第18話 非劇(中)

 雪島さんの事情聴取を終えて私は署を出る。出ると、横断歩道の真ん中に赤黒い物体が転がっているのが見えた。信号が青になるのを待ってから近づいて確認してみた。男の人の上半身が千切れているものだった。


 あ、


 これって下半身も探してあげなきゃなやつですか? 第一発見者の責務的な。普段は目にも留めない新宿駅前の雑踏をふわっと眺め回してみると、早速もう一体見つかった。やった! ぐしゃぐしゃに血濡れていて男の人か女の人かも判らなかったけど、またしても下半身じゃなく上半身だったので神経衰弱失敗みたいです。


 そうして大変不要なことに徐々に周りが見えるようになってきた私は、ようやく冷や汗が垂れてきた私は、信号が赤いか青いかなんてもはや興味を失くしてあたりを歩いてみて、歩いてみて、新宿駅前ですれ違うにふさわしい数の人間が千切れて崩れて息の根止まってそこらじゅうに転がっていることに気づく。横断歩道の向こうの茂みに右脚が突き刺さり、家電量販店の大きな看板広告に上半身が洗濯物のように干され、高速バスのターミナル内は肉が飛び散り、一歩歩けば腕が脚が落ちていて散逸した衣服やバッグや貴重品スマートフォン腕足胴体スマートフォン肉血肉肉肉肉──


 さて、充分悪夢は堪能できたのでそろそろ覚めてくれないでしょうか。


 ……


 覚めてくれないのでしょうか。


 と世界にこいねがうまでもなく、夢にしてはあまりに連続しすぎている自分の記憶を振り返ってみる。一時間前、雪島さんに連れられてここ新宿某所の署室へ到着。人生初の事情聴取を受けつつ、署の方へ挨拶もそこそこに出口へ繰り出したのが五分前くらい。時計はスマホが圏外で見ていないけど、感覚で。

そして、この惨状。


 あーもう二年前と同じじゃんこの展開。


 私の居ないところで全員死んで、これじゃあ臨場感も悲劇感も何もないドラマと区別をつけようがない。私が生まれついたと見込まれる「自分のいないところで全員死にがち」な星などいよいよ爆発してしまえと思う。この「非劇」、きっとまた例の連続怪死事件のつづきなのだろうが──、こんなものでどう悲しめと犯人はいうのか。無理だっての。こういう時、悲嘆よりも驚嘆が勝つし驚嘆よりも嘆息が勝ってきたのが私なのだ。場数が違う。


 とりあえず一周回って元の署の前に戻ってきて、これからさらに仕事が忙しくなるであろう雪島さんに一連の状況を報告することにしよう。私が昨晩調布で経験したことなどもはや些末を通り越して誤差のできごとだ、だって今度は新宿の見渡すかぎり全員が殺されてしまったのだから。


 立てつけの悪い入口のドアを開け、無人の受付を通りすぎて取調室の半開きのサッシから、雪島さん

 の千切れた下半身が見えた。





 窓越しには生気の感じられない都会の緑に血がまぶされたのが見える。下半身からは赤いペンキがぶちまけられている。


 紫色の布の切れ端が四散しており、つい数分前まで目にしていたあのパープルスーツは原型を留めておらず。



 あー。



 そりゃそっか、新宿の見渡すかぎり全員って言ったのは私自身じゃん。何びっくりしてるんだ嘉村茉希。え、びっくり? そもそもしてないけど。だって私は非劇の星に生まれついてる、悲劇の主人公とは対極の存在。浸るべき沈痛に浸れず受け流してしまい、言うべき本心も言えないって看板でこれまでやってきたんでしょ? だから雪島さんの死だって狼狽えず、笑い飛ばしてしまえ私。


「さっき最初に見た上半身、顔見えなかったけど雪島さんだったら面白いなー!!!あっはっはっ


 狭い取調室に慣れない高嗤いが音割れて響き、まるでこの状況私が殺したみたいだなと事態をまたしてもようやく斜めから俯瞰できるようになったところで、空気ごと焼け腐ったような死臭が身を包んでいるのに気づく。今回ばかりは危なかった。いくら私でも、五分前まで面と向かっていた方の惨殺体にお目にかかるなんて世界を、ちょうど良い悲劇として──受け入れるのにはアスパラガスの筋を呑み込むように苦心した。それにしても大変なことになってしまった、いくら何でも件の連続怪死事件を「遠い国の戦争」だと冷笑できる段階はとうに過ぎていると認めざるを得なさそうだ。こういう非常事態にあって、私にできるのは二年前と同じように、あの転校先の高校で他人からの興味やら善意やら悪意やらを全部シャットアウトして、唯一あの事件の部外者であった妹とともに社会人としての新しい暮らしをえらんだ時のように──


 妹。


 嘉村渚沙。


 十七歳、女子高生。



 通っているのは──新宿西高校。



 留学から帰国後、一緒に転校してきた。

 ここ新宿にある小さな高校。



 見渡すかぎり全員が死んでいた、新宿にある、新宿の高校。




 なんだか必要のない推論をしてしまいそうだったので、もう一発高笑いを決めてやろうと思ったがお腹に力が入らなかった。死臭たちこめる取調室に立ち尽くしてしまった。

 そして気づけば自身も通っていたあの校舎へと走り出していた。



 ──可愛い妹であるところのあたしはお姉ちゃんの恋が実ることを心から願っているのでこのマフラーを託すね


 ──えーっ!? お姉ちゃん転校しちゃうの!? じゃああたしも!


