Ⅱ 休日 ー弟の場合ー


 閉め切られた蒸し暑さで、目を覚ました。

 時刻は午前八時。平日だったら遅刻確定だが、幸いにも今日は休日だ。


 それに、珍しく部活も無い。せっかくの休日、もう少し寝ていたかった、と少し後悔したが、目はすっかり冴えてしまっている。

 仕方なくベッドから体を起こし、俺は床に足をつけて立ち上がった。


 近くの窓にかけられた青みの強いカーテンを引くと、灰色の空が目に入る。よく目を凝らすと、微量だが雨も降っているらしい。


 ――これは、部活が休みで正解だったかもしれない。


 別に、この天気を見越して顧問が今日の部活を休みにした、という訳ではないだろうけれど、小雨の中で部活をするというのは、考えるだけで何となく気分が下がるものだ。


 雨特有の、ムシムシとした気温が俺は嫌いだった。ただ暑いとか寒いとかだったら、服を着込んだり部屋の気温を上げ下げしたりすればどうにかなるだろう。

 けれど、蒸し暑いとなると途端に対処できないし、どうにもならない不快感がと嫌でもまとわりつく。

 だから、今日は外に出なくてよかったと心底思った。


 カーテンを閉じ、部屋のドアノブを回して廊下に出る。そのまま階段を下りてみると、一階はしんと静まり返っていた。

 父はもう仕事に行ったらしい。あの人の仕事のスケジュールの内訳は全く知らないけれど、普段で考えるならこの時間にはもう家を出てしまっている。


 だから、この時刻なら父が居ないのは常だ。

 しかし、普段ならもう起きているもう一人の姿も見受けられないので、首をひねる。



 ――どうやら兄は、まだ起きていないようだった。



 高校生になる兄と俺は、性格はあまり似ていないと思う。

 俺が体育会系とするなら、向こうは文化系。そして兄は、見た目からしても頼りなさげな男だった。

 それに、俺より身長が低い。百六十ちょっとしかない兄を思い出す時、記憶の中の兄はいつもキッチンに立っていた。

 いつの日からだっただろう、そこが自分のテリトリーのように、記憶の中の兄は家のキッチンに立ち続けている。


 昔から、夕飯は兄と二人きりでとることが多かった。

 父は帰りが遅いから、俺と兄の二人で食べるのはほぼ毎日のことだったのだ。


 でも、いつからだろうか。作り置きのカレーやシチューが、いつの間にか卵焼きや焼き魚などの「誰かの作り立て」になり、気付けば朝昼夕が全て「誰かの手作り」となったのは。


 基本的に、その日安かった食材が献立の元になっていることが多い。

 ただ、卵料理だけはその法則に当てはまらない。日にちや曜日に関係なく、定期的に卵は安くなるらしく、兄はその度に「安いから」と家族で消費しきれない数の卵を買ってくるのだ。

 そして計画的に使わないと賞味期限間近になって卵料理が頻発する。毎回反省するのに、兄は毎回同じ過ちを繰り返す。中学時代の兄は、そんな男だった。


 そんな兄は高校生になった今でも、ほぼ毎日夕飯を作っている。本人は楽しそうだけど、正直飽きたりとか、嫌になったりすることは無いのだろうか。


 兄は弱音を言わない性格だった。だから、無理に問いただすと面倒くさくなるのは容易に想像できた。それは分かっているから、あえて何も言わない。


 けど、たまには休んでもいいのに、と思いつつ俺はコンロにフライパンを置いた。


 このフライパンは大きいものじゃなくて、卵焼きを上手く巻けそうな感じの小さいものだ。俺の記憶している兄はこれで目玉焼きを作っていた。

 それを参考に、俺はコンロ台にフライパンを置いてつまみを捻った。


 軽く火力を調節しておき、下の戸棚からサラダ油を取り出す。

 いくら兄がほとんど料理していて、自分がやらないからとはいえ、さすがにフライパンに油をひかなければいけないことくらいは知っている。

 そう考えると、家庭科の調理実習の時間は偉大だと思う。

 そのおかげで、ほとんど家で料理をしない俺でも、野菜炒めやみそ汁を作るぐらいならできるのだから。


 入れすぎないように、絶妙に角度をつけながら油をひいていき、まんべんなく広げる。

 使い終わったサラダ油のボトルは、忘れないうちにしまっておいた。

 フライパンが温まるまで、冷蔵庫を開けて中を物色してみると、大量の卵が視界に入った。


 ……また卵が安くて大量に買ってしまったのだろうか?


