第17話 ある休日夜の会話
時を少し遡り、
茉希を家まで送り、代々木上原駅前へと引き返し、近場の居酒屋で一時間ほど独りで飲んでから帰ろうとした休日夜の会話。
「われわれ人間はどこまでいっても孤独だという実感が日夜影のごとく付いて回るが、しかし実態としては他人や世界から逃れるべくもないという構造主義、これが今時の生きづらさにつながっているといえるね。ところで訊きたいのだが、君は憎く罪深き人間を殺すことさえも無条件で否定するかい?」
「生憎私は社会人なのでそんな無邪気な疑問に拘泥してる暇はないんだ」
「にべもないね」
代々木上原駅東口にて、
目の前の殺人鬼はナイフに映る自分の顔を見て笑った。足元には人間が転がっている。生の死体に出くわすのも案外久しぶりだなとぼくは思った。
「それ、あんたがやったの? 通報するまでもなく捕まると思うけど。いくら日曜夜とは云え代々木上原駅前の人通りを搔い潜れる訳がない──現に私が」
「通行人は全員殺したし、これからもそうするから心配には及ばないね」
「その流れで私も殺されると」
「随分と落ち着き払っているな社会側のOLさん。死体を見るのに慣れてるのか?」
「死ぬことが怖くないだけだよ」
現にぼくは四年前に一度死んだことがある──とまで語る義理はこの殺人鬼にはない。
「奇遇だな。この私も死ぬことに関して恐怖したことはなくむしろ真逆の感情だ。ついでに一席ぶつと、ここ何ヶ月かにわたり東京一帯で幾人もの命を奪ってきたが不思議なのはマスコミ大衆SNSこぞって「怪死事件」などと云って恐れあたかも非常事態であるかのように色めき立っていることだ。私と──恐らく君にとっても、はっきり言って過剰反応でしかない。そうは思わないか?」
「まさか。一緒にしないでくれる? 私は立派に社会人やらせてもらっているから、今社会に生じている変調が充分異常なことくらい理解しているよ」
「君が死を怖くないというのは、人の死が世界にとって変調ですらない事を理解してるからではないのか?」
それはその通りである。ぼく一人が死んだところで明日はいつも通りやって来るし、明日の朝のニュースで今度の犠牲者数がプラス1されて報道されるだけだし、ややもすればプラスカウントすら忘れられるかもしれない。新宿の街は今度の事件を受けてまたほんの少し厳戒の度合いを高めるのだろうが、それはぼくが今ここで死のうが死ぬまいが、死ぬのが今日なのか明日なのかによって変動するような柔い運命ではない。
何より、人は死んでも必ず、別の誰かに流離するのだ。運命は、変えられない。
だからといって目の前の殺人鬼の行為を肯定することは決してありえない──という説教はさて措き、概ねそういうことをこいつは主張したいのであろう。世界の運命がかくも狂気的なまでに堅牢なことについてだけは同意を寄越してやってもよい。
「シェイクスピアは運命を浮気者であるとジュリエットに言わせた。それに付け加えるならば大変厄介な頑固者でもある──そして何故だか私に目移りすることはないようで、それにもう少し早く気づくべきだったね。ならば世界の恋敵を全員殺すしかないじゃないか。と発想するのに時間はかからなかった」
「ねえ、悪いんだけど」
しかし、
「私は今、世界じゃなくて社会の話をしているんだよ。ちゃんと人の話は聞きな?」
「そう」
殺人鬼の表情が消えた。
ぼくが死ねども世界の運命は変わらないし変えられないが、社会にとっては大いに都合が悪いことを識ってしまっている。遺された両親は、一軒家を貸し与えてまで未来を託した一人娘の死をどう受け止められるのだろうか? 残された会社は、仕事は、同期一の出世頭をいきなり失ってどう回ってゆけというのか? 遺された恋人は──いや健志についてはその訃報に触れて間もないが、やはりぼくが無念の死を遂げることを断じて望まないだろう。こういった状況を、社会を、生きづらいと一蹴するにはぼくはあまりに大人になりすぎてしまった。社会に慣れすぎてしまった。世界が人殺しが運命がなどと抽象概念を転がすよりも、あるいは本を読んだり小説を書いたりといった妄想に閉じこもるよりも、明日の業務をどうこなしていくかや仕事終わりに飲む酒について考えるほうが今は心が満たされるのである。
どうだ殺人鬼。失望したか。
答えは返ってこなかった。殺人鬼はとうに姿を消していて、後には斬られた死体のみが残された。
ふう、と息を吐く。このまま駅構内へと進んでゆけば道すがら数々の死体が転がっているのだろうか。小田急線が平常運行しているはずもないだろうか。非常事態に浮かれて通報などするのもやぶさかではないがそれは対価として厄介な事情聴取等に充てる時間を支払うことに他ならず、ぼくの明日の社会が大変忙しいと見込まれる事を思えばそれは避けたいところだ。むろんいずれは、という話である。すぐに真の社会側の人間であるところの警察関係者が殊勝で気色悪い顔をしてぼくの前に現れるだろうが、それは所謂世界の運命の範疇。ぼくにはどう抗うこともできない。せめて明日をつつがなく乗り切ろう──ぼくはきびすを返し、駅の反対口にあるタクシーのロータリーへと向かうことにした。
死体が視界から遠ざかってゆく。嫌な動脈血の臭いはすぐに届かなくなった。
残念ながら、ぼくはもう君のことを夏川と呼ばない。君は哲学者ですらない。ただの殺人鬼だ。社会を世界としか大雑把に捉えられない世間知らずの青年に過ぎない。社会にどっぷり漬かってしまった今のぼくにとって、君は最早憧れの対象には見えなくなった。
君が連続殺人を一切の痕跡を残すことなく続けられているカラクリにもぼくは最初から気づいている。最後に自ら命を絶つことで他の人生に流離する手口は四年前にも散々披露していた使い古しでしかない。それもまた所謂世界の運命であり構造であるから、阻めるはずもないと解っているから、ぼくなりの意趣返しとして今後誰にも種明かしをしないと決めているのだが。
パトカーらしきサイレンが犬の遠吠えのように聞こえる。君は今後も流離を繰り返して繰り返して、望んだ世界と人生をいつかは手に入れられると未だに信じているのだろうか?
