第20話 秋の次の季節(前)

『さて、今週も始まりました、お昼の飛ケ崎とびがさきサタデーミュージックのお時間ですよ。パーソナリティはわたくしリューコ、そして?』


『シアンの二人でお届けしますっ!』


『はい、今日から十月ということで……今日の飛ケ崎はすっごく寒いですね! 風も強くて、昨日は半袖でも汗ばむくらいだったんですが──リスナーの皆さんも体調にお気をつけて午後をお過ごしください』


『今朝は布団から出るの大変でしたよ~、夏が終わったと思ったら秋すっ飛ばして次の季節いっちゃった!?って感じですが、さてそんな冬の訪れを感じる今日にぴったりの一曲目は、槇原敬之で『冬がはじまるよ』──』


 軽快なサックスの旋律が、かたわらのラジオスピーカーから寂しげに流れ出てくる。書類やら机で雑然としているこの一室は季節の移ろいにそぐわずむしっとしていて、コピー機の前で百枚以上のプリントが吐き出されるのを無力にも見つめているだけでも汗ばんでくる。私は小学校の教室のようにきしむ木の床を踏んで窓際へ移動、右手で開け放つと確かに冷えた風が待っていたかのように部屋へと吹き込んできた。頬を撫でられる感覚はついこの前まで世話になっていたエアコンからは得られない心地が良いものだった。



──冬がはじまるよ ホラまた僕の側で すごくうれしそうにビールを飲む横顔がいいね──



 デニムシャツを羽織ってくるだけでは足りなかったかと悔恨の念が湧くくらいにはすぐに部屋の中がからっと乾いた。ただ、これからこの建物に押し寄せてくる人たちはこの前の夏場にエアコンの温度が二十度を下回っていないと不貞腐れるような暑がりたちだから、今日は仕事が減るんだと思うと悪くないのかもしれない──にわかな強風で横髪がめくれて視界が覆われる。こっちに来てすぐ散髪して以来伸ばしっぱなしだ。そろそろ明日の休みにでも切りに行こうか。


──さて、お届けした曲は──本日は人気企画、『飛ケ崎の勝手に七不思議』──回はゲストレポーターに現地へ赴いていただいて、森で見つかった──


 ブツブツと音が途切れるようになった。どうせもうすぐ仕事の時間だからとラジオスピーカーの一番大きいボタンを押しこんで静かにさせる。毎週土曜日はオープニングの一曲が終わったあたりで聞くのを辞めないといけないので、飛ケ崎の七不思議とやらが何なのか勝手に期待が膨れ上がってしまっている。森、とかすかに聞こえたのは、路面電車で一駅行ったところにある「せせらぎの森」の事だろうか。観光地としても有名、とは言わないにしろ飛ケ崎に来たらとりあえず行っとけ的な場所ではあるらしい(と生協のおじさんに教わった)ので、これも明日の休みに散歩してみようか、と思いながら惰眠をむさぼり続けて無為な日曜日を過ごすのをつづけて一年が経とうとしている──茨城は北部のこんな地味な場所をわざわざ訪れる方も、特別な事情がない限り居るべくもないか。


 特別な事情がない限り。


 余った土地にかまけた巨大なホームセンター。生協のほかは閑散とした商店と住宅街。少し人通りを外れれば畑と森に囲まれる、ニ十分に一度通る路面電車がならすベルの音──が微かにもなければ、時計の分針すら刻むのをサボっているのかと紛う程に呑気な世界。


 机に座って頬杖をつき、ひとりこの小部屋で暇をつぶしている私はだから、



 ガララ、と戸を引く音。ふたつの小さい人影がぬっと現れる。

額に汗を垂らした白い半袖に短髪の男の子は知樹ちきくん、その左でピンク色の手提げ袋を提げている茶色パーカーの女の子は千佳ちかちゃん、だったと思う。


「「こんにちはー!」」


 子どもは一言目から元気で疲れる。


「こんにちは~! 今日も元気だね!」


「きょうね、ぼくの組が優勝したんだ!」


「でも知樹くんアンカーでこけてたじゃん」


「ちょっ言うなよ!」


 優勝? アンカー? ──文脈が共有されている体で会話が進んでいるが、ワード的に運動会、があったのだろうか。この街唯一の小学校の一大行事を小耳にも挟まないというのはおかしいが、それとも私が聞き流していただけなのだろうか。話だけでも適当に合わせよう。