 見るからに家族分より多い卵の列から一つ取り、それとたまたま目についたキャベツを取り出し、俺はカウンターの上に置く。


 卵はすぐに割ってフライパンに入れた。キャベツは二枚ちぎった上で、さらに雑にいくつかにちぎっていき、それもフライパンに投入してふたをする。

 残りのキャベツは冷蔵庫に戻して、あとは待つだけだ。


 そういえば、兄は半熟派だっけ、それとも完熟派だったっけとふと考えたが、すぐに思い出せなかった。


 ――きっと兄なら、すぐに家族の好みを答えられるのだろうなと、少しだけ感傷的な気持ちに襲われた。



 そうだ、確か兄は俺と違って半熟派だったんだと思い出した頃、ふたを一度開けて箸で卵をひっくり返しておいた。

 俺は完熟派、しかも両面までしっかり焼く派だ。

 少し失敗して白身に一部穴が開いたが、食べられないわけではない。

 キャベツはいい感じに焼けていたので、食器棚から出してきた皿の上に避難させておいた。

 あとは余熱で大丈夫だろうと、早々に火を消してしばらく待つ。


 結局どれだけが余熱になるのか分からないまま、フライパンを傾け、見た目は美味しそうな目玉焼きを皿の上に滑らせた。


 ……よし、完成だ。目玉焼きには醬油派なので、醤油のボトルも持ってリビングへ持っていく。


 コップに麦茶を注いで、ひっくり返すのに使った箸も忘れずに持ち、テーブルについたところで手を合わせる。


「いただきます」

 久々の休み、久々の自作料理。

 手を合わせ終えると、俺は箸を手に取った。



 平日も休日も、考えてみれば兄の料理を食べていることが多かった。

 ただし父がいる場合、外食だったりなどの例外はある。それでも割合で表すなら、半数以上は兄の作る料理だ。


 それなら、兄が居なかったらどうなるのか。

 ある時、風邪っぽいと兄がソファーで横になった日があった。その日は症状が軽かったのか、次の朝には完全に回復していて、元気に朝食を作っていたが、もし朝になっても回復していなかったら、俺はどうしていたのだろう。


 それを想像したときに、果たして自分は生きているのだろうかと、大袈裟にもそんなことを思ったことを思い出した。



 もう少し焼いた方がよかったな、というのが一口目に食べた感想だった。

 半熟ではないが完熟でもない。完熟の一歩手前だったが、何年かのブランクがある自分にしては上手くできた方だと自己評価をしておいた。


 飯以外の時間だと、カップ麺や家の菓子で腹を満たしていたぐらいだから、まともな料理を作ったのは久々だ。

 それにしては焦げずにできたのだから、と自画自賛しながら、次は避難させていたキャベツに手をつける。

 ……こっちは普通に美味しかった。まあ余程のことが無い限り、野菜を炒めることで失敗することはないだから当たり前なのだろう。

 多分食べたのが芯の部分だったのだろう、シャキシャキとした触感が歯から伝わってきて心地よかった。


 こういうのを、ずっと兄貴はやっていたんだなって思うと素直にすごいと思ったりする。

 けど本人の前で言ってやりたくない意地も出てくる。

 要するに気恥ずかしいのだ。言うことも恥ずかしいが、言った後の兄の反応も想像するかぎり恥ずかしいので、これからも言わないと思う。


 ――いつか、言えたらいいのだろうけれど。


 階段のきしむ音が耳に入った。珍しく起きるのが遅かった兄は、一度咳をしてからリビングに入り、テーブルに並べていた俺の皿を見て目を丸くした。


「え、朝食あったの?」

「あったんじゃなくて、作ったんだよ」

「……あ、そっか」


 その可能性を全く考えていなかったように、兄はその後ヘラヘラと笑い、そして、まるで子供をほめる親のような声を出す。


「……そっか、すごいねえ」


 馬鹿にしてんのか、って言おうとして口をつぐんだ。



 違う、今言ったら確実に険悪になる。

 俺が言うべきなのは。

 俺が今、兄に言わなければいけないのは――。



「そっちこそ、いつもお疲れ様」



 やっぱり、言うべきではなかったのかもしれない。

 そう後悔するほどに兄は突然号泣していた。


 ……何か、タイミングが悪かったのだろうか。


 分からないまま、俺は逃げるように玄関に出た。


 小雨で、俺の嫌いな湿気が嫌というほどまとわりついてくるが、あの場にいるよりはマシだ。


「走ってくる」


 そうして、戻ってきた時には兄が普段通りの顔に戻っていてくれることを信じて俺は玄関の扉を開けた。

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