第15話 悪人が生まれた日(後)
高校生の時、従前は母親のお弁当をお昼にしていたところ、周りの友だちが校内のカフェテリアで用を足し始める一過の風潮に流されて、お弁当の代わりに五百円玉を毎朝受け取るという母親の温かみを無下にする真似を働いたことがあった。
さらにわれながら非道なことに、食漢から程遠いわたしは百数十円のウインナーパンで満足してしまうので、毎日数百円のお釣りが必ず生じていたのだけれど、それを母親に申告することなく趣味の漫画を買う元手に充てていた。当時からの貧乏根性は良くも悪くもいまのわたしの生活を支えてくれている(しまっている)し、もしわたしが渚沙に渡した昼食代で同じことをされたと判ったら直情径行に怒ることはないにせよ数日間は引きずるだろうな──というのはさて措き。
あの頃にわたしは、いや同じ青春時代に誰もが多寡こそあれ、バレない嘘はついてもよいという通念をおのずと獲得していたのだろう。嘘をついて、なんでも受け流して、それが社会の大人の所作なんだと納得するたびに若々しい罪悪感は芽の段階で枯れていった。そうして嘘をつくのが日増しにうまくなり、むしろ本当をつくのがヘタになってしまった、と自覚したのは二年前の例の悲劇をちょうどよいと思ってしまったその瞬間である。クラスメイトが殺されてちょうどよいなんてそんなはずがないのに!
「あー、明日の仕事が憂鬱だなそうじゃない茉希ちゃん? 忘れかけてたけど金曜は早退させられてるし持ち帰りもできなかったから月曜にしわ寄せが来ちゃうよね」
「また土日が一瞬で終わっていくんですね」
そんな訳で、いつしかわたしは本質的に、嘘をつかないということができなくなっていき、当初獲得した通念からも軌道がずれていることにさえ勘づけなくなり。
「秋田先輩ってこういう何も予定がない日曜日は普段何されてるんですか?」
「茉希ちゃんが家に来ているという予定を遂行していたつもりだったんだけど、まあお酒飲みながらテレビ観たり本読んだりだね」
「そんな秋田先輩の姿、会社の人は想像もつかないんでしょうね。資格の勉強とかしてると思われそう」
「今普通に弄ってきたね新人さん」
玲奈先輩と二人きりで調子よくなれてしまっているわたしでさえ次に言い留まったのは、「日曜日、健志さんといっしょに過ごしてるんじゃないですか。そんな一人暮らしみたいな」という指摘である。だってそうでしょう? 同棲ってそういうものだと聞きます。かくいうわたしも渚沙と二人暮らしだがあの妹は基本外出なさっているのでやはり伝聞の域を出ない。玲奈先輩と健志さんがソファーに並んで座ってゆるいバラエティーをバックに談笑している午後を想像してみる。すぐやめる。やめたけど、実際はそうあって然るべきだと思う。思うけど。
健志さんの名前を口にしないことで二人きりの世界は延命されていく。でもあくまで延命にすぎない。
こんなものはバレない嘘ですらない。健志さんの死は確実に、どんなきっかけであれ先輩に知られる。わたしはそんな嘘すらもつく選択をしていた。
「はーてかお酒飲んでいい? 暇になっちゃったので」
「どうぞお気になさらず──本当に好きなんですね。わたし分からないんですけど、お酒ってどこがいいんですか?」
「分かってるくせに」
「どういう意味ですか!」
「でも改めて考えてみると何で好きなんだろうね我ながら」話しながら、テーブルに置かれていたハイボールを開けて流し込む目の前の先輩。「そういう質問が来た時の方便を考えたことがあって。飲み会の時とか言われそうじゃん。考えたのは「お酒を飲んでいない状態が怖いから」。どうかなこれ」
「また随分と哲学的ですね。先輩お酒飲むとすぐそうなる」
「あ、私ってそうなんだ。酔うと哲学的になるんだ」
てか酔うの早すぎませんか。なぜにその部分を念押しされたのか違和感を覚えつつも適当に愛想笑いをよこすと、
「そっか。私そうか」
つかの間、時が凪いだ。
先輩はたまに会話でこの間を作る。大山のバイトを報告したときもそうだった。
おそらく次に先輩は、強引に話題を戻そうとするだろう。それに対して何事もなかったかのように後輩を演じる「わたし」もとうに準備はできている。
「──閑話休題、お酒を飲んでいない状態が怖いってのは本当なのよこれが。茉希ちゃんはご存じの通り私、会社というか社会ではああいうキャラになっちゃってたから」
「頼れる仕事人、ですよね」
キャラになっちゃってた、という過去形にコロケーションの不和を感じないでもなかったが、渚沙との会話で慣れっこの言い間違いだろうとすぐに納得し、
「でも本当はお酒を飲んでいるこの状態が、素に近いから──的な話ですか?」
「すごく単純化すればそうなんだろうね。人間だれしも素でありたいし。でも私に関しては素を社会で出した瞬間色々終わるから、飲み会でも公にはお酒飲まないようにしてる」
「ですよね、さっき秋田先輩、飲み会の時の方便用意してるとか言ってましたけど」
「うん、これからも使うことはないかな」
それから徐々に回らなくなっていく玲奈先輩のろれつを補って要約すると、社会とは様々な顔の仮面を使い分けるもので、対して本当の自分を定期的に確保、確認できるよすがとしてお酒は飲まれるべきであるらしい。そんな崇高な理由で目の前の酔っぱらいができあがっているとは後輩の贔屓目にも認めがたいが、頬を上気させてぐびぐびとアルコールを飲むテーブル向かいの二十八歳女性の緩んだ口角を見るにつけ、まあそんなもんかと。
