第25話 ミンミンゼミ

 ──いつも、鮮明な夢を見る。

 ホームルーム後の居眠りは、セミがわめく草原を見知らぬ誰かと駆け回る夢だった。しかしこの記憶を誰かに気分良く物語ってみれば、「そんなものは夢じゃない、ただの作り話だろう」と嗤われるのが常であった。成程、私が眠るときにいつも見るこれは、他の人のそれとは少し違うらしい。夢とは元来荒唐無稽なもので、まるで他のありえた世界の運命を語るようなものではないらしい。私は世界からズレているらしい──幼心にそう悟ってからというもの、世界が私から一歩離れた。鮮やかすぎる夢が気持ち悪くて苦しんだ時期もあったが、今ではまさにこの世界からの離脱──とでも言おうか──を仮初めにでも叶えてくれる時間として、眠ることと一緒くたに好いている。

 授業も放課後も何も面白くないんだ、夢だって見させてくれても良いだろう。




 巷では楽しみにされるものらしい夏休みに突入した、我が高校。私にとっては読書と勉強に明け暮れる集中期間でしかないが、一方で教室は浮かれていて、大きく三つのグループに分かれて生徒の群れをなしていた。


 伊藤計劃を読み終え、哲学書を取り出しながら彼女らのご様子を観察してみる。


 一つ、今日の午後にラウンドワンに行く組。終業式らしく午前で放課後を迎えた解放感にまかせて、髪の毛が黒でない男女のグループが数個の机を占領してスマホ片手にバカ騒ぎしている。風紀が終わっているし、第一彼女らは私と比べて馬鹿である。折角自由な時間が手に入るというのに本も読まず商業施設で遊び惚けるだなんて、生涯年収と人間強度を下げるだけの愚行だと気づくのに後何年を要するのだろう。いずれ彼女らは私の栄転を羨ましがることだろうと、ページをめくる。


 二つ、一週間後に控える補習の課題学習組。弊学は高校三年で受験を意識し始める我々に、夏季休業中も講習やら補習をあれよあれよと供給してくれる。もっとも補習とは先の期末考査の成績が悪い意味で人間離れしていた層向けの低レベルな営みであって、つまり彼女らも純然たる馬鹿である。私はあのような落ちこぼれとは縁すら持ちたくない。


 そして最後は──これは実際に、私の耳に現在進行形で届いている会話を聞いていただくのが早いだろう。


「玲奈くん、っていうんだね。いい名前!」


「前の学校どこだったの? てかこの時期に転校って!」


「え、すごい難しそうな本読んでる! 諌山君って頭良いんだ! 憧れる~」


 少しその媚びた口を閉じろ、とは勿論内心でしか言わないが。


 一時間前にこの教室に現れたばかりの、季節外れの転校生──玲奈君というらしいあの男のもとへクラスの女子がハエのように集り、よくもまあ赤の他人にそこまで無償の興味を注げるなと。男子だからといって惹かれるような低俗な私ではないが、どうやら教養があって勉学もそれなりに立つ男らしい点は一目に値する。そういう人間は持て囃されても良かろう──もっとも、このクラスで勉強面において私に勝る人間は存在しえないので、その点で彼のアイデンティティを事前に潰してしまっているのは申し訳ない。


「え、玲奈くんも来週の世界史講習来るんだ! 分からないところ教えてね!」


「世界史──ぼくは理系だから、あまり得手ではないが、良ければ」


「玲奈くん、身長高いよね。運動とかやってたの? 部活入る? 夏休み明けに体育祭があるんだけど」


「人並みにやれるだろうが。ところで君、やけにぼくに興味があるようだが、名前は?」


「え、えと、私は──」


 玲奈君に黄色い嬌声を飛ばす、かのツインテールの女子はきっと生まれ変わっても馬鹿である。解らないところを知りたいだけなら私夏川に訊けば事足りることを彼女は度重なる定期考査の順位結果から知っているはずなのに。この夏川が成績トップであることなど、周知の事実であるはずなのに。それは一週間後の夏期講習で否応なく思い知ることになるだろうから、あえて指摘はしないけれど。


 以上、三つのグループを後ろの席で脇目に見ながら、私は読んでいた『存在と時間』の熊野純彦訳に戻った。こんな晦渋な本を読んでいる高校生、学校見渡しても私くらいしかいないだろう。


