第23話 不適合者ララバイ

「私がずっとこの、君の後輩の器に居候していたと云う供述はもはや必要あるまいね」


 夏川は背後にある半開きの窓を閉めた。


「玲奈君とこうして小夜に語らうのが日常であった頃が四年、いや五年も前に存在していたと私の流離譚には記されているが、まさに夏の夜の夢だったのかと思い紛うほどに、君とは今ここで初めて逢ったような気分であるよ。ところで玲奈君、今私が挙げたシェイクスピアの傑作については当然あらすじを知っているな?」


「──ご高説の前に、血は大丈夫なの?」


「ああ、どうやら幾百回かの流離のどこかで痛覚は置いてきたようでね。あるいは肉体に属する刺激はまだこの「器」のほうに残存しているのかもしれないが──さてお待ちかねの高説だが、シェイクスピアの『夏の夜の夢』の見せ場といえば、一筋縄でいかぬ恋模様を抱えた男女が妖精の森へ駆け込んでからの始末だね。そこでは魔法の勝手なる力によって、男女それぞれ恋の対象があべこべになってしまう──まさに各々の魂が流離してしまったかのような。


 結局のところ御作は喜劇であるから、信じられないような流離と混乱もひと夏の気の迷いに過ぎぬ、とでも言わんばかりな筆致に対して私が思う事こそあれ毒づく謂われはないのであるが──しかし玲奈君にだからこそボヤけることには、一度流離を自覚してしまった人間が元の鞘に収まることなど、喜劇が終幕するように一件落着することなど、あり得ないとは思わないか? という、流離を繰り返した果てに辿り着いたこの世界の残酷さだ。流離を自覚してしまった私たちにだけ解る、圧倒的な孤独と閉塞感だ」


 牛肉鍋の旨い香りがわずかに残る程度の一室は、誰かが喋り続けていないと耐えられないくらい、暗くて生気がない。少しの閑寂ののち、ぼくは「窓開けてよ、空気が蒸れてる」と目の前の女性に要求した。


 目の前の、窓の前に仁王立ちしている。


 今日一日を共に過ごしたはずの、小柄なデニムシャツの女性。

 左手首から血筋を垂らしている事など、まるで気にしない様子で、


 ただぼくだけを殺すように見つめてくる、隈が増えた両目は、

 ──場違いにも、どこかぼくを安心させるものだった。


 夏川は少しもぼくの要求に応じてくれないどころか、質問に対するぼくの答えすら待たないままに、


「やっぱり私は、という世界の摂理が大嫌いだ。嘉村茉希は言うに事欠いて、大好きです──なんて唐変木な口上を吐いていたが。私が彼女への流離を完成させたことにより、奇遇にも嘉村茉希の履歴書は、、と一言でまとめられるようになったな」


「──」


「さて、この世界には今、ぼくときみの二人しかいない訳で、ぼくはいつの日か、アパートの一室の布団のうえで君を殺し損ねた悔恨をようやく晴らせると息巻いて、君を殺そうとしている。殺してしまえばこの夏流離譚はいよいよ完結を迎えるのだ──私はすでにそこまでの覚悟を済ませている訳だが、君はどうだね? 思い残す事のないよう、訊くべきことは今のうちに訊くと良い」


 どんな物語にも解決編は付き物なのだ、と言って夏川はしゃがみ込み、足元に置いていてナイフを右手で拾う。


「……そうだね、じゃあ言葉に甘えて」ぼくはその実、夏川と対等に話すことの覚悟すら十全にはつけられていなかったのであるが──秋田玲奈ではなく、このぼくとして。「君はこの一日、秋田玲奈と茉希ちゃんのデートをずっと身体の中から悪趣味にも覗き見していたということ?」


「ご明察だな」


「それで、茉希ちゃんと秋田玲奈──、心を通わせかけたところに慌てて出ずっぱってきたってこと? それは悪趣味ですらなく、高尚を是とする君には相応しくない感情的な行為だね。それを社会では嫉妬と呼ばざるを得ないのを君は知っているか」


「そう解釈してくれる分には構わないが、私としてはただ、そうするのが世界の運命にとって良いと判断しただけの事だ。この嘉村茉希を完全に乗っ取るタイミングなど、他にいくらでもあったさ」


