第16話 遠い国の戦争

 大山と玲奈先輩の家で過ごした週末明け、朝の渋谷のハチ公前は通勤者ではなく野次馬で溢れかえっていた。今度は十三人である。


「ほんじゃーお姉ちゃん(ニート)学校いってくるね!」


「リモートワークだっての」


「人間はリモートで何かを生産できるほど発達した冒涜をもっていないんだよっ!」


「何を何と言い間違えたかったのか」


 発達した冒涜をもっていない渚沙は普通に学校があるようだ。制服の白ブラウスに身を包み、闇バイトではなく学生の本分へと繰り出す妹の背中を見ながら、玄関ドアがギシと乱暴に開け閉めされたのを聞きながら、いやまあ、何十人死んだところでこんな感じで毎日はおおむね変わりなく進んでいくんだなあと思うなどした。TwitterやYouTubeライブで届けられる新たな怪死事件の情報は、熱気こもってではなく淡々と、遠い国の戦争のそれのように届けられてくる。というのもきっと、東京都民総ぐるみでこの非常事態に慣れきっていて、麻痺していて、それは月曜平日朝九時にもかかわらず布団の上でネットニュースを眺めていた私も同じなのだった。


 弊社に関していえば、昨晩のうちに当面の出社停止が通達されていた。理由は言うまでもなく、調布のコンビニで憂き目にあった──と今では他人事のように振り返れますが──会社では課長の位置にあった吉井健志の死によるものだ。そういえば先週末にオフィス近くの歌舞伎町で事が起きていたのも愚にもつかぬと、役員層は段違いにわかりやすく深刻なパニックに陥っている。やはりごく身近な人間が凶刃に遭うともなると通常──非常事態への麻痺も解けるということなのだろう。とかく、今私が布団に寝転がっている建前はさきほど渚沙にも毒づいたとおり、リモートワークと定まっているものの、それがつつがなく成り立つ環境やらインフラやら社内制度やらが残念ながら整備されていなかったために、私はといえば、妹がカッコづけで茶化したようにニートと言うほかない体たらくで、Slackで「出勤しました」とメッセージを打つことで本日の業務を終了していた。


 かくして何もやることがない人間とは余計な事だけを考えつくもので、


「暇なんですよーーー先輩!!!」


 とあえて我が妹のような天衣無縫を装ってLINEを送ってみたりする。相手の先輩が誰かは言うまでもなく。玲奈先輩は私と違い、朝から忙しいので当然既読すらつかない。そもそも彼女の身辺を思えば今日、定常出勤していること自体が実はおかしいのだ。


 おかしいのだ。


 おかしいはずなのだが。



 健志さんの死は明らかに遠い国の戦争ではないはずなのだが。



 玄関のチャイムが鳴る。あと五分暇だったなら、また昨日の先輩の頬の感触を思い出していただろう。


 


「ごめんなさい、送っていただいて……」


「この状況で家からはい出てけってのは、流石にちょっと狂気じみているなと思ってね」


 昨日、日曜日の午後八時。健志さんの一報にテレビニュースで触れた玲奈先輩と私は、社内Slackで明日の自宅待機の命令も受け、代々木上原の私の家へと途についていた。ついてもらっていた。あの時アルコールが多量に回っていた先輩の蒙昧した判断力ですらのうのうと秋田家で夜ご飯までいただこうなんて真似が盆暗であると解り、早急にあの場を散会することに決めたのだった。


 京王線で新宿駅、小田急線へと乗り継いだ。日曜夜の新宿駅はすこしの倦怠感を孕みながらも休日高揚感の残り香に包まれていた。小田急線のホームへとつながるエスカレーターで私の前方に乗る先輩の手のひらが目に入ると身体に電流が走って困る。随分と品のないパブロフの犬になったものだ。


「はーあ、明日も朝から会議ではやいんだよなあ……例の件で緊急の打ち合わせもその前に入れられちゃったしね」


 そうして駅から十数分上り坂を歩いて、六畳ワンルームのアパートに辿り着いた。坂の途中で一度、先輩の左手指と私の右手指の先が触れ合ったのを認識しているのは私だけのようだった。


 午後八時半。晴天の昼だった十一月の今日は、すっかり初冬の本領たる涼しさを取り戻していた。




 そうして家へと送ってもらって着くと、時計はもう十時を指していた。


「お姉ちゃんお腹すいて死んだーーー!!」


「事後報告かあ」


「え、もしかして今日もずっと玲奈パイセンの家にいたわけですか? そんなわけ」


「そんな幸せな一日は中々ないと思うよ」


「ふーん、ふーーん」


 え、何その面白そうな顔?