 ──お姉ちゃん、大丈夫! こんな大変なことがあったら、次はお姉ちゃんが幸せになるばんだよ!



「はぁ、はぁ、────」


 午後三時。外は初冬のからっと晴れた空。


 新宿駅構内を過ぎ、ビックカメラを抜けて、肺が苦しくなって、季節外れの珠汗をかいて、大通りを駆けて、段々と景色は閑静になっていって、私の荒息だけが聞こえるままで、私は、よく見慣れた校門へと辿り着いた。


 両ひざに手をついた。息も整わないまま、私は見慣れたエントランスまでの道のりを踏みしめ、もはや見飽きた肉が足にまとうようであれば蹴飛ばして、ただひたすら、生きて動いている人間を捜した。



 午後三時八分。放課後の開始を知らせる自動チャイムが鳴り響く。

 渚沙のクラス、2年F組の靴箱の前を通る。外靴の多さから、やはりまだ放課後が始まったばかりなのだろうと思う。廊下にはところどころ肉が散らばっていたので、致し方なしと土足のままで廊下へと繰り出す。血と土と肉がまざって足跡になって遺る。渚沙のクラスがどこに所在するかまでは分からない。私の頃と同じであれば三階にあるはずだ。




 午後三時十一分。三階に着く。

 途中の登り階段で一度肉でぬめって滑ってつまずく。すねが痛い。「2―D」の看板が前方に見える。次は「2―E」。どうやら渚沙の教室はこの先にありそうだ。かつーん、かつーんと乾いた私の足音だけしか未だに聞こえない。


「お願い、生きていて……」


 と初めて口にしてしまう。




 次の教室も無音の廃墟だった。




 午後三時十二分。私は開けるたびに廊下側へ流れ込んでくるどろどろとした赤黒い液体が厭で、諦めて閉め切って向かいの中庭のほうを見やる。

 ああ──



 午後三時十三分。

 中庭を挟んで反対にある音楽室から、グランドピアノの懐かしい旋律が聞こえた。




 まあ、


 わかってはいたけれど。


 新宿西高校を巡った十数分間、絶望的なまでに生徒の気配を感じなかったし。


 それでもそうだとしても、渚沙は私にとってなくてはならない、居なくなっては悲劇どころじゃ済まない存在だったから、それだけにそんなことは有りえないと心の底で根深く信じ込んでいた。そこまでの悲劇は私には起きないと高をくくっていた。


 二年前、池袋でのあの事件をしれっと海外留学で回避した時のように。


 あの日、風邪で寝込んでいた私に何の変調もなく明るいLINEを寄越してきてくれた時のように。


 今回も校舎のどこかからか、ひょっこり顔を出して「金策お疲れさまで~す!」とか剽軽な調子で私のもとに駆けてくる。私は「ただ渚沙を捜索してたつもりだったんだけど、対価まで発生するんだ」って平静を装って切り返す準備ができていて、渚沙は知らん顔で子犬のようにすり寄ってくるのだ。


 そんな、私が二年前から最低限と思って望んできた世界すら、いまや高望みであるということに理解が追いつかず。だからこんなときどう振る舞えば良いかがわからないのだ。人生経験に乏しい。非劇じゃなく、悲劇の運命にえらばれた際に──


「なぎさ」


 泣き叫ぶエネルギーが、どこから湧いてくるのかが解らない。

 解らないまま、ピアノの旋律を背に廊下に尻をついて倒れ込む。



──お姉ちゃん、今日は楽しかった?


──まあ──色々さっぴけば、先輩と色々話せたこと自体は




「……何言ってんだ、馬鹿」



 何が非劇だ。悲劇じゃないとか言って僻んでんだ。主人公の資格なんてない? 何が起きても悲しめないから?


 何も起きない非劇の世界で生きるのは──十分温かくて、幸せだったじゃないか。渚沙と暮らして、玲奈先輩と働いて、それが保たれるならばどんなけちがついたってよかったじゃないか。私は主人公じゃないんだから。


 ──かくして、世界を真っ向から捉えることが今更できたとこ

ろで、とっくに手遅れで。

「うぅぅ……」


 二年前に経験できなかった悲劇を、ようやく味わえたというのに──こんなに泣きたくても、泣けるような私はとうに奥底で枯れてしまっていたらしい。涙を受け止めずじまいだった手のひらを見る。──と考える余裕が、今この瞬間、自分に芽生えていやがるようで──笑えてしまった。



(続)

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