「ふうん。たとえば昼間、海鮮居酒屋で食事をしていた時とかか。思い返すとあの茉希ちゃんの内に君がいたとおもうと気持ちが悪いね、私は茉希ちゃんとの時間を心から愉しんでいたつもりだったのに」


「その折は申し訳ないと言うほかないが、玲奈君に一杯食わせられるという意味では、その時でも確かに良かったな──そうだな、他には例えば、


 

一年ほど前、新宿にてこの身体で殺戮を行い、果てに君と巡り合った時でも」



 良かったな。



 そう発する口の動きが、うだるくらいゆっくりに見えた。


 彼女の脳天から裸足までを、じっくりと見やって、やはり何度も確認した通り、この身体は茉希ちゃんのものだ。



 茉希ちゃんの身体で殺戮を行った、と夏川は言った。



「嘉村茉希という少女はさんざん自らを感受性に乏しい主人公になれない等と卑下していた割に、じぶんの生存に対する悪運については「運命」とのたまう程にある種、誇りを持っていたようなのだ。自身とその先輩だけが生き残り、ほかの人々が街ごと皆殺しにされる──なんてフィクションにしてもやりすぎな展開を、だから彼女は一晩も経たぬ内に受け入れることができた。実際は自分の身体を夏川という人間に操られ、自らの左手で手に掛けていたただけなのにだ──これを運命と称するなら、歯を磨いて歯垢が取り除かれる事も運命といわなければならなくなるだろう」



 もっとも、私がこの身体を動かしていた時、嘉村茉希の記憶はいっさい無いようであるから、彼女が盆暗だったなどと断じるつもりはないのだが。


「……ふむ、静寂が身にこたえるな。さしもの玲奈君にも少々刺激の強い高説であっただろうか?」


「いやいや──ぼくもこういう感情になれるんだって自分自身に感心していただけだよ」


 なぜか握りっぱなしだった箸が、強く握るあまり手元で折れていた。


「じゃあさ、夏川」意を決して、その名前を口にする。「望み通り質問を寄越してあげるが──茉希ちゃんの身体にいつから流離して、何人、その左手で殺した?」


「後者については新宿虐殺を経た時点で回答不能だが、前者については──そんなものは君にとっても世界にとってもどうでも良いことだ。だから君なりの解釈に任せるさ──例えば悲劇的な物語がお好みならば、嘉村茉希がクラスメイト全員を失った池袋高校の事件時だと思えば良い。それがあまりに牽強付会だと厭がるならば、嘉村茉希と私が接触した頃合いを適当に突き止めて、それが君の後輩を狂わせた瞬間だと納得するのが良いだろう。いずれにせよ一つ確言できるのは、嘉村茉希が信じていたところの運命とは、その実、夏へ行きたいだけのあるオタクによって仕組まれたものに過ぎなかった──という純粋な悲劇の存在だ。ところで玲奈君、私は今の君の質問によって改めて確信したよ──君は今でも、私と同じ側にいる。君は」


 少しも嘉村茉希のことなんて見ていなかったじゃないか。


 握っていた箸がテーブルの上に落ちた。


「いつの時点かはともかく、私がその内に住まっていた嘉村茉希の変化に、君は少しも気づけなかったじゃないか。嘉村茉希の増してゆく思いを、君はその器の厭世的な雰囲気にかまけて無下にし続けてきたじゃないか。そんな姿をも嘉村茉希が好いていく都合の良すぎる運命に、君は甘え過ぎだった」


 ずっと溜め込んでいた恨みを仮託するかのように夏川は、


「自分だけは社会に溶けこむ事ができたなんて振る舞いをしていながら、その実自分自身の確保にばかり必死だったじゃないか。ようやく重い腰をあげて嘉村茉希に向き合おうとして、それでも自分自身の事ばかり一歩引いて見ていて、嘉村茉希のことなんて見ていなかったじゃないか。後輩が自分に好意を寄せているのを良い事に、酒癖の悪いキャラを良い事に──そんな自身の身の内を暴露なんてしてしまって、今までの経緯全部無視して後輩に受け容れさせようとして」


 ──夏川が、ぼくのことを責めている、のだろうか?