「お姉ちゃんはいつも落ち着いてるのに、案外顔には出ちゃうタイプだよね昔から」


 電気自動車がパソコンの起動時のような音をたてて近くのアスファルトを擦っていた。


「それで、今日は楽しかった?」


「そりゃあ、まあ」


「玲奈先輩とはうまくいきそう?」


 どんだけそれ気にするんだ。


 お腹すいて死んだんでしょ? 夜ご飯つくるよ。もう夜遅いしあり合わせになるけど、


「それは後回しーー!!」


 お姉ちゃんとパイセンがどうなったのか気になって死にそう、と渚沙は低い身長で私の胴にしがみつく。うずめた胸元から開陳された妹の顔には長い前髪がはりついていた。土曜日の朝もそういえばと振り返れば、あるいは私が玲奈先輩の名を出す度の渚沙の反応を思い返せば。そしてまたあるいは


「可愛い妹であるところのあたしはお姉ちゃんの恋が実ることを心から願っているのでこのマフラーを託すね」


 土曜の朝の彼女の発言をリマインドするまでもなく──私の青春に色がなかったのを心配されているのか、ただ単にそれが理由ならば余計なお世話だとさえ思うけど、例のマフラーをほどきながら、


「先輩というか、それどころじゃないかな。健志さんの事ニュースで知ってるでしょ?」


 私はまたしても隠した。


 渚沙は私の背中に回していた両腕を解き、


「それ、関係ある?」


 いつも通りの無垢な語調だったが、私には少々冷徹に聞こえた。なので圧されてしまって、確かに関係ないかもね、と妹から目を逸らし──渚沙からはその後しばらく無言の視線を浴びた。自称餓死してしまった渚沙がその後、私が上の空で作った豚しゃぶにありついて蘇生するのは三十分後のことになるが、あの広々とした一軒家で玲奈先輩に対して感じたことについては終ぞ語ろうと思えなかった。相変わらず私はこうだ。渚沙のような包み隠さない無邪気さがあれば、代々木上原駅からの道中で触れあった先輩と私の指先はもう一段階先の幸せへと昇っていたのだろう。




「豚しゃぶおいしー!」


「ごめんだったね、こんな遅くまで待たせちゃって」


「お姉ちゃん先輩に夢中になってあたしのこと忘れちゃうからー!まあいいんだよ、それより今日は楽しかった?」


「また聞く? しつこいなあ」


「いいから!」


「まあ──色々さっぴけば、先輩と色々話せたこと自体は」


「距離は縮まった!?」


「……たぶん」


「それならよかったんだ! 可愛い妹であるところのあたしはお姉ちゃんの恋が実ることを心から願っているからね。それは昔からずっと変わらないんだよ」


「シスコン」


「お姉ちゃんもじゃん~」


「うっさい」



 渚沙との会話は何気ない一日のそれとしていつものように流れていく。この一日を何気なかったと締めくくる資格が誰にあろうかという感じだが、妹がそうすることをヤケに望んでいる様子で、併せて平静を装う私は昔から嘉村家においてシスコンという訳か。


 まあ、どんなけちがつこうが私の世界、このように渚沙といっしょに続いていけば良いだろうと悪くないと思う。二年前も私はそういう選択をしたのだから。


 そこに玲奈先輩が……というのは高望み、なのかな。



 食事中、箸をもっていないほうの手のひらをグーパーする。先輩の頬の感触を思い出す──明日はテレワークなので一時間遅く起きられる。私は独りで少し長い夜を過ごした。






 回想終了。布団の上で一日呆けるつもりだった私は新宿駅徒歩数分の署内取調室に来ていた。家からここまでの道のり、特に新宿駅東口前に人通りが当然のようにごったがえしていたのが印象的だった。先週までの自粛の雰囲気はどこへ行ったのか──閑話休題、取り調べについていうと間抜けなことに自分が調布刺殺事件の第一発見者であり通報者であることを思い出したのは今から三十分前、玄関のチャイムとともに訪れたいかにもなおまわりさんを目にした瞬間だったのだ。


 窓越しには風情の感じられない都会の緑が見える。パープルのスーツを着たおまわりさんの耳元には一筋の汗が垂れていた。私はといえば身だしなみを整える暇すら与えられず部屋着のまま繰り出してきたので、十一月相応の小寒さが大変気になっていた。