──ふうん。社会に浸かった割に、君にとって「玲奈」は邪魔ではなさそうじゃないか
──なぜ君は、恋人の死をもっと悲しむ振りができなかったんだ?
──なぜ君は、自分のだらしない一面を覗かれることに快感を覚えているんだ?
──なぜ君は、明らかな後輩の気持ちに対して見てみぬ振りをするんだ?
──ちゃんと二十四時間三百六十五日、演じきれよ社会適合者を。
少し気分が悪くなったのは今日が日曜日の夜だからだ。明日からまた忙しない日常が還ってくるそのことに苛立っているのだ。まだ少しだけ、仕事への覚悟が整っていないと自覚したのでぼくはロータリー道中のコンビニに寄ってレモンサワーとナッツを買った。何も考えるな自分──と、ビニール袋を提げていないほうの手で眉間をパチンと叩いてみる。ぼくが「ぼく」をかき消してしまいたいとき、四年間経ってもなお、アルコールに頼る以外の手立てを知らない。そのくせ酩酊したときに往生際悪く顕現する「ぼく」が遠い夏の日の思い出のように懐かしく感ぜられるのを倒錯と呼ばずに何と呼べば良いだろうか。
──ぼくはまだ、君と「玲奈」のあの夏をまだ、有難がって忘れられないという訳か。社会人として汗顔の至りである。
調布の一軒家に戻り、一人で住むにはあまりに持て余すダイニングに人の残り香を感じながら買ってきた酒とつまみを広げた。社用のノートパソコンでYouTubeを開き、適当なお笑い動画の切り抜きを見繕ってからレモンサワーのプルタブを引っ張る。下卑た笑い声が流れる。冷えた炭酸が喉元を通ってゆく。気がつけば頭の平衡感覚が失われていて、余計な事を気持ちよく考えめぐらせられるほどには気持ちよくなっていた。
吉井健志が死んだ今、ぼくがぼくとして守らなければならないのは第一に後輩の嘉村茉希なのだろう。それは解っている。勤めている会社は曲がりなりにも組織であるから、ぼくが忽然として居なくなってもいつかは歯車がまた回り出すだろうし、家族に対しては正直なところ、この身体に流離してきてから日も浅く、命を賭す程の恩義を保てていない。あるいは嘉村茉希の妹さん、彼女は彼女なりの社会を裏にたくさん抱え持っているのが透けて見える。彼女にぼくは必要ない。
けれど──嘉村茉希。彼女にとっての世界にぼくは確かになってしまった。有り体にいえば彼女からの尊敬を超えた好意に気付けないほど、ぼくは伊達に四年間、できる社会人への擬態に努めてきたわけではない。その擬態の経験から、後輩からのそのようなアプローチに対しては適度に距離を置きつつも向き合い、義務感を少しだけ脱色した親切心で接してあげるべきだという規範もエミュレートしたつもりだし、少なくともこの週末は瑕疵のないよう振る舞えたものと自認している。
茉希が二十歳になったら洒落たバーに行って吞みかわし、先輩らしく艶やかに祝ってあげるのはどうだろうか。会社の忘年会があれば、散会後にふたりで抜け駆けしてカラオケに行くのはどうだろう。あるいはもっと日常に近いところで、休日にそれっぽいデートを供給してあげるだけでも良いかもしれない。
既に忘れてしまった、今日聞いたはずの彼女の誕生日を明日こそは興味を持って訊き出すことにしよう。行動に移すのは早いほうが良い──他人事のように言えば、明日には茉希もあの殺人鬼の凶刃に遭う可能性だってあるのだから。
「私は」
ぼくは、ぼくは、わたしは、私は、明日からも立派な社会人として生きてみせる。
この健常で心地よい生活を守るために、自分自身すら殺すのが私の義務だ。
(続)
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