「あー今日運動会だったもんね! お疲れさま! 今日もちゃんと来て偉いね」


「あれ、秋田先生はまだいないの?」


「はやく秋田先生に今日の宿題のところ聞きたいんだけど!」

 ──一応私も見習いとはいえ先生としてここに座っているわけだけど、少年少女の無邪気さをなんとか堪えながら。少年少女が待ち焦がれている例の先生は、私にとっては──


「秋田先生、もう少しで来るから待っててね。宿題なら私でも見てあげられるよ」


 私は少しも、待ってなんか、


「えー、しょうがないなあ。じゃあ嘉村先生でいいや」


「しょうがないとは何だ」


「嘉村先生はもうお休みしないの?」


 千佳ちゃんが首をかしげてポニーテールを揺らす。


「うん──そうだね。もう大丈夫だからね」


 私が大丈夫なのは、あの人がまだ来ていないからであって、


「よし!さっさと宿題片付けちゃおっか。運動会もあって疲れてるだろうしね。科目は何?なんでもいけるよ」


 いまや私の日常をつくっている、地域唯一の小学から高校まで通える学習塾。

 引っ越したてで働き口に窮していた私が、高校時代に中途半端に真面目に勉強していた際の遺産を使って辿り着いたのは、地元の小・中学生の勉強の面倒を何でも見てあげるチューターの役割。天職とは到底呼べないかもしれないが、純粋な子どもたちと話すのは嫌な上司の相手をするよりもよっぽど気楽で、このまましばらくは収まっていても良い社会だなと感じている──いや実際は、この生活を変えようとするのが億劫ってだけで。


 茨城は飛ケ崎に越してきてから一年が経とうというのに、未だに旅行中のようなどこか宙に浮いた感覚にさいなまれながら、それでもいつかは慣れるだろうと、受け入れられるだろうと、そういった葛藤を胸の奥に押し込んで知樹くん千佳ちゃんへと笑顔を作り、宿題のプリントを受け取る

 ことは終ぞなかった。


「皆さん、こんにちは~!」


 学習塾「あきた個別指導センター」の人気講師がスーツ姿で、長い黒髪をたなびかせて我々のもとに寄ってくる。


 子ども達は餌が撒かれた魚のように女性のもとへと群がり、溜めていた会話の種に花を咲かせようとする。私は机に頬杖をついたままで彼女らの様子を見やりながら、今のうちに教材の印刷でも進めておこうかと思う。


 子ども達を取られたことに対し嫉妬や不満などは一切ない──いつもの事だし、大学生以来六年ぶりに復帰した人気講師は人当たりも抜群に良い。何より、私が今でも見惚れてしまうほどに──吸い込まれそうな大きな目は少し吊っていて相変わらず理知的で、明らかに濃くなった目の下のクマは陰のある神秘な雰囲気を引き立てている。首筋がすっと伸びて第一ボタンを外した白いワイシャツと、黒スーツというシンプルな出で立ちは却って着こなす素材の良さを一層主張している。


 ただし──初めて会った時からずっと見惚れてしまうのだけれど、あの時とは違って目は奪われなくなった。だって現に、


「茉希ちゃんもこんにちは!」


 と気丈にも声を掛けてくれたのにも関わらず、私は顔を背けることでしか返事できなかった。私と一緒にここへ、玲奈先輩の地元へと移り住んで、彼女の実家が営んでいる学習塾まで斡旋してくれた、というのに。


 それでも私は先輩に顔を向けられないまま、一年が経とうとしている。長かったのか、短かったのか──日ごとにほんの微量溜まっていく、ここで過ごさせていただく事への罪悪感が、コピー機へと向かう足取りもそそくさとしてしまう程にはひしめいていた。だから積み重ねた日々は、私にとっては長かったのだろう。長すぎたのだろう。



 私がいつものように返事をよこさないとみるや、玲奈先輩は申し訳なさそうに顔をひそめ、子ども達の方へ帰ってゆく。



 新宿虐殺から一年弱、私は未だにそんな感じで敗戦処理の毎日を生きている。




 午後八時過ぎ、あきた個別指導センターから、野菜の畑を脇にいだく道を十分ほど歩くと民宿「とづか」へと着く。もとは飛ケ崎の地域振興の目的で、地元の中長期アルバイトへ応募してきた者達の仮宿として営まれていたらしいが、私は移り住んできた事情が事情という事で、特例で家賃もタダで住まわせてもらっている。大家さんである好々爺の戸塚さんは私の顔を見かけるなり親切心で話しかけてくれたり、かわいいねえ若いねえなどと無理なお世辞を振るってくれたりしたものだが、学習塾での仕事が増えて大金が夜遅くになる(というのは私の手柄でもなんでもなく「人気講師」のおかげで増えていく一方の生徒の出席情報管理や教材などを手配する事務作業がほとんどだが)につれて彼の睡眠周期と私の帰宅が噛み合わなくなって、玄関を通るなり彼の寝室から聞こえてくる盛大ないびきを背に、二階にある自室へと忍び足で向かうのが最近の日常となっていた。