「先手を打っておくと暖房は十二月までつかないのでそのホットコーヒーでなんとか耐えてくれ」


 言いながらおまわりさんは手を団扇にして首元を仰いでいた。パープルスーツが暑そうに見えるが恐らく業務上の規定で着用が義務づけられているとかなのだろう。くわばら。


「さて平日の朝っぱらから済まないね、私は新宿警察署の雪島消という者だ。件の調布駅前コンビニでの出来事について君から諸々訊きたい事があるわけだがその前に」


 ホットコーヒーに口をつけようとした私にぴっと指さして雪島さんというらしい人は、


「この部屋で見聞きした事、そもそも取調べを本日受けたという事実は断固として家族・職場での口外を禁じさせていただく」

「はあ──」特に抵抗する意志は持ち合わせていなかったが、よくよく反芻すると「取調べを受けた事実」もダメなんですか? そういうものなのでしょうか──まあ、ここしばらく物騒な怪死事件が立て続けだし色々神経質にならざるを得ないのだろうと思えば。



 沈黙の肯定を寄越したつもりだったがわざわざ視線で念押しされたので、


「分かりました、誰にも言いませんよ」


「良い聞き分けだ」雪島さんはパープルスーツの襟を正してから、「さてでは率直に、君が当時のコンビニで見聞きしたことを包み隠さず教えていただきたいのだが──」


 その後滔々と事情を語る私に対して雪島さんが露骨に睨みつけたり舌打ちを繰り返すようになったのだが、「私に斬りかかろうとした健志さんが自分で腹を切って死にました」なんて目の前の未成年女性が堂々と言い出したことを考量すれば致し方ないでしょう。


 事情聴取というものに対して当初、テレビやドラマでしか観たことのないドラマチックなものと身構えていた私だったけど、あるいは自分自身が容疑者として疑われているのではと冷や汗を流さなくもなかった私だったけど──雪島さんが私のことを(傍目に狂った供述をしているにも関わらず)微塵も疑っていないのを察すると拍子抜けだ──やはり私の身の回りで起きかけていることは、遠い国の戦争に過ぎない。この先も怪死事件は立て続いてゆくのだろうしそれ自体肯定するつもりはないけれど、二年前にクラスメイトが全員死んだときの衝撃を遠い国ではもたらせないのだろうという予感があった。私の思考はいまや、次はどう口実をつけて玲奈先輩の家に行こうかという色欲、にまみれていた。


 ホットコーヒーを飲み干すと、事務担当と思しき女性職員が入って来、おかわりを持ってきてくれた。カップを置くカコン、という音だけが密室に響いて他は何も聞こえない。スマホを開き、玲奈先輩の既読がついているか確認しようとするも圏外だった。




「むっかつくーーー!!!! あのおっさん二人!!!」



 と、授業中の教室で叫び散らかすのを控える程度の分別はある嘉村渚沙だが、気を鎮めるためにシャー芯が五本ほど尊い犠牲となってしまった。


 なぜ彼女は苛立っているのか。そもそも、渚沙は(姉には嘘をつく形となってしまったが)本日登校する気などなかったのである。土日同様、大山と雪島と行動をともにするつもりだった──ひとえにバイト代(生活費)目当てで。そんな訳で今朝方、姉に怪しまれないようにわざわざ制服まで装って学校舎でなく豪徳寺の大山宅へと向かったのであるが、チャイムを鳴らすなりインターホン越しに寝起きらしき声で


「いや、学生なんだから学校はサボったらダメだろ」


「てめえは社会人なのに仕事さぼってるじゃないですかーーー!!!」


 今は休み時間のトイレなので思う存分に叫べる。


 一日分の給与を損しただけならまだしも、あの時続けて大山が「代わりに雪島氏と俺で嘉村姉とか秋田さんとかに事情聞いてやるから」と何のフォローかも解らない報告を自慢げにしくさり、門前払いをされたとくれば──あたしその嘉村姉の妹なんですが、と玄関前で文字通り地団太を踏んでしまうのも無理はない。姉を巻き込まないでほしい、とお願いした昨日の今日で!


「いや、もうお前の姉さんは立派な当事者だろ。巻き込むなというのは無理がある。嘉村姉妹は本当にお互い大好きすぎだな」


 火に油を注がれつつも踵を返し、とはいえ彼がアパートの前で言い当てたところの自らの動機を自覚する。せめて学生の本分を守って、お姉ちゃんへ負担をかけてばっかりの授業料を無駄にするのも良くないと、新宿某所の高校へ形だけでも来てみたという次第。


 ──休み時間も終わるので、もはやそうする必要も義理もないのだが渚沙は教室へと戻ることにした。



 戻ることにした。


 *


 事情聴取を終え、私は雪島さんへの挨拶もそこそこに新宿駅前の署を出た。


 *


 四杯目のミラノ風ドリアを食べ終え、大山はサイゼリヤ新宿駅東口店を出た。


 *


 秋田玲奈は対面会議のため、出社するべくスーツを決めて京王線に乗り、新宿へと向かっていた。


 *


「次の瞬間、彼女らは新宿で──」


(続)

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