第19話 赤いは酒の咎

 敷きっぱなしだった布団に倒れ込んでいたところから目覚めた。あの後、あれ以上ふらつく気分にもなれず、私は肉片飛び散る帰路についていた。


 窓越しの空はとっくに闇を落とし、十一月相応の肌寒さがどんよりとした室内を侵している──光熱費は心の贅肉、だとか何とか言ってたっけ。冬になれば家の中で上着を着こんで妹と暖を取っていた事などもはや馬鹿げて思い出されて、私は起き上がって備え付けの空調へと手を伸ばし、一度も点けたことのない、リモコンすら失くしてしまった暖房をつけてみる──が、家のインフラも周りに漏れず壊れていたようで、焦げ臭い厭なにおいを吐き出すばかりで温風を送ってくれることはなく。私はただただ無駄遣いの気持ち良さだけを知るばかりであった。


 そうだ、と思い立つ。もうこの際、これまで謎の自制心でやってこなかった自堕落をやってやろう。どうせ誰も見ていないんだから。誰もこの街にはいないんだから。もう楽しんでやるしかないだろうが。暖房の建てつけが悪い重低音だけがうごめくワンルームでそんなやけっぱちというほかない思いが芽生えたとき、布団から起き上がるのすら実は億劫だった私の身体がにわかに綿のように軽く感ぜられて、気づけば玄関から外に繰り出していた。半袖では肌寒すぎる外に出ていた。振り返ると、さっきまで眠り倒れていた布団には血の染みと泥の跡がのこっている。


 きれいな服に着替えるなんて出来た真似は、今の私には演る資格がない。


 ただ身体が動くのに任せて動きたい。

 もう何も考えたくない。じぶんを律したくない。



「でも改めて考えてみると何で好きなんだろうね我ながら」「お酒を飲んでいない状態が怖いから」「どうかなこれ」




 そっかー、こういう時に先輩は飲んでいたんだね。




 代々木上原で妹との暮らしを始めてから最初の頃には、徒歩3分のセブンイレブンに大変お世話になった。すぐに給与に対して生活費がはみ出ていることが判り業務スーパーへと置き換えざるを得なくなったけど、久しぶりに来てみると惣菜やスナック菓子なども想像より安く売られていて息巻いてしまった。


 しかも今日に至っては店員が全員死んでいたので全部タダで貰うことができた。


 レンジでチンするチョリソー、明太子、ポテトチップス。家のレンジはおそらく動かないが、最悪冷えたままでも食べられるだろうという思惑。本当はアイスも買いたかったが冷蔵システムごと停電していて形無しであった。で、メインのお酒は玲奈先輩がいつも飲んでいたストロングゼロのダブルレモン味。一番大きい缶のやつを棚から盗ってきた。まだぎりぎり冷えている。


 レジ裏にしのびこんで見つけたビニール袋に諸々放り込んで帰宅。すでに様々な罪状を問われるべき私だけど、今から机に広げたこの物々を口にするのは相当一線を超えている感じがする。特に、未成年飲酒だ。後一ヶ月もしないうちに合法で飲めるようになることを思うと勿体ない気分になるが、それ以上に後一ヶ月も人生が続いている可能性を考慮するほうが嫌だった。



 電気の点かない冷えた部屋で、座椅子に座って、プルタブを引く音が、炭酸のはじける音が浸透する。



 一口、決心して缶を傾けて流し込む。炭酸が思いのほか強くて咳きこんでしまう。落ち着いてからぐっと呑み込んでみる。一口。経験したことのない苦みで思わず嗚咽する。




 ──お姉ちゃんただいま!