 転校生の玲奈君は、人だかりが落ち着くと辺りを少々見まわしてから、さっさと教室を立ち去ろうという様子だ──私の後ろを横切るとき、彼の挙動をずっと目で追い続けていた自分に気付く。物珍しいものを注視してしまうのは生物として真っ当な習性、だろう。




「夏川、というのだね。君は」




 尊大な雰囲気の声が、ふと頭上から。


「クラスの面々の陰口を綜合して、ぼくは君の名前を夏川と推測した」


 この教室でわざわざ私の名字を確認する必要があるのは、ひとりしかいない。


「ぼくは諌山いさやま玲奈という。名字よりも名前のほうが大層気に入っているので是非玲奈君と呼んでくれたまえ。ところで皆の陰口によると君はこの学年で一番の成績のようだね」


 君であれば、あるいは。と玲奈君は満足気に腕を組んで私を品定めするように凝視する。思わず視線を逸らした。


「ところで君、夏川とは名字であるね。名前は何というのだい?」


 この男は──先の馬鹿な女子との会話でもそうだったが、やけに他人の名前を気にするな。名簿でも見ればすぐに解るだろうに。


 なんて押し黙っていると玲奈君は勝手に何かを察したのか、


「まあ良かろう。ぼくは君の事をこれから夏川と呼ぶ。夏川、夏川──うむ、すぐには慣れなさそうな響きであるな──ん、その本は」


「えっ、と──」彼は完全に自分のペースでひとりで会話している。


「『存在と時間』じゃないか! ぼくもいまちょうど、味読していたところだよ。哲学者は他に誰を読むのだい?」


 ヤケに食いつかれていることに、困惑と、少しの誇りを覚えながら──「ハイデガーと、最近はレーヴィット、メルロ=ポンティ、フロイト、ポパー…」


「現代思想寄りか──悪くない。君とはもっと詳しく話してみたいよ」


 明日の放課後、図書室で待っている。そこで全てを話そう。そう言って踵を返す玲奈君の右手にはハードカバーの本が携えられていた。ちらっと見えた表題は『Sein und Zeit』──私が読んでいる本のドイツ語での原著だった。


 ドイツ語って明日までに修められるだろうか。別にそうする必要はないのだが、そうせねばならないと思った。その日の帰り、駅前の書店でドイツ語文法の入門書を買った。




 その日の夜の夢。一切の家具がなくなった自室で、ミンミンゼミの鳴き声だけがけたたましく響く、孤独が胸に沁みる夢だった。




 翌日、学校内のこじんまりとした図書室は、夏休み中ゆえ当たり前だが閑散としており、私たちのほかには数名の受験生がもの静かに机で考える人の姿をしているだけだった。


「さて、夏川の理解力を大いに信用してのぼくの告白になるが」

 哲学書の読書会のつもりで、ドイツ語を自分なりに一夜漬けして望んだ私は、ノート一冊だけをもって机にふんぞり返る玲奈君と会うなり肩透かしを喰らった。彼の正面に座り、両手に持った大量の本とファイルをカバンにしまっていると、その背後から



「夏川、ぼくは夏休みの終わりとともに死のうと思っている」



 死のうと思っている。



 図書館の小さいチャイムが響く。


 ……


「へえ、そうなんだ」


 他の言葉が私からは出てこなかった。


「理由は単純でこの世界がくだらなくて馬鹿げてて狂ってるからだ。聡明と聞く夏川ならば、共鳴してくれるのではないか?」


 いきなりとんでもない事を言う──確かに生きづらい世界ではある、私から少しズレている世界ではあるが、だからって死のうとまで変人めいたことを言われたら、それは──


「──当たり前だ。この世界は終わってる。今すぐに死んでしまいたいと私も思ってた」


 それ以上の変人であろうと張り合う他ないじゃないか。この学校で一番聡明で変人なのは、私なのだ。


「なるほど」玲奈君は頷いた。「やはり君は見込みがありそうだね。君にならば、ぼくがこの夏休みに、死ぬ前に達成したいことを開け拡げてもよいかもしれない──これを」


 受け取って欲しい、と玲奈君は唯一持っていたノートを私の前へ差し出した。おそるおそる卒業証書のように両手で受け取り、これは……?という目線をとはいえ変人ぶるために真顔で送ると、


