、宇宙のあくたごときに転生しておるのだ!? どこの冴えない四流作家に見せた夢なのだ、これはあぁっ! どうせいつも書く作品がエタる底辺じゃないのか!?)」


 ……さて、そのような彼も三か月。

 和装の女性に抱きかかえられ、木造の平屋の畳の上、外に見えるすがすがしい青空に見える、太陽は二つ。


 そう、何を隠そう、この異世界は、戦国日本に近しい文化と価値観の、いわば和風ファンタジーの世界なのです! 米、味噌、醤油に日本酒、日本刀。和装と畳。侍に忍者。そして戦もあります……。

 え? 普通に戦国時代にタイムスリップじゃダメだったのか? それをすると、困る人が居るんです……時代考証とか、歴史上人物とか、その辺がさぁ、ほら、ね。

 あ、でも、この世界に魔法はございません。……例外はありますが。


 そんな世界にやってきた邪神は、早くも自身の状況について理解し始めます。


「(ぐっ、魔術は使えん。使おうとすると鼻の奥が、キュッと痛む……。腕力は……)」


 もちろん、彼の母親と思わしき女性に簡単に遊ばれる程度の腕力しかありません。


「(うぉぉ!? なんだこの虚弱さはっ! これでは深海で生きていけんぞ!)」


 いえ、深海じゃないんでここ。


 自身を抱えた女性が、自身を見ながら言います。


「元気な子に育ちましょうね、捨丸すてまる

「(捨丸? それが余につけた名前か? ええい、そのような名前など要らぬわ。余は偉大なる地球の真の支配者、遥かゾスより来たりし大いなる者、封じられし滅びの神、クトゥルフであるぞ! だいたいなんだ、捨てる、丸って。捨て子か? 我が子にそんなのつけるってどうかしてるぞ。だいたいなんだ、丸って! 丸ってなに?)」


 彼は母親を見つめます。


「(そ、そうだ。例え転生などと言う不測の事態であろうと、我が精神汚染能力は伊達ではないはずだ! 余を愚弄せし芥め! 狂うが良いわ!!)」


 人間へ様々な悪夢を見せ、精神を汚染する力を持つクトゥルフの力は、異世界に転生しても健在でした。

 それに応じて、彼女の動きが止まります。


「(む? 効いたか? よし、ならば余を神としてあがはいすることをゆるぅぅぅうう!?)」


 突如、彼の母親は我が子である捨丸を真上に放り投げます。


「(ま、待て! どうしたというのだ!? 何故このようなことになっている!! 高いっ!!)」

「ほーらほらほら、捨丸。高い高ーい! もう一度、高い高ーい! まだまだ、高い高ーい! うふふふふ! そーれ、高い高い高い高い高い高い高い高いうふふふふふ!」


 確かに。クトゥルフの精神汚染の力は、異世界に転生しても健在でした。ただ、彼の予想と違うところがあるとすれば、ことでしょうか。

 端から見ればただ母親が“高い高い”をしているだけなのですが、彼女は笑いながら己の赤ん坊を放り投げている状態ともいえます。即ち、精神汚染の効果……これは『発狂』と言われる状態です。

 あ、首が座ってない赤子を高い高いしてはいけません。ダメです。ダメ、絶対。良い子も悪い子も真似しないでください。このクトゥルフは特別な訓練を受けています。


 彼女の狂気に満ちた笑顔とそこが知れない黒い瞳が、近づいては離れ、離れては近づいてを繰り返します。


「(あああああああああっ!! や、やめ、やめろぉ! お、落ちる! おちるぅぅ!! 顔怖い! ってか吐くっ、うっぷ)」


 世の赤ん坊の夜泣き原因の中に、昼間に“高い高い”をされたため、というのがあるそうです。個人差はあり、諸説あるようですが。

 ふと、宙に放り出されている邪神の転生体こと捨丸の視界に、自分より一、二回り年上の少年が目に留まります。その少年は、宙に放り出されている捨丸をじっと見つめています。


「(そ、そこの、そこのお前! こ、この女を止めよ! 止めて! お、おぉぉおおぉ、助けて!)」


 すると、捨丸の母親は少年に気付き、我が子を“高い高い”するのを止めて言います。


「あら? 弁助べんすけも弟を“高い高い”したいのですか?」

「弟……それは私の弟なのですか? なにか先日見た時よりなにか違和感が……言い表せぬ不快感、いえ、怖さを覚えますが……」


 弁助と呼ばれた少年は、すっかり振り回されて疲れた捨丸を、母親から渡されて抱きかかえます。そして、じっとその顔を覗き込んだ後……


「父上! 父上ぇ!」

「(うぉ? なんだ? なぜ急に大声を出した? もしや、余が邪神であることがバレて、この身がまだ抵抗できぬうちに処断するつもりか!? くっ、母親を狂気に落とすのはまだ早かったか!?)」


 弁助は捨丸を抱えて、少し離れたところに座っていた男性の前へ膝をついて座り言います。


「私に、捨丸をください!」

「(え? ……んー? どういうこと?)」


 そう言われた男性は、自身の前に御膳に乗せられて出ている食事を食べながら、何も言わずに弁助と捨丸を見ます。

 弁助の言葉通りなら、この人は邪神の転生体の父親、ということになります。

 父親が何も言わないので、弁助が続けます。


「私は、捨丸を“嫁”に欲しゅうございます!」

「(嫁……? ツガイってこと? え、この小僧、突然何言ってんの?)」


 父親が食事の手を止めて弁助に言います。


「何を言っておるのだ」

「(そうだ。言ってやれ! 何を言い出すのだ!)」

「せめて色小姓ではないのか、そこは」

「(そうだぞ。せめて色小姓……いろこしょう? とは?)」


 弁助が邪神の思った通りの疑問を口にし、それに対して父親が冗談交じりに答えます。

 具体的には、男の尻と男のキノコで、BがLする、男同士の熱い友情以上の愛情について……

 当時の世では、衆道しゅうどうと呼ばれ、親が子を売り、子が親を殺す戦国の世において、政略結婚などよりとても強い絆を結ぶ、武士階級の嗜みでした。そう。嗜み、なのです。


「(何を教えているんだこの父親は! な、なんと冒涜的な行いっ! ってか子供にそんなこと教えるな戯けぇ!)」


 キリスト教を始め、多くの宗教的に同性愛はNG、神を冒涜する行いです。

 一般的にクトゥルフをはじめとする邪神たちはそういった神を冒涜する行いを善しとすると言われていますが、一般常識が無ければ何が悪事かも理解できません。裏を返せば、邪神も一般常識は心得ていると言えます。


「(流石にこのようなことを聞かされれば、この小僧とてドン引きだろ!? そうだろう!? な? な!? よもや、余の尻を狙ったりなどは……!)」




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