第21話 秋の次の季節(後)
民宿「とづか」の一室で、昨日の夏川さんとの事を思い出していた。
照明が目に入らないように左手をかざしながら──君が独りになる瞬間を一年弱待っていたとあの人は言った。そんな瞬間はここ八畳一間でいくらでもあったのだが、それでもあの人がこの左手から脱け出てくることができなかったのは、なるほど、
独りになると玲奈先輩の亡霊と遊んでばかりな私の事が、ずっと気に入らなかったんでしょう。
何を……言い出すんですか、貴方は
「一年弱私の住処であったところの君、その本音を代弁してあげただけだ」
玲奈せんぱいを、ころす、ってのが。私の本音だと、夏川さんの声は確かに言った。
遠くを路面電車が風を切る音が聞こえる。
かたん、かん、かたん、
いや色々そんな訳がないでしょう。
そもそもなんだ「夏川さんの声」って。
転居後のホームシックで精神に異常をきたすにしては時期を逸しすぎている。老いると運動後の筋肉痛が来るのが遅くなるように、社会人にもなると精神の不調に鈍感になるものなのだろうかと。この私が、まさかよりによって玲奈先輩を、まさかね。
とりあえずベンチを発とうと、手すりに手のひらをついて立ち上が
ろうとするも左手が痺れて力が入らなかった。
「二十一世紀は対話の時代だぞ、もう少し付き合ってくれても良いだろう」
「なんで、今更になって」
「きっと私が君の中にいるというのが信じられないのだろう? ならひとつ試してみよう、君。『ワット・イズ・ユア・ネーム?』に対して日本語で回答してみてくれたまえ」
なに、急に──と思いつつ、えっと、それに対して日本語ってことは、
「──私の名前は嘉村茉希、です」
「ほらな」
「はぁ?」
「──いやまあ、君自身では一生気づけないだろうから、この辺にしておくか。ところで本題だが、君が殺したくて仕方ないところの玲奈君はまず紛れもなく、君にとって人生で初めてといってもいい恋の対象であった」
なんだ、今度は語り始めて。
返事する必要もないと思い黙っていると、左手が勝手に握りこぶしを作り始めた。
「せっかくの休日、酒も入らず独りでまともな思考ができるだろうから、ここらで玲奈君についてあれこれ振り返ってみようか。君は新卒で勤めている──かつて勤めていた会社で玲奈君を一目見て以来、どういう訳か彼女の事が頭から離れなくて仕方なかった。人の顔を覚えるのが苦手な君でも、彼女の目鼻や髪の長さ、笑う時に下を向いて押し殺すようにする仕草などは、家に帰ってからいつでも思い出すことができた。そのように君の生活をまったく別様に塗りたくってしまったところの、八面六臂かつ八方美人の玲奈君──彼女が君だけを気にかけてくれるなんて甘ったれた世界は夢想妄想に過ぎない、とはいえ、同じ部署の直属の先輩にどうにかして振り向いてほしかった。玲奈君を独占しようなんて奢りは、その時点では、とはいえ微塵も持っていなかった」
ブナの木々が私の背中を一瞥しては、なんの特別もないと無音のせせらぎを作る。
いまや絶人の廃墟と化した新宿の人だかり、ヨドバシカメラ、映画館、先輩に食べさせてもらった油そばの味、初めての残業をしたときにデスクで飲んだ午後八時のコーヒーの鉄のような苦みなどがふいに思い出された。
なんでこんな、走馬灯みたいな。
「君は全然必死なんかじゃなかった。事実、たまに玲奈君に誘われて帰路を共にしたり、家にあがらせてもらう事こそあれ、自分から彼女を誘うことは一度もなかったね。あの日の夜、玲奈君の家に泊まった、新宿虐殺前日まではそうだった。しかし」
夏川と名乗る声が語る内容は私にとり、あまさに自分の声の録音を聴くときのように気持ちが悪く、吐き気すら催すものだった。
「あの日を境に君は、圧倒的に玲奈君が欲しいと思ってしまった。彼女につけ入る隙があるものだと睨んでしまった。これまで、君の生活とは少しの玲奈君への憧れを除けば妹の渚沙との暮らしが最優先におかれたものだったが、その序列を崩しうる程には」
ん?
「自分からアタックすれば、あるいは憧れの先輩も自分だけに振り向いてもらえるんじゃないかと──」
ちょっと待って。
「妹のなぎさって、誰?」
私一人っ子で一人暮らしなんだけど。
「──ああ、そうだったか、失礼した」夏川と名乗る声は案外素直に訂正を入れてくれた。「それで、実際に玲奈君は振り向いてくれそうだったか? 否。新宿であれだけの人が死に、玲奈君にとってみればやっと遭えた生き残りでもあり、言うまでもなく知己である君を見つけてしたことと言えば、形式的な抱擁、ただこれだけだったね」
はっきり言ってこれは八方美人とか関心の無さとかで済まされる対応ではない。異常といって良い域だよ。
「玲奈君は少しも君のことなんて気にかけていないし、気にかけなきゃいけないという規範意識あるいは義務感でしか動いていない。それは新宿虐殺後、行き場を失った君を連れてここ地元へ還ってきた事も同様で──君からの明らかな好意にも気づいているだろうにだ。それなのに」
どうして君は未だに、玲奈君の事ばかり考えているんだ?
