第27話 母の死

 兄とはいつもメールのやりとりばかりで、電話なんてかけてくることがありませんでした。

 そんな兄が昼の11時頃に電話をかけてきた時点で、私は「あーあ、やっぱり母さん死んだか……」と察しました。


 電話をとれば案の定、「母さん、死んどるわ(笑)」と。

 恐らく兄は、心を守るための防衛反応から笑うしかなかったのでしょうね。

 ――だって、無視している最中に死なれたんですから。その後味の悪さと言ったらありませんよ。


 私とて、笑うしかありませんでした。


 正直言ってこの時、「母が亡くなった」という事柄よりも、色々とショックなことが多かったです。

 母が長くないかも知れないという覚悟は、少なくとも「頭が痛いって言ってるわ」と聞いた時点でできていましたから。


 まず、亡くなるタイミングがあまりにも酷いと思いました。

 かねてから私が何よりも重視していたのは、「死に際が幸せかどうか」です。


 残念ながら母の場合は、まず間違いなく不幸せですよね。

 我が子に丸2日無視され続けて、「辛い、悲しい、明日は喋ってくれるかな、いつまで無視されるのかな」なんて思いながら眠ったに違いありません。


 そして、そんな状況で母に永眠された兄が――自業自得とは言え――不憫でした。

 私はそういう罪悪感にだけは苛まれたくなかったから、自己破産するまで「逃げた」んです。


 例えば、感情のままに酷く責め立てた相手が明日コロリと死んだとして、私はひとつも後悔しないか――そんなことばかり考えながら、生きているのですから。


 だから兄を不憫に思いながらも、「そら見ろ」という意識がありました。

 無視なんて、そんなことしても相手が死んだら自分が辛いだけでしょ、と。


 因果応報じゃん――と思うのと同時に、私は「分かって」いたのだから、いつものように2人の間に立つべきだったと後悔しました。

 2人にしておくと、どうしたって噛み合いません。サイコパス姉が彼らの仲を取り持てるはずもありません。


 兄から「無視してる」と聞いた時点で、彼のガス抜きだけでなく「でも頭痛いって言ってるんだし心配じゃん、もう老い先短いかもよ? 許してやれば」ぐらい言うべきでした。


 兄だけでなく、母とも直接会って話をすれば良かったです。「なんかまた怒らせたらしいじゃん、平気?」と。


 せめて私だけでも母に寄り添えば、「まだ自分には味方が居る」と思いながら――心強いまま、死ねたかも知れないのに。

 別に今も母のことは好きではありませんが、こればかりは本当に惜しいことをしたと思います。


 9日、最後に会話した時の嬉しそうな顔を思い出すと、どうにもやり切れなかったです。


 ――母も父と同様かかりつけ医なんてものはなく、自宅で亡くなったため、再び刑事さんの出番です。

 兄は電話口で「これから警察に連絡して、しばらく事情聴取すると思う」というので、私は「じゃあ、それらが終わった頃に行くわ」と。


 同居していないので事情聴取されても困りますし……いや、本音はたぶん、顔を見たら泣くかも知れないというのが、堪らなく嫌だったのです。

 あれだけ苦しめられた母の死で――しかも私は無責任に家を出て、拒絶していたものですから……涙を流したくないと思いました。


 父の時も祖母の時もそうでしたが、正直そんなもの流す資格すらないと思っていましたし。

 だから、早く行って死に顔を見た方が良いんだろうなと思いつつも、重い腰を上げられませんでした。


 そうこうしていると、あっという間に数時間経って――母の遺体は詳しい検死と死亡診断書を得るため、警察署へ安置されることになります。

 私は母の顔を見ないまま、そこでようやく自宅へ行きました。


 母は生前――散々迷惑をかけてきた自覚があるからか――「自分の葬儀は、子供だけの安い直葬で良い。焼いてさえくれれば、誰も呼ばなくて良い」と口にしていました。


 まず華やかに葬ろうにも、そもそも誰も金銭的な余裕がありませんし……まず父と祖母の葬儀で各所にツケがあるため、下手に藪を突けば蛇が出ます。

 お寺にも何十万とツケがある状態だったそうですから、お坊さんだって呼べません。


 兄弟とはかねてより、母が亡くなったら遺産放棄しようと話し合っていました。

 しかし母のこさえた借金をほんの一部でも払うと「単純承認」という行いに当たって、他の借金まで放棄できなくなるのです。


 踏み倒すようで大変申し訳ありませんけれど、私たちとて今後の人生と命がかかった問題です。


 仕方なくネットで直葬の仕方について調べれば、約10万円程度で、出棺と火葬前の読経と花束1つをセットにした、簡素なものが出てきました。

 とりあえず葬儀はそれにして、あとは間違っても地域放送するなよと(笑)