 

 ──秋田パイセンと上手くいくといいね




 灼けた感覚が収まるのを待ってから、今度は刺激が一気に来ないように、正月の甘酒のようにちびちびと喉を通していく。一口。びり、っと頭が震えるような感覚。ようやく塩梅が掴めてきた。



 ──お姉ちゃんただいま


 ──秋田パイセンと上手くいくと



 正直、苦いだけで全然美味しくない。初めてちゃんと飲んだお酒の感想が「美味しくない」だというのも月並みを極めていて心外だが、とかく、既に完成していたレモンジュースに化学物質が混入しているような風味がする。買ってきたポテトチップスの袋を開けて何枚か口にしてから再挑戦。どうしてもこの500ミリリットルを呑み切りたい。呑み切らないと意味がない、と自らを脅迫しながら少しずつ口に流し込むペースを上げていく。


 ──お姉ちゃん、

 ──あきたぱいせんと


 ようやく缶が明らかに軽くなってきた。ふと天井を見上げようとし、座椅子のバランスを崩して仰向けに倒れてしまう。暗いし、寒いし、急に空腹感が襲ってきたし、服はべとべとまとわりついてくるし、全部最悪だ。世界全部最悪だ。最悪の気分。


 ──おねーちゃんどうして





 そんな声で呼ばないでよ。私ただの被害者だよね。知らないって身に覚えもないって。


 自罰とか生き方とかもうどうでもいい。私は私が望まない状況に私に一切の責任がないまま投げ込まれてしまったんだどうしようもないじゃん。そんならこの状況でも実現可能な私のしたいことを追い求めて、それを誰が詰れるんだ。私は悪くない。私は悪くない。


 玲奈先輩に会いたい。


 会って慰めてもらいたい。また会社から一緒に帰って愚痴を言いたい。もう一度手を握ってほしい。恋人の健志さんが死んだと判ったときの先輩の表情を思い出す。表情が無かったのを思い出す。玲奈先輩の視線の先にいないと自覚していた私でも、今なら、全員死んだ今なら、入り込める余地があるんじゃないかと──先輩が私に振り向いてくれる余地があるんじゃないかと。それすらこの期に及んでも高望みだと誰かが言うのなら、玲奈先輩の顔が、後一回見れるだけでもいい。


 顔が、もう一度見れるだけでいい。



 ──おねーちゃん……



「あー……」


 いまの私はちゃんと惨めだ。やったぜ。

 ようやく今日初めて涙が流れた。だというのに、身体をいっぱいに満たす瘴気が流れ出ている実感がない。頰を伝うひんやりとしたものは所詮人工甘味料である──だとしても嬉しかった。


 ごめんね渚沙、

 と口にしてみる。渚沙がいない世界でそれでも生きる意味を見つけられるとしたら、それは玲奈先輩に会いに行こうとする事でしかやはり得られなさそうだ。けれど一方で解っているのは、新宿虐殺で先輩も例に漏れず犠牲となったんだろうという凍えるほど当然の推論。会いに行こうとしたところで会えないのは解っている。欲が満たされない事は解り切っている。そういう人生だったのだから──玲奈先輩に会いにいくっていう明らかな徒労が唯一の生きる意味だというのは、すなわち私は今、ちゃんと死にたいという事だ。




 再び勢いで外へ出ていた。


 半袖でも火照っていて少しも寒さを感じない。見慣れた風景がボヤけて見える。目を開けているのがやっとだった。


 おぼつかない足取りをなんとか前方へと導き、小田急線のレールの上に架かる歩道橋へと着いた。普段は下方に見える代々木八幡駅ホームがやかましく灯りを放っているもののそれがないと、人生初ということになっている酔っ払い状態なのも込みで、まっくらな反重力空間を浮遊している感覚に陥る。


 ポケットに入っていた財布を歩道橋から放り投げてみた。小銭が散らばる小気味良い音が鳴るのを期待したが、感触はなく。



 ──おねーちゃんアイス買って!


