第26話(終) 夏の螺旋の果て

 神宿拘置所は、かつて新宿駅舎であった建物の地下倉庫を間借りして造られた臨時の要所にすぎない。車掌が敬礼する姿や車両が緑を駆ける風景を描いたポスターが廊下には色褪せて放置されており、電気も午後四時には消灯してしまうので既に暗く、古風な行燈のオレンジ色のみをたよりに生活する必要がある。もっともこの私のいまの身体は二十代前半と思しき男性のものを借りていて、視力が大変よく暗がりの中でも問題なく本が読める。他に用事がある訳でもなし、本さえ読めていれば当座は充分なのである。


 ダンボールに囲まれた倉庫。あの日のように──という訳ではないが、『Sein und Zeit』の何度も繰り返し読んだハードカバーをめくっていた──


 ──コンコン、と倉庫の扉を叩く音。


 先に私へ訪問するものはないと述べたが、ただひとつ例外が存在する。なるほど、今回は夜帯か──あまりに私が執行後に流離し直す訳だから、通常午前に行われる刑もアトランダムにしようという事だろうか。


 むろん、そんな小細工は「流離」にとって何の意義も齎さない。それにここまで来て、今更大人しく流離を諦めようだなんて運命が許さないだろう。ドアノックを無視していると、次にギイという軋みが灯りの乏しい空間に響いて、搔きわけるような足音が続いた。


 暗闇のわずかな橙光に照らされて、亡霊のごとく浮かびこんできた顔は──すでに私の方を見つめていた。成程、私でも解る。恨めしいような、化け物を見るような──


 見るような。


 その、君の眼は。



 どこかで見たような。



「ぼくは本堂という、ここに来たという事は、要件は言うまでもないな?」


 その、熱のこもった目は、そうだ──



 *


 玲奈君の図書室での死はまるでなかったかのように扱われた。

 終業式の日に転校してきたというエキセントリックさを除けば、確かに彼に関する思い出は学校で共有されていないのであるが──玲奈君の死を悲しめないというより、そんな転校生など初めからいなかったかのような、あまりに冷たすぎる違和感。教室のクラスメイトとは元より距離をおいている私であるが、二学期の始業式の日には彼女らが、野球場の内野席から外野席の観客を眺めるように、遠くにいるように見えた──そうか、お前たちくらいの馬鹿になると、人の事を忘れるのにも切り捨てるのにも戸惑わないのか。



 そうか、例の鮮やかすぎる夢だったのか? 実はそう思うことは極めて妥当である。だってあり得ないのだ、私よりも教養に秀でた人間が突如現れるなど。荒唐無稽なのだ、いつものように無色透明で終わるはずだった夏休みが突如、変人ぶるための格闘で彩られることなど。都合が良すぎるのだ、こんなどうしようもなく偏屈な私に、胸が躍るような夏が訪れることなど──


「あいつ、今日は何読んでんだ? 何あれ、日本語じゃないじゃん」


「夏休みを経てよりレベルアップしちまったか……」


「なんか後ろの黒板によくわからないこと書いてあるよね。あれも夏川さんが?」



 私だけが、玲奈君のいた世界に取り残されてしまっているのか。元より俯瞰していた世界がさらに、テレビの向こうの出来事に見えるようになった。すべてがどうでもよくなり、玲奈君に教わったドイツ語の本だけを読むようになった。もうこんなことをするはずもないのに、変人の振舞いを止められないのは、君の所為なのだよ……



「赤組のみなさん、頑張ってください」


「アンカーだぞ! 頑張れーー!!」


「……あいつさあ」


「ん? ほっとけよ」


「陰キャなのは別にいいけど、砂場で本読んでんのはやりすぎだろ、笑」



 校舎からは下校を促す音楽が寂しげに流れていて、校庭には擦り切れた白線やゴールテープの残滓が戦争跡のように遺されている。九月の夕方の空が久しぶりに身震いさせる寒気を降らせる中、気がつくと砂場で寝ころんでいた私の周りには誰もいなかった。


 身体を起こし、制服のブレザーについた砂を落としながら──ホメロスのオデュッセイアとともに教室へ戻ろう。いいじゃないか、今日は一段と変人ぶれた。玲奈君と糾弾しあったところの体育祭に、一切くみすることなく一日を終えてやったぞ。校舎の廊下はもうとっくに放課後のピークを過ぎていて、すれ違うのはわずかな制服姿のみで──