 耳の早い近所の人が「亡くなったんだって? お通夜は? 葬儀の時間を教えて」と訊ねて来ても、「故人の意向で家族葬します。誰も呼びません」とお断りしました。

(――って言っても、「普通、葬儀ぐらいするだろう。絶対にした方が良い」「火葬はいつだ」と執拗に迫って来ましたけどね)


 親戚に永眠したことを伝えると「何も要らないから、とりあえず焼香ぐらいさせなさい」と言われて。

 こちらは「何も用意しないし返せないから、香典も用意しないでくれ」と言い含めました。


 兄は相当なダメージを負っており、私がアレしようコレしようと提案しない限り、動いてくれませんでした。

 姉は元々頼りにならないので、「どうしよう、どうしよう」とパニックになっていても気になりませんでした。


 父の時も祖母の時も基本の手続きは母任せ。でも、姉は母に付き添って役所やらなんやら同行していたはずなんですけどね……。

 安置された母の遺体をどう回収すれば良いのか分からず、私はとりあえず「葬儀屋に連絡して、直葬の用意をしないか」と提案しました。


 しかし兄に、「土曜日で役所が閉まっているから、死亡届を発行してもらえないだろう」と言われて。

(死亡届に関しては、休日でも夜間でも緊急窓口が開いておりますので、この認識は誤りです)


 まず死亡診断書の発行を待って、そこからゆっくり考えようと。遺体も警察署にある限りは腐敗しません。


 そもそも死亡診断書がなければ、役所へ行っても死亡届なんてもらえませんからね。

 死亡届がいつもらえるかハッキリ分からないと、葬儀だって頼めない。先が見えない――と。


 恐らく兄は精神負荷が高すぎて、問題を先送りにしていただけです。


 葬儀代を払うのは私じゃなく姉と兄だったので、そこの判断は2人に任せることにしました。

 ――今思えば、この時無理やりにでも葬儀屋に連絡しておくべきだったんですけど。


 結局、その日の夕方に死亡診断書をもらえたのですが、役所が閉まっていると信じて疑わない兄弟は、それ以上身動きが取れませんでした。漠然と「月曜以降の話か?」と


 しかし翌日に、親戚から「たぶん死亡届ぐらい、曜日関係なくもらえるよ。早く葬儀済ませよう」と指摘されて、姉が受け取りに行くことになりました。


 遺体がないのに実家に居ても仕方がないからと、私は自宅待機です。

 そうして待機している間に、兄も姉もそれぞれ私にメールを送って来ました。


 役所へ行った姉から「市の制度で無料で火葬できるし、霊柩車も出してくれることになった。火葬は明日に決まったから、明日の昼12時に警察署前に集合で良いみたい。市の人が霊柩車で迎えに来るから、刑事さんと家族が立ち会えば良いんだって。こっちが用意するのは、棺の中の布団だけ」とメールが届きます。


 私はこの時、「あれ、昨日見つけた10万の直葬セット、頼まなかったんだ」と思いました。


 しかし「葬儀代を出すのは兄と姉だしなあ。母にお金取られまくってて、10万用意するのもしんどいよな」という意識がありましたし、棺の中に入れる布団を用意しろというくらいだから、「少なくとも母の遺体は、死に顔を見てから火葬できる状態にしてくれるのか」と捉えます。


 ――そもそも、まさか兄と相談せずに姉の独断でそんな重要なことを決めていたなんて、夢にも思いませんでしたから。

 同居している2人でまともに会話せずに、兄も姉もその場に居ない私とばかり会話していたのです。


 納棺師が施す、死に化粧というものがありますよね。

 故人の遺体をできるだけ生前に近い姿に成形してくださるものです。


 母は眠りながら、午前2時頃に脳出血で亡くなりました。

 肌寒かったのか、両手で布団をグイと引っ張って頭まで被った状態で亡くなり――家族が発見した時には既に硬直して、冷たくなっていたそうです。


 曲がったままの腕を体に這わせるように下ろすなら、お湯などで遺体を温めて硬直を和らげる必要があります。

 口の中に綿を詰めなければ、重力のかかるまま頬は凹みますし――鼻にも詰め物をしていないと、何かしらの汁が垂れてきます。


 まずおしろいを塗らなければ、素のままの死に顔なんて、色も含めて見せられたものではないでしょう。


 だから「布団を用意しろ」という指示を聞いて、私は安心しきっていました。

 とりあえず焼く前、最後の最後に母の顔が見られるぞと。

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