わたしも早くお酒飲めるようになりたいです、と返答したのは適当な相槌ではない。
「あれ、茉希ちゃんいま十九歳だよね。二十歳になったら飲み行けるね、誕生日いつだったっけ?」
前にも言ったんだけどな、と思いつつ。
「十二月ですよ。来月です」
「そっか、その頃にはもうちゃんと冬だね。今日は謎に暑いけど」
先輩のいう季節外れの晴天も、しかし窓越しに陽が弱まっているのが見て取れて。
時の流れとは残酷で。
わたしは窓から目をそらして、はやく秋田先輩とたくさんお酒飲みたいですとかわいい後輩のセリフを言った。とは婉曲しつつもその実、わたしにおけるかなり本当に近い部分で、本当にお酒を飲んでみたいと感じている。先輩の哲学に則るならば、わたしがすっかり下手になっていた素のじぶんを出すのも、お酒の力を借りればまたできるようになるのかもしれない、と期待が湧いてくるからだ。
目の前のべろんべろんの先輩のように。
「もう夕方か、なんかテレビみよっか」
でも先輩、まだ嘘ついてますよね。
先輩はたまに会話で不自然な間を作る。本当の素を出しかけて、慌てて取り繕っている間だとわたしはとうに気づいています。
先輩の中にはまだ、わたしにみせていない部分がある。饒舌にうれしそうに屁理屈を哲学を語るのは片鱗なのでしょう。
それをたとえば健志さんと共有していたんじゃないかと思うたび、わたしの翼の片方が折れるのですが。わたしだけが本当の先輩に触れられてるなんて思い上がりだったと、心は暗澹をきわめますが──
次のニュースです。東京都調布市におきまして、昨夜未明……
──でも、それでいいやって今日になって思うようになりました。先輩とこうして、二人きりでお話したのを通して。
だって先輩が本当の素を隠そうとするなら、わたしだって隠してもいいはずです。本当をつくっていうわたしの苦手なことに敢えて努めなくても、先輩なら許してくれるんじゃないかと。
そういう先輩を、わたしはいいと思ったのですから。
そんなことでは先輩と健志さんの恋人関係に割って入ることなど到底できないでしょうし、心の距離は近くならない、けれど。わたしはいまや悪人です。健志さんの死を隠してしまいました。どうせ今後しだいに薄れていくこの距離で、わたしは満足できるので。
途端、急に現実味がわたしを襲った。
あ、もう先輩との関係は絶対に近くならない。それでもいいやと謂ったところで、わたしが嘘しかつけないことを思い出せば。
最初から、先輩とは慎ましく過ごせればと弁えていたことを思えば。
テレビを観る先輩の顔は一層酔いが回ったのか更にとろんとして、潤んで見えて。
……昨夜未明、コンビニエンスストアにて男性が死亡しているのが見つかりました。死因は刺殺とみられ、身元は同じく調布市在住の吉井健志さん三十二歳であることが明らかになっています。警察は殺人事件として捜査本部を設置し──
恋人の死亡をニュースで知らされて、
先輩は無表情だった。
無表情だった。
無表情、なの?
不意に、テーブルの正面へ手を伸ばしてしまう。火照った先輩の頬に触れた。あれ、どうしたんだろうわたし。
「どうかしたの?」
さっきまでずっと見ていた優しい笑顔で問われる。
わたしは答えた。どうもしてませんよ、ただこれ、明日の仕事がまた休みになっちゃうかもですね。
「そうだね。一応会社の人が死んでるんだもんね」
先輩は少し間を作ってから、
わかりやすく沈んだ顔をした。
途端、先輩の柔らかい頬の感覚が蘇る。
身体に電流が走った。ゾクゾクが止まない。もし先輩が許すなら、今夜も泊まって明日はいっしょに出社したい気分だった。
さてどうやら報道でも明るみに出た通り、吉井健志は世界の「運命」にとって不要となってしまったようだ。私が流離した器は死ぬとこのように世界に忘れ去られる。なかったことにされる。なかったことにされることで不都合が生じるようなら、都合よく辻褄があわされ、自浄する。
吉井健志も例に漏れず、今後は皆から忘れ去られるか、その必要が運命にとって無いのならばモブとして扱われることになるだろう。これが世界の摂理だ──あるいは四年前、新宿駅東口高架下に捨て去った死体も、豪徳寺の一室で自刃した青髪少女の器も、行方不明事件として処理されているらしい。あるいは二年前、池袋のとある高校で多くのうら若き生徒を殺害したが、生き残りの友人からは「クラスメイト」と曖昧にしか思い出してもらえず、たとえば「亜衣」といた個人名はおくびにも出ないようだ。
これを私は「運命の辻褄」現象と呼んでいる。四年前の事件が行方不明事件となったのも、二年前の事件は逆に殺人事件のままなのも、流離がもたらした運命の辻褄によるものだ。そうやって世界は紡がれてきた。
さて、そんな辻褄のあわされた運命を、この嘉村茉希という少女は疑いもせず、あろうことか気に入ってしまったようだ。
他人の本当の本当に触れられたと思いこみ、舞い上がってしまったのか。
とかく、悪人が生まれた瞬間である。
悪人は、悪人のように生きるしか最早ない。
(続)
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