「小説だ。単純に趣味なのだが、今回はぼくの中でかなり会心の出来だから折角だし新人賞にでも出そうと思っている。表題は校正を終えて完成してからつけようと思っていて、とりあえず感想を賜りたいのだが、前の学校では小学生並みの知性を欠いた事ばかり言われて参ってしまってね」


 ぼくが小説に込めた思いを、何一つ汲み取ってくれないと。遠くを見るような目で言ってから玲奈君は、再び私に目線をやって、


「君なら良い感想を寄越す事ができるだろう、例えばこの小説は冒頭でシェイクスピアのかの有名な『夏の夜の夢』に倣って──」


 やばい。思わず固まってしまう。シェイクスピアは読んだことも観たことも──私のそんな狼狽えを聡明にも察したのか、玲奈君はふっとただでさえ乏しい表情を完全に消し、


「──そうか、君でも駄目か」


 ふうと息を吐いてから、席を立った。


 この学校のトップですら、これかと。


 いま私は、そう品定めをされたのか?


 そんなこと──


「──待って、違う! その、実は……」


 思わず口が出ていた。


「──明日、また図書室に来てほしい、その時までに感想をまとめるから。実は今、いろんな感想が思いつきすぎてしまって、まとめるのに必死なんだ」


 我ながら、あまりに惨めな嘘だった。


 玲奈君は「ふうん」と興味なさげに私を一瞥した後、「まあ良いだろう、休みだし」とだけ言い、足早に図書室を去った。


 彼の背中を目で追う間もなく、私は図書室に存在したシェイクスピアの全書籍をかき集め、閉館時刻まで読み続けた。そして帰宅してからは借りてきた全集を傍らに、彼のノートを一枚一枚めくる──が、今まで読んだどんな哲学書よりも難解で、何一つ具体的な感想が頭に浮かんでこなかった。学年トップなのに。そんな意地を以てしてもまるで歯が立たず、次第に視界が潤んでくる。あのようなぽっと出の不遜な転校生に負けるわけにはいかない、私のプライドを守るのだ──


 ──という動機は実のところ既に薄れていて、あの後一睡もせず彼の表題のない小説にかじりつかざるを得なかったのは──


 だって、その日の夜は今までの夏休みのどんな日よりも、孤独で、悔しくて、胸が躍ったのだ。



「それで、どうだったんだね」


 次の日、徹夜明けで家に居ると眠ってしまいそうだったので、朝七時には学校の図書室を訪れた私は、約束通りにここを訪れてくれた男の声を聞いた。


 実際のところ、成果はゼロである。今日もここ図書室であれこれと書物を漁り、彼の小説と格闘したが、まるで学習が追いついていない試験勉強をしているようで泣きたくなった。それでも、この男を言い負かせるのは、私こそが学年トップだと虚飾だとしても主張できるのは、これが最後の機会だと──




「──全然、全くつまらなかった」




 愚かにも私は、そう言って変人ぶった。


「まるで含蓄もないし、哲学の解釈を間違ている部分もあって読むに堪えなかったよ。今すぐにでも校正してやりたい」


 ──ああ、なんで自分は。読めもしない本の感想をつらつらと語るなんて、それこそこの私が最も嫌うところの馬鹿な行為であるはずなのに。自分が自分でないようだ。


「──ふ」


 まだ着席すらしていなかった転校生は、少し間を置いた後──


「──ははははっ! 傑作だ! そんな罵倒を受けたのは初めてだ! そうか、!」


「そ、そうだね。この本にはロマンチックさが足りない。物語と

して破綻している」


「成程、君は底知れないな。是非ともぼくの表題なき小説が面白くなるよう、この夏休みを通して校正を頼みたくなってきた。そうでないと死ぬ前の心残りとなってしまいそうだ。いやはや、君が何を考えているのか、皆目見当がつかなくなってきた。この──」



 ──哲学者が。




 彼が私を揶揄したその一言が、あの夏からずっと、私の胸に残っている。





 それから夏休みは、玲奈君の小説の校正と称して、毎日のように図書室に「参考書籍」を持ち込んでは、各々の思索について語り合った(実際のところは玲奈君のご高説に気圧され、私は相槌をうつので精一杯だったが)。ハイデガーの根源的時間性について語りあった。伊藤計劃が後世に与えた影響について論じあった。千葉雅也の論の難点について示唆を交わした。時に玲奈君が語る難解なエピソードに対し、私は大して理解もせずに「どうだろうか」と首をかしげてみたりした。学術論に一息つけば、この世に蔓延る不条理な物事について持論をぶつけ合うこともした。