 一気呵成にまくし立てる目の前の女性は、


 嘉村茉希の、姿をしている。


 嘉村茉希が、ぼくを責めている。


 でもやはり、夏川がぼくを責めてもいる。


「──やっぱり玲奈君、少しも社会に適合なんてできていないじゃないか」


 木造の民宿が、きゅい、と立てる軋み音が──鼻について仕方がない。


「万が一にでもこの私を、「夏流離譚」計画のために幾人もを殺してきたこの私を、この物語の悪人に仕立て上げようとしているのならば──君だって実質的には同罪だ、と私は言いたい。狂っている世界に楔を打とうとしたこの私と」


 同罪だ、と君は言う。



 ──そうか、ぼくは。

 秋田玲奈という器でずっと生きてきて。


 健全な会社と、素敵な両親と、信頼のおける恋人に恵まれて。

 自分をどこまでも慕ってくれる後輩に出逢えて。


 なにひとつ社会に不満がない状況で──それでも、「ぼく」を捨てきれなかった。流離してきたという現実を忘れられなかった。


 きっと社会の誰もが、今の器でそれなりに生きているというのに。流離してきた事なんて当然のように忘れ去って、日々で上手くいかないことがあっても、社会の所為にはしないで。自分自身を少しでも変えようと、置かれた環境で向き合いつづけているのだろう。


 けれど、このぼくは。

 ぼくがぼくのままでいることを確かめては安心して。社会が──世界が明日こそは変わることを、待つだけだった。


 夏川は──一方で。

 夏川が夏川でしかないことを自覚してしまったが為に。 世界を──社会をぶち壊そうと、五年以上も奔走してきた。


 そうだとするならば──流離を自覚してしまったぼくと夏川は、確かに


「同罪、なのかもしれないね」


「ふむ、さすがは私が認めた玲奈君だ」


 夏川は今日初めて、満足そうな笑顔を浮かべた。


 ぼくは一方で、何か表情に発するような余裕など失っていた。

ぼくは今後、どうしたらいい?


 自分を慕ってくれた後輩に向き合えなかった罪を、どう償えばいいのだろう?


「さてそろそろソクラテスの弁明は終わりの時間であろう。玲奈君は何も考えずに毒杯を仰げば良い──五年も前、君の前にいたいけな青髪少女の姿で現れた時と、いたって同じだ。玲奈君はいかに頑張ったところで、社会には適合できなかった。それは仕方ないじゃないか──だってそうだ、世界はずっと昔から狂っているのだから」


 ああ──そうか。


 狂っていたんだ──ずっと。


 世界ではない。ぼくと夏川だけが──


「全部仕方ないのだ。私がこの私では駄目で、玲奈君がその玲奈君では駄目だった、ただそれだけの事だ。だから諦めずに、君と私で、もう一度世界を流離すれば良い。最も良い私と、最も良い君で再び出逢ったとき──私は君に、」


「生憎だが、夏川」


ぼくはもう流離しない。

 

 夏川は、今日初めて、ぼくのことばに何も返せなかった。


 あの夏川が豆鉄砲を食った顔をしていた。それだけで優越感に浸ることができた。


「皆、幸せな奴たちは、流離してきた事なんてつゆほども忘れて生きてたんだ。それでも幸せになれたんだよ。だからこそ幸せになれたんだよ──だからぼくも、次はそうしてみることにした」


「──れ、玲奈君」


「夏川、君は知らないかもしれないが」


 


