終章:世界の真夏に贈る心にもない謝辞

幕間 五十年後と五十年前

『神宿拘置所の現状に関する報告および辞令について』


 以下の報告書は神宿にまつわる周知の現象について、検察官に採用された者全員に改めて教授するためのものである。


 日本では二〇〇〇年から二〇二六年までの間で計九八人の死刑囚に対して刑が執行されたという。しかるに二〇二六年の例の新宿虐殺を画期として執行数が激増し、今年二〇五六年はなんと一年でかつての二十六年間と同じ九十八件の執行がなされるに至った。もっとも執行数の公表はだいぶ前に控えられるようになったから表沙汰には相成っていない。


 この執行数の激増について、改めて周知しておく必要があるだろう。


 現代において発生したのが摩訶不思議とすらされる、犠牲者の正確なカウントがもはや迷宮入りとなった新宿虐殺──これはいまやたったひとりの人間による犯行であると公に断定されている。司法の審級に掛けるまでもなく死刑判決が出されたのが二〇二七年十二月、虐殺からちょうど一年後のことだった。当時東京をずっと離れた郊外・飛ケ崎に身をやつしていたという容疑者が突如の自首をしてから、わずか一ヶ月以内の決着であったという。そして被告の死刑はその六か月後、二〇二八年六月に新宿に臨時・専用で設けられた拘置所にて執行された──当時まだ復興のめどが立っておらず、廃墟であり厳重に管理されていた新宿という地域が、万が一のリスクを排するために執行場として選ばれたという訳である。


 こうして戦後最悪の事件に対しての正義はなんとか下され、新宿は日本の信用回復・復興のシンボルとして、徐々に再開発と入居が国策で許されていくはずだった──




「……わざわざ言われなくても識ってますよ、こんな小学生レベルのこと」


 男は空間に表示させていた書類を閉じ、立ち上がろうとしつつ「サイン必要なんでしたっけ」と手の甲のマイナンバーチップを頭上を飛ぶドローンに掲げる。


『認証成功しました。本堂ほんどう玲奈さまの神宿拘置所への着任を許可します』


「許可って──あんたらがぼくを勝手に配属させたわけだろう。ドローン越しに他人事みたいで腹が立つな」


『そう言われましても、あくまで着任者の申請を「許可する」という形でないと手続きが踏めないのだから仕方ないでしょう。むしろこちらとしては一応、あなたに選択権を与えているのですよ』


「選択権はあっても選択の自由はないんだろう。神宿着任の命令に対してぼくが言えるのははいかイエスかだけ」


『何も言わずに着任を拒み、ここを去っていった人間も数多くいますよ』


「去った人間の行方が誰一人として知られていない弊庁のブラックさに鑑みなければ、ぼくも無言の抵抗を選んだかもしれないが。とかく赤紙が来た時点で未練は断っているよ。

 というか、拒むわけない──これはようやく鉢が回ってきた、復讐の機会なんだ」



 新宿虐殺を引き起こした死刑囚に刑が執行された翌日、新宿臨時拘置所に一人の女性が──昨日手掛けたばかりの者とは別人の女性が忽然と現れ、自らを「私は夏川と云う。件の連続怪死事件のすべてを手掛けた張本人だ」と名乗った。彼女はのちに新宿を「神宿」と改名せざるを得なくなった「呪い」の端緒であり、あるいは神宿の復興と段階入居が白紙に戻され、列記とした禁足地として定着することになった原因であり、また付言すれば、二〇二六年以降の死刑執行件数が秘密裡に激増したことの根源であった──殺しても殺しても「夏川」を名乗る人間が神宿に舞い戻ってくる有様を受け、臭い物に蓋をするほかなかった次第である。



「新宿に居たぼくの祖父母をむごたらしく殺害した、あの外道の死刑執行の瞬間を、このぼくが見届けてやらない訳にはいかない」


 新宿をめぐる悲しみの円環は、五十年経っても、名に神を冠してもなお、断ち切られていない。




 こんな事をし続けていても、玲奈君に辿り着けるはずもないとは理解している。



 世界への復讐にすらなっていない、ただの悪あがきに私は身を粉にしていると。そういう意味で、君のもとへ流離しようという夏流離譚はとうに頓挫してしまった。


 それでも五十年を超えて昔、夏の素晴らしさを知ってしまってから、私は駄目なのだ。


 床に散逸した書籍が扇風機に煽られる夜の一室。活字を見ながら世界の愚かしさについて君と語り合った、あの夏の日。


 豪徳寺のアパートで君と並んで寝転がり、やかましい位の陽が刺した、夏の昼下がり。


 夏と云ってそんな偏屈な思い出だけが頭を駆け巡るのは、青や緑といった爽快さが蘇ってこないのは、すなわち私がそういう色に乏しい人生を送ってきたということだが──それでも確かにあの瞬間、私は夏ができていた。その傍らにはいつも玲奈君がいた。玲奈君がいた夏は、素晴らしかった。



 そんな素晴らしさがどこかにあるはずの世界と決別する覚悟が、今の私にできるはずもなく。また一人を殺し、またひとつ罪を重ね、また一人へ流離する度に、いまや流離の自覚すらしなくなってしまっただろう玲奈君は「夏川」のことを蔑み、ますます私のもとから遠ざかり、他人となってゆくのだろう──それは解っている。解っているのだが。


 誰もいない神宿の、誰もいない暗がりの一室で、光を失った窓を眺めながら──ただ晦渋な哲学書を読んでいるだけで満足できていたのは、どれだけ昔のことだろうか。玲奈君と初めて会った時のことが、流離を自覚できるようになったおかげで今でも鮮明に思い出せるのは、まさに不幸中の幸いといえよう。拘置所で何百回目かの死刑執行を待つ間の暇つぶしに最適である。


 夏流離譚は頓挫した。これから世界に続きが紡がれるとするならば、それは本懐を遂げられぬ運命となった私が、玲奈君を諦めるまでの道程、追憶、或いは懺悔の消息である。


 ***

 **

 *



「ホームルームの前に、転校生の紹介です」


 明日から夏休みだというのに、どういうタイミングで転校しているのか。


 一瞬だけ興味をとられて目を離した伊藤計劃にふたたび戻る。ホームルームとは私にとって読書の時間なのである。


 黒板に書かれた名前を、後で尻目に確認することになるが。



 苗字のところは教壇に立つ教師に隠れて読めず、最初に目に入ったのは「玲奈」という転校生の名前だった。



(続)

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