「夏川はこの学校の夏休み明けにあるという体育祭という催しについてどう思うかね」


「まったく不必要どころか青少年に対して有害とさえ言わなきゃいけないね。基礎体力ならばまだしも、投擲や高跳びといった種目は将来にとって全く不必要だ」


「然り、お遊びの体育祭などまったく加担してやる必要はない。体力でなく知力を競わせる学内模試をもっと精力的に執り行うのが学校としての本分のはずなのに、教師陣は自堕落な学生たちにおもねっているのだ。やはり夏川は物事の本質を解っている、哲学者だ」


 そうしてあっという間に窓の向こうの日が暮れ閉館時刻になると、高校生らしく各々の門限を守りつつ、それぞれの自室から携帯のショートメッセージ機能で、玲奈君の小説に対してできるだけ意味不明な感想を繕って寄越した。その度に玲奈君は思いもよらぬ深読みをしてくれて、私を「哲学者だ」と称賛した。それを過大評価であると認めることに最早厭いはなく。そうしなくても充分──と、いうことである。




 そんな夏休みも、気づけば盆を過ぎ。


 徐々に議論の種がなくなってきた私たちの間を埋めるように、玲奈君は私も薄々気になっていた話題を放り込んできた。


 私たちが連日図書室に居座るので、他の利用者を排斥してしまっていて、気づけば二人だけの専用空間となっていた図書室で、彼の告げ事に対し、私は言いたかった。


 ──本当に、死ぬ必要があるのかと。


「この夏は大変お世話になった。君のおかげでぼくの小説は大変示唆に富んだ彩りのあるものへと仕上がったよ。これで心置きなく表題まで決めて、そして死ねる」


 確かに、君と出会ったあの日、私もこんなくだらない世界からは死別したいと言った。それも今では変人ぶりたい一心での戯言だと恥じることができる。


 しかし、そうだとしても──


「──死んでも意味はないと思うけどね」


「ふうん、それはどうしてだ夏川?」


「だって、生まれ変わっちゃうから」


 ──荒唐無稽なことを言い続けないと、私は君に比肩できない。


「私は他の人と違って鮮やかすぎる夢を見るんだ。これは諸々に鑑みて、前世の記憶なんじゃないかと踏んでいる。それで解るんだ」


 だから──


「──成程。しかしそれは益々ぼくに死にたい気持ちにさせる話だよ。なぜって、もし転生が本当にあるのならば、それは人間が死への根源的な不安を断ち切る契機となりえるからだ。ハイデガーが根源的時間性と言って人間の有限を喝破するときも、死が絶対的な終わりであることを前提にしている、だから」


 ぼくは予定通り、明日死ぬ。


 ──なんだよ、違うだろう。


 玲奈君は私の主張を何も理解していない。聡明なんだから解るんじゃないのか、君も結局は凡百に並ぶ馬鹿だったのか──そんな正論を、感情を、吐く資格があるはずもなく。


「──玲奈君の小説は、君との夏休みのように最後までつまらないままだった」


 違うんだ、玲奈君、これは──




 翌日図書室を訪れてみると、上裸で血まみれで泡をふいている玲奈君の死体が机に横たわっていた。今年の夏休みは、そうして最悪な光景を掉尾に残して、一生忘れられない形で終幕した──始まりがあれば終わりがある。ドイツ語の諺ではAlles hat ein Ende, nur die Wurst hat zwei.と表現すると、数日前に玲奈君に教わった。こんなどうでもいい事まで忘れられないんだろうな。




 ──この、哲学者が




 もう一度、私をそう呼んではくれないか。もう一度、話をさせてはくれないか。


 私以上の変人と初めて出逢った、初めて胸が躍った夏休みを、玲奈君に「哲学者」と言ってもらえれば──いつでも思い出せるだろうから。


 そうしたら私は、いつも君の前で変人ぶろうとしてついに言えなかった言葉を、今度こそ贈れるのだ──


(続)

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