 こんなぼくでも無条件に慕ってくれる、そんな子がいる社会であり運命だったとぼくが言うと。


 目の前の嘉村茉希の身体は──ぼくの、秋田玲奈の、見たことのない形相を浮かべた。


「だからほら、殺してくれよ。大歓迎だ。ぼくは次の人生を、ぼくを忘れて生きていく」


 流離なんて最初から、間違っていたんだよ、と。だから夏川も、間違っているんだよと、ぼくは言う。


 これがぼくなりの──ぼくを消すという事が、唯一できる贖罪だと、


 まだアルコールが少し残る頭で考えられる、それが最大限の結論だ。




 もう、こんな流離は一緒にやめにしよう、夏川。


 こんな時に限って君との連帯感を覚えるのは、大層ズルいというのを承知のうえで。



「……私は、玲奈君を、ずっと」


「ああ、お望み通り殺してみろよ。次のぼくは決して流離を自覚してやらない」


「──期待外れだな」


 夏川は、ナイフの刃先をぼくから──別のところに向け替えた。


 この場にいる人間は、ぼくと、もうひとりしかいない。


「玲奈君、私は、きみに」


 おそるおそる、言えば何かが失われてしまうという覚悟が感じられる語気で、夏川は確かめるように言う。そして、


「──■■■■■」


 ■■■■■、と。




「──そうか、そうなのか、そうなのかよッ結局!!」




 夏川は、このぼくが観測する限り初めて、


 随分見慣れてしまった嘉村茉希のその身体を借りて、


 腹の底から叫んで取り乱し始めた。


 君の涙を見るのはそれこそ、五年ぶりの事である。



「この身体でも駄目なのか! 玲奈君の事を狂信的に慕う嘉村茉希の身体でも、私は、夏川は、君に何も伝えられないというのかよッ! クソがっ、役立たずがッ──私は、私はッ、なんで私だけがッ、何も伝えることができないッ──全員殺して、殺して殺して殺して、私だけが君の目に映るように、ようやく世界を仕立て上げたというのに──」



 そんなの、問うまでもなく、答えはとうに出ているだろう。


 君は誰よりも、この「夏流離譚」を俯瞰して読み進めてきたのであるから。



「クソがッ、クソがッ……私が何のために、玲奈君がその器にいる事を突き止めて、君の身の回りの人間を殺して、殺して殺して、自らも殺して、流離して──果ては新宿の人間全員殺してまで、別様の人生を追い求めたと思っている──こんな狂った世界を壊そうとしたと思っている。それでも君がそんな人生順調な人生を手放そうとしないから、君の中の玲奈君を晒そうとしないから、こうせざるを得なかったんだ!」


 あの夏川が、涙を流している──いや、四年前もそうだったか。


「だからもう割り切った。この世界が狂っているのを壊すことはもうできない。君はもうその君のままでいい、だから──」


 


 何も伝えられないなら、一緒になってしまえば良かろうと。


 社会の人間を全員殺して、確実にぼくへたどり着くために。


 ぼくの知る限り最たる変人であるところの君は、社会から見れば実に幼稚で安直な思惑のもと動き続けていた。


 「夏流離譚」計画なんて大言壮語は、社会の具体が怖かったがための照れ隠しに過ぎなかった。



 しかし夏川──狂っていたのは世界じゃなくて、流離していたぼくたちの方だろう。流離なんてこんなもの、最初から自覚するべきじゃなかった。ぼくたちは置かれた社会で世界で生きるべきなのだ。


 そう認めることが文字通り、夏流離譚の終焉であり。


 夏川とぼくの、終焉だ。



「私はさっさと玲奈君を殺せば良かったんだ……だのに、どうして私にはそれだけが出来ない。幾人も、四年間殺し続けてきた私にだ。なあ玲奈君、社会に染まってしまった今の君にはこれも、世界が狂っている所為だと思えないのか……?」


 そう吐き捨てながら夏川は、自らの喉元に左手のナイフをかざす。ぼくを殺せないのならば、また自刃して──という訳か。さながら四年前のごとく。


 彼女にとって何百回目かの自刃であろうが、きっと今、経験した事のない重圧が夏川には襲い掛かっていることと思う。


 次にこのぼくのもとへ流離できなかったら、今度こそ、「夏流離譚」計画が尻切れトンボに終わってしまうことを聡明な彼女は重々理解しているだろうからだ。


 しかしこのぼくは未だストロング・ゼロのアルコールに侵されてしまっているのか、随分と殊勝な気分がさっきから続いてしまっていて、君が自らを殺めようとするそのナイフを必死で阻まねばならないと、君の腕を取る身体が止まってくれないのである。


 そのナイフは、ぼくを今ここで死体にするべきものである。



「……私は絶対、次には君に流離してみせる。その時はわざわざ言わずとも、この■■■■■が伝わってくれる事だろう」



「いいや、ぼくはもう流離なんてしない。今度こそ、匿名の誰かとして、人生をうまくやってみるつもりだ」



 飛ヶ﨑のとある民宿は、十二月三日、きょうも冷えた夜を過ごそうとしていた。


 そこではあえて言えば、ふたつの季節外れな夏が終わろうとしており。



 他方、すべてが終わったあの街では件の虐殺から、百回目の夏が訪れようとしていた──



(続)

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