 すれ違った、今の制服は。


「──? あの……」


 ああ、あのツインテールは、あの終業式の日、玲奈君に話しかけていた馬鹿な女子じゃないか。どうして、彼女の前で私は立ち止まるなんて、


 彼女の顔を見て、


 目を見て、



 身体中に電流が走って、



「──玲奈君!?」



 当然ツインテールには化け物を見るような目でそそくさと逃げられたが、私はあの瞬間確信した。


 馬鹿な女子があんな目をできるはずがない。偏屈な視線を送れるはずがない。


 何の根拠もないのだが、あれは玲奈君の生まれ変わりなのではないかと、私は確信したのである──いや、生まれ変わりだなんて凡庸な語彙を振るったらまた玲奈君に見下げられてしまう。


 だからそう、私があの時感じたのは、



 実存の熱──とでも呼ぼうか。




 あの瞬間から私は、自らが無根拠に感じた実存の熱の現象を理論立てて証明するために、あのツインテールの女子が玲奈君なのだと解ってもらうために、あらゆる時間を自らの「研究」に捧げた。


 *


 あの時、すれ違った時に見た、あの目だ。


 同じ目をしているのである。扉の前の、私を憎そうに睨む看守と思しき人物が。


「執行は二時間後だ。何か最後に言い残すことはあるか? ──もっとも、お前が遺言を送る資格のある相手など居るはずもないだろうが」


 ダンボール箱の狭い間に体操座りしていた私を、仁王立ちしたまま覗き下ろす看守の姿がぼんやりと視界に映る。これまでの怯えた様子の奴らとは一味違いそうだ──いやはや、なんてったって君は、


「それでは──本堂さん、と云ったか。君の名前はなんていうのだい?」


「──はぁ?」


 なんでそんな、分かりやすく。


 だって訊かなきゃ駄目じゃないか。玲奈君と私が出逢った時も、流離して再開した時も、いつもそうだっただろう?



 少しの静寂の後、看守が吐き捨てるように告げた彼の名前は、私をして満足のうちに思い出話を語らせしめるのに充分であった。



 *



 玲奈君の生まれ変わりを証明するための「研究」は、当然当時高校生であった私には手詰まりと言うほかなく。日夜教室でシャラシャラと書籍をめくっては、黒板に理論仮説を書きなぐりまくる様を、いまや何のゆかりもないただのクラスメイトである玲奈君が目撃してくれているだろうと、これを機に記憶を取り戻してはくれないかと──そんな事しか望みがなく、どんどん私からズレていくだけの世界が日増しに憎くなっていった。そんな間にも人生を上手くやって、高校最後の青春を名残惜しくも楽しそうにやる馬鹿なクラスメイト共が憎くて、羨ましくて、季節はとうにマフラーが必要な冬になっていた。


 ある雪の日の夜の事だった、と思う。無人の家のキッチンへ行き、アルミ包丁をかすめ取り、私はとうに閉館した学校の図書館へと向かった。もう、こうするしかないと思った。理論を解き明かせないのなら、実証するしかないだろうと──あの夏の玲奈君を再現するほかなかろうと、覚悟を無理にでも決して、けれども追っていたアニメの最新話が未だ気になるまま、踏みしめた通学路の積雪の堅い感触を覚えている。


 暗やむ本の開架に囲まれて、ナイフの銀色を前に高鳴っていく鼓動と、額にたまる脂汗、空調のない凍えるような寒気。それらが永遠のように感ぜられた地獄のような時間が、当時最後の記憶となった。自分にこうさせた世界は狂っている。いつか絶対に壊して、もう一度玲奈君と話をしてやるのだ。もしこの試みが失敗して、ただの犬死に終わったとしても、あの夏を識ってしまった上でこんな莫迦な世界で生き続けるよりはマシだ──腹に包丁を突き立てた後の痛みとか、絶望とかを憶えている余裕は、なかったようで。


 ──次に、見知らぬ天井をはっきりと視認できたとき。世界への憎しみをはっきりと憶えたまま、君との夏をはっきりと憶えたまま、丁度座っていた机の前にあった手鏡で、じぶんの知らない顔を目にした時──私としても久方ぶりに大笑いしたものである。



 そうか、これが。


 世界を蠢く「流離」という真理。



 あの時の玲奈君もどういう訳か、思い至っていたのだろう。狂った世界への憎しみとともに自刃した先に、「流離」を自覚する扉が開けるという事を。


 私はあくまで玲奈君の所業をなぞっただけであるが、玲奈君がどのような経緯で死を選ぶことができたのか────というのはさて措き。


 今が二〇二二年で、十年以上の時を経てようやく私が覚醒できたと知った。別の人生に流離していて、それを自覚することができた。後は、これを玲奈君にもやってもらえれば。玲奈君に「流離」を自覚してもらえるように、あの夏に語らった世界の狂気を識ってもらい、そのうえで死んでもらうのだ。