 ──駄目だよ、お金の無駄



 買ってやればよかったじゃないか馬鹿。お酒に頼ってようやく悲劇を悲しめるようになった私を殊勝な気持ちばかりが襲ってきて気持ちが悪い。ああ、こんな私を玲奈先輩に見てほしい。慰めてくれても思い切り罵倒してくれても良くて、そうすれば少しは生きる希望が湧いてくるんじゃないかと思って、あれそれなら逢えない方がやっぱり楽なんじゃないかとも──




「茉希ちゃん!」




 ──だからこれも、運命だと受け入れるほかないのでしょうか。


「もしかして家近くに帰ってるのかなと思ったら……ビンゴだった、よかった、本当に……」


「……先輩?」


 懐かしい声を辿って、何歩か進んでみるけれど、

 見えない。


 辺りが暗くて先輩の顔が、見えないです。


「大丈夫……じゃないよね、こんな状況で」


 すでに真っ暗だった視界が更に覆われた。


 歩道橋の上で、私を正面から抱きしめて玲奈先輩は、


「ごめんね、探すのに時間かかって。電話も通じなかったから……

 ねえ、一緒に私の実家に戻ろうよ。そこで落ち着くまで一緒に過ごしたらいい。当分は仕事どころか、この街には住めないだろうから……」


 そういうところですよ先輩、と。


 普通そういうセリフは淀みなく言えるものじゃない。先輩はそれを「失意の後輩に投げかけるべき言葉」と一歩引いて判断したうえで発しているから、トチらず演じきることができる。社会人の嗜みらしくできてしまう。入社日の私と初めてお会いした時は、まだ慣れていない様子だったのに──そんなんじゃあ可愛い後輩には響きませんよ普通は。


「茉希ちゃん、来月、十二月誕生日だよね。もうすぐじゃん。それまでなんとか生き延びて、一緒にお酒飲もうよ。お酒美味しいよ! しばらくはそれを楽しみにしたらいい」


 その後輩が、私じゃなかったら。

 


 私だから、そんな言葉だって、お酒が回った馬鹿な頭に響いてしまう。


 年甲斐もなく先輩の服に顔を埋めて、涙が止まらなくなってしまった私も一方で、泣けているのが先輩の優しさではなく、無理やり流し込んだアルコールに起因することを解っている。似た者同士ですねと同罪を強いるのは傲慢すぎるだろうか。


 無言で先輩の胸元を温め続ける私に対して、追討ちの言葉が掛けられることはなく──このまま時間が世界が変わることなく続いていけば最低限の幸せには浸れると思った。これ以上何をしたところで何を考えたところで事態が好転するはずもないと解っていた。


 それなのに──暗くて見えなかった先輩の顔をめがけて、私はうずめていた頭をあげてしまった。


 目を凝らして、先輩の顔を捉えようとしてしまった。


 私を慰めてくれてたの玲奈先輩は、私

 ──ではなく遠くの空を眺めていた。



 世界にたったふたりのはずの状況ですら、私の事なんか、少しも見ちゃいなかった。



 これも、これだって、最初から解っていたことだったのに。




 『本委員会は、件の新宿虐殺について事実関係を把握し、今後の対応について検証・検討するためのものである。

 事件の概要:令和七年十一月二十五日(月)、有史最悪レベルの被害。犠牲者数は計り知れず。同日中に発見された数名の生存者は身柄を確保済、精神的療養ののち、容疑の可能性も含めて事情聴取を進める。

 一連の東京における連続怪死事件との関連性も取り沙汰されているが、当事者の深刻な不足により捜査の糸口が未だ掴めていない現状である。』




 玲奈先輩はあの時、誰のことを見ていたのか。


 新宿虐殺を経ても、彼女にとって想うべき人が、健志さんでも、私でもなく、他に居たのだというのなら。もうこれ以上、私が出る幕などないと。


 思わず先輩の胸元へと逃げ帰ってからというもの──再び顔を上げるのがこわくて、世界を目にするのが厭で、このままもっと酔って潰れて死んでしまいたいと心から思った。



(続)

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