もう諦めろよ。
しばらく静寂が訪れてくれたので、ようやく私のターンがやって来たかと思い、今更ながら周りに人がいないのを確認して小さく口を開いた。
「諦めろよ──という話ですが、もちろん諦めてますよ。私だってそこまで盲目じゃないです。そりゃ、健志さんが亡くなった時の先輩の反応を見て、私でもいけるのかも、って邪な考えが生まれなかったと言うと嘘になりますが。正直あのときの私は馬鹿で舞い上がってましたよ」
「ん? ちょっと待て、健志さんは覚えているんだな?」
「──? というのは? そりゃ覚えてるに決まってるじゃないですか。玲奈先輩とずっと恋人だった方ですよ」
「成程、それが運命の辻褄か。ははっ!」
夏川さんが笑うとともに頭がぐわんと揺れた。「やはり君は素質があるよ。先にも述べた通り、君はとんでもない悪人に違いない」
人を一人覚えているくらいで大層な言われようだと思いつつ、私は既に夏川さんの次のことばを待っていた。夏川さんの言う事はところどころ的外れではやくも質の悪い休日だな今日はと辟易してやまないものの、他方で無視しようとするとバチが当たりそうな厳かさに平伏せざるを得なくなっていた。
そしてなにより、
「やはり君にしか玲奈君は殺せないよ。そして殺すべきだ。ちっとも振り向いてくれない魔性の女を、君の手にかけてしまえよ」
夏川さんに何と言われようと、私が玲奈先輩を殺そうと思うなんて微塵もあり得ないから、ラジオのように聞き流していられる。だってそうだ、確かに恋は叶わなかったかもしれない──けれど、未だに心の中では憧れの先輩であり続けているし、きれいな人だなと目にするたびに思える。話しかけることは出来なくなってるけど、同じ職場で近い距離で顔を見かけることができている。クラスの憧れの男子、部活の憧れの先輩、そういう距離感でもういいじゃないか。最初からそれでそれなりに幸せだったじゃないか。お近づきになろうなんて助平心を少しでも見せた結果が、あれじゃないか。ここから更にどうにか進展しようだなんて二度と思い上がったりはしないと、社会人なりの分別で決めている。
そういう意味で私は充分に諦めをつけられている。むしろ、玲奈先輩を諦めきれてないのは──と憶断する余裕すらあった。
だから、夏川さんの語ることは
「このまま何も成就せずに終わることは、君の忘れてしまった亡き妹の望むところではないと思うがな」
「だから、妹なんていないですって」
全部全部嘘っぱちのデタラメだっての。
そうやって、夏川さんの思惑を振り切ってから日が経ち、十一月二十九日。
「あのさ、茉希ちゃん」
個別指導センターに着くなり、いつもは授業開始ギリギリに来るはずの玲奈先輩がデスクに座って待ち構えていて、
「茉希ちゃん、誕生日さ、その……」
「十二月三日、ですね」
「! そうそう、十二月三日、えっと今週末だよね。ちょうど日曜日だしさ、」
ちょっと遊びに行かない? 誕生日パーティー的な感じでさ。
去年は色々バタバタしてたから何もできなかったけど、そろそろ落ち着いてきたし。
「そ、その──」
玲奈先輩と業務関連以外でことばを交わしたのがまず何ヶ月か振りのことだし、
それも先輩の気遣いに無理矢理応えたものだと思えば、初めての商談のときのように緊張してしまって。
そのせいで主張したくても出来なかったのは、去年の私の誕生日はいたって暇で、いつも通り働いて、誘ってもらえる隙はいくらでもあって──それでも現実は自室でYouTubeを見ながら酒を飲んだだろうという事だった。
どういう風の吹き回しか、運命の吹き回しか。先輩の厚意をうけてまでシカトを決め込むのはかえって瑕疵を遺すと思い、自らのデスクへと向かいながら「ええ、ぜひ……」といった半生返事でやり過ごすことにした
つもりだったのだが、気がつくと玲奈先輩の背中に抱きついていた。
「あれ」
「え」
しばらく世界が真空になった後、酸素が取り戻されると私は我に返って
「す、すみません! ちょっとバランスを崩して……」
と弁明未満の何かを吐き捨てて離れた。
左手はいつの間にか堅い握りこぶしが作られていて、ひとりでに顔の皮膚が熱くなっていて、
まあでも、ずっと前からこうする事ができていれば、それはそれで良かったのだろうと思う。
玲奈先輩のスーツの乾いた綿の感触と、毛布のようにふわっとした髪の感触を未だにまといながら、今の状況を整理してみる。
私は今週末の誕生日、玲奈先輩に遊び──有り体にいえばデートの誘いを受けて。
夏川さんの声を自覚的に聞いたあの日から、からだが無自覚に動くことが増えて。私の左手に住まうというあの人の仕業なのかと合点するしか今はなく。
そうであるならば。
「えっと、その……嬉しかった、のかな? それなら良いんだけど。じゃあ週末、飛ケ崎の駅前のところで待ち合わせね」
嬉しすぎるあまり、ついナイフを持っていかないように気をつけなければ。
運命の風は今日も気まぐれに吹き回し。
飛ケ崎の十一月ももうすぐ過ぎて、秋が終わろうとしている。
運命がどう思おうと、秋が終わればいつだって次に来る季節は同じだ。
誰かが歌ったように、嬉しそうにビールを飲むあなたの横顔さえ見れれば、それでよかったんだ──でも私は他方で、
──そういう無欲を装っている時にかぎって、運命は最悪な風向きに変わりやがることを充分に識っていた。
*
嘉村茉希。やはり君にしか、玲奈君は殺せない。
社会側に流離してしまった、玲奈君を。
そんな玲奈君に潜む「ぼく」の部分を、どうしてか好いている君であれば。
玲奈君を取り戻す契機となりうると──そうして私の「夏流離譚」計画は漸く前進することができる。
(続)
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