 まずはかつて君が図書室で私にそうしたように、突如割腹死体となって君の前に現れてやろう──その際当然訊きたい事といえば、



 *




「──君、昔小説を書いて新人賞に出そうと思ったことはなかったかい?」


「──意味分かんねんだよさっきから!」


 とうとう爆発した様子だが、意味が解らない。だって君がそんな目で、その名を名乗ってしまったら、語らない訳には、訊かない訳にはいかないじゃないか──


「お前の所為でな! 何人もの人生が不幸になって、ぼくの家族だってむごたらしく死んだ! どうしてくれるんだよ外道がッ! 本当はお前の顔なんか一ミクロンも見たくなかったんだ!」


 私は──君の目がもう一度見れて、満足したよ。


「こんな所でのうのうと本なんか読んでるのが腹立つんだよ! お前の存在は、ぼくが、世界が、社会が、絶対に許さない、許しちゃいけないんだ!」


 そんなの最初からそうだったじゃないか。


 ずっと世界が狂ってるって一緒に嗤いあって。社会の愚かさを腐しあって。そんな楽しかった、流離してでももう一度やりたかった夏を最初にくれたのは、君なんだよ玲奈君。


「どういうカラクリで死刑を免れてきたのか知らないが──ぼくは絶対にお前を許さない、絶対にこの目で、お前が惨めに死に晒すのを見届けてやる──おい、何笑ってんだよ」


 私を殺しても、いくらだって流離できる事をもう忘れてしまったのか? 


 ──ああ、そうか。


 。流離を自覚せずに、社会でうまくやっていける君。それは即ちこの世界が、私にとって最悪の舞台となっていることを意味するが──


「看守さん」


 世界を、夏を、玲奈君を、諦められるならば──最悪な舞台というのも、悪くない。


 あと一言だけでいい、と私が言うと、君は明らかに戸惑った様子で後ずさる。真っ暗で見えなくても、手に取るように解る。


 成程、この言葉は──玲奈君の小説を初めて読んだときに、変人ぶろうとしてずっと言えなかった言葉は、つまり君を追い求めようとする限り、ずっと言えるはずもなかったという事か。だって私は君と変人として出逢った。変人だった君に憧れた。そういう世界を良いと思ったのだから──



「さっさと言えよ」


「■■かった」


「なんだよ、よく聞こえない」



                   「面白かった」


 *


 行政特区「神宿」には、例の日の翌日から、奇妙な平和が訪れた。


 死刑執行翌日に最も厳戒な警備が敷かれるという中々にこっけいな有様だったが、無人となった拘置所に訪問者の姿が確認されないと見るや、困惑と安堵の混じった嘆息を現場の誰もがならす風景を、ぼくは滑稽だと思った。神宿を五十年にわたり襲った夏川の呪いはこれにて終幕し、以後は少しずつ、停まっていた復興と入植も進んでいくことだろう。


 とはいえ過去が過去だ、向こう五十年は関係者以外の立ち入りが赦されることはなさそうだという見込みが出ている。夏川の死刑執行を見届けたぼくとしては、もう少し楽しみにしたいものだが──神宿の五十年後を。


 さて、今日は二〇五六年の八月。旧神宿駅舎内に設けられたスペースで、臨時の会議があるということでぼくは駅舎前まで来ていた。なんでも件の執行を成功させた事でぼくは外界で大層持て囃されているらしく、神宿に入植すると余程の許可なしでは外に出られないために確認ができないのが惜しいのだが、このぼくの自伝を書きしるそうという向きがあるらしい。今日はその編集会議である。


 くだらないな、と思う。自伝なんてうさん臭くて誰がまともに読むのだろうか。それよりはこの知名度バブルを活かして、小説なんて上梓してみたいものだ──、中学生の時は文芸部で、作家になれるんじゃないかと淡い夢を抱いて新人賞に出していた頃もあったのだ。今では程遠い職務に就いているが。


 神宿駅舎の入口をくぐりながら──八月らしく、けれど晩夏を少しも感じさせない温い風を背に受けながら、どんな設定がいいかと妄想してみる。こんなにも小説を書いてみたいという欲がどうして今更急に沸き上がるのかてんで不思議だが、夏の終わりには誰しも、昔を懐かしみたくなるような作用がどこからか齎されるものなのだろう。それは暖かくて心地の良いことだし、きっと今後の人生で、社会で、何を経験するにせよ──五十年百年と変わらない眩しさなのだろうとぼくは思った。


それこそ、夏を真理として流れるように廻る、世界の在り方。そんな世界に活かされている実感が人生でもっともある今のぼくが、小説を書くとしたら──いったいどんなタイトルがよいだろうか。

そうだな、例えば──


(”Summericle”)

(is Really Over in Mid-Summer)

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夏流離譚 在存 @kehrever

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