 一段ごとに死にそうな音を立てる木の階段もすっかり手なずけた気分で進み、202号室へ。築何十年かと思わせる茶色の壁と黄緑の畳で構成された八畳一間が、この飛ケ崎において唯一といって良い私のプライベートスペースである。ひとりになれる空間である。


 ほとんど無意識に部屋の端の冷蔵庫を開け、買いだめていたビールを取り出す。指が勝手にプルタブをあけている。部屋の真ん中に鎮座するローテーブルに缶を置く。テーブルには途中まで読んで放置した小説の文庫本があり、日々積み重なる罪悪感のちょっとした原因なんじゃないかと鼻白みながら、


 一気に缶を傾けて喉に流し込む。炭酸がはじける。自分の身体の芯深いところを痛めつけている感覚が、あまりにも気持ち良くて。


 すぐに余計なことを考えるようになって。


 ──皆さん、こんにちは~!


 ──茉希ちゃんもこんにちは!


 左手がぴりっと痺れる。


 玲奈先輩は今日も、憎たらしいほどに綺麗だった。




 壁掛けの時計を見る。午後九時。明日は休みだから、眠りにつくには早すぎる。


 呑気な世界の飛ケ崎の夜は、たったひとりで過ごすには。


 一年前の事を思い出さずに過ごすには。



 アルコール無しでは長すぎて手に余る。



 日課と化した飲酒の果てには、いつも薄ぼけた玲奈先輩の亡霊が立ち込める。そんな亡霊と酔いどれた頭で対面するのが、今となっては一日で一番の楽しみだ。この先輩ならば、ずっと同じ方向を見ていてくれるから。


 ──茉希ちゃんもこんにちは!


 けっきょく、私の事を飲みに連れて行ってくれなんかしていないじゃないですか。


 そんなだからあなたの後輩は、亡霊と遊戯するだけの日々しか送れなくなったんです。



 今日とほとんど同じ様相だった気がする去年の誕生日は、私に確かに今後の人生に関する何かを悟らせたのである。





 次の日、当然のように午後一時に起きた私は、作り置いてあった肉野菜炒めを温めて胃袋に入れた後、積んである文庫本を読むような殊勝な気分にもどうもなれなくて、とはいえ休日に何事かを成したい焦燥感が身体を家の外へと出向かさせた。


 そんな訳で、今は「せせらぎの森」の奥にある無人の広場、そのベンチに座ってスマートフォンを弄っている。七不思議とか何とかラジオで聞いた記憶があるが結局なんだったのだろうか。葉の落ちかけたブナの木に囲まれながら、検索でも掛けてみようかとスマホの画面をなぞり、



「それで、こんなずれた人生のままで良いと思ってるのかね?」



 聞いたことのないはずなのに、聞き覚えしかない声。


「初めまして、では厳密にはないのだが、その方が便宜が良いということもあろう──私の名前は」


 


 と喋っているのは、確かに私自身の声だった。


 ──え、そういう霊的な体験? 七不思議ってそういう?



「君がまともに思考できる頭を保ちつつ独りになる瞬間を一年弱待っていたよ、いやはやこの狭い街は社会のしがらみが多すぎてしんどいね。パノプティコンを背中に負いながら生きている気分だ」


 あの、あなたは


「夏川と云うと述べたじゃないか」


 いや、あの、どこに


「君という器の中だ」


 と聞こえるや否や、左手がまたぴりっと疼いた。ブナの木々が風を受けてさわさわと無機質な音を降らす。


 ──なんというか、理解の範疇を飛び越えていく展開も一年ぶりだ。久しぶりだから、努めて受け流さないといけなくなっている。


 私の中にいるとのたまう、夏川さん、という方が言を発するたびに左手が刺すような感覚。そこに居る、とでも言うのだろうか。


「本来は例によって君にあの時──といって伝わるはずもないが──流離を完遂するつもりだったのだが、君の内面は凡庸に見えて、アイヒマンのような意外性を備えていた」


 君は、とんでもない現代の悪人だ。


「よくもまあ──あんな惨事を経ておいて、こんな惨めな生活に甘んじていられるな。玲奈君にあれだけ無下にされておいて、よくもまあ、彼女の尻に敷かれたままでいられるな。それは、違うだろう。君がすべきこと、或いは私が君の器にずっと半端な形で居座ってまで頼みたいことは、だからたったひとつ」


 カラン、と腰のあたりで金属音がする。


「どうかその手で、私が宿った手で──



 手元にはいつの間にかナイフが置かれていた。ずっと前からそこにあったかのような自然さだった。


「色々遠回りしたが、私が夏へ行くには、結局これしかなかったんだ──それは君も同じだろう?」




 その時点で唯一理解できていたのは、きょうが十月二日であるということだけだった。


(続)

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