第14話 悪人が生まれた日(前)


 次の日、十一月に似つかわしくない蒸した晴天だった。わたしは午後一時まで泥のように眠った。振りをした。起きてしまえば玲奈先輩と話さざるを得ないと思い至るたびにまぶたをあける勇気が失われてしまうのだ。今横たわっているこの場所が他でもない玲奈先輩の家の寝室である以上、我がまま以上でも以下でもないのだけど。


 枕元のスマホを点ける。LINEの新規通知が三件来ていた。この家にいるはずの、今はいないふたりからだった。


「買い物行ってくるね。気にせずゆっくりしていっていいからね」


 玲奈先輩の後ろ姿のアイコンは朝日とも夕陽ともつかぬ逆光が刺していた。いつも見るたびにどっちなんだろうと訝しむ。


「お姉ちゃん寝すぎ! あたしは偉いからバイト行ってきます!」


 渚沙のポムポムプリンの無表情のアイコンは年上のわたしよりも、数多くの人間と密でリアルな会話を紡いできたのだろう。


 もう一件の妹からの通知はわたしの寝姿の盗撮だった。窓の向こうから街頭演説の声がかすかに聞こえる。



 さて。


 新規通知は三件であったが、昨晩読まずに既読にした三十件以上の不在着信をスクロールしながら、ひと眠りしてすっかり冷静さを取り戻しているじぶんにまずは嫌気が刺した。昨晩は記憶がとぎれとぎれである。調布駅前のコンビニで健志さんが突然、とつぜん、自らナイフで割腹したのを尻目に、スマホのバイブレーションなど気にも留めず、その場を離れたときに頬をなでた風の感覚だけを覚えている。玲奈先輩の家で浮かれて火照っていたという前置きがもしなかったならば、うん、最早こんな述懐すらしている余裕もなかったかもしれない。


 ときに、いまは多少余裕があるものの猶予がないことに次に気づく。


 とにもかくにも「ここ」に居てはならないと思い、居る資格などないと思い、わたしはスマホと充電ケーブルをリュックに押し込み──押し込んだ先のやわらかい感触で、気合の入った着替え一式がノータッチであったことを今更思い出した。確かに十二時間前までは楽しいお泊り会のはずだったのだ。それも、社会人に似つかわしくない青春の色気を少々含んだような。それが──そうか、二年前もこんな感じですべてが唐突で無稽だったね、とまたしても都合の良い回想で気をまぎらわせながら、乱暴に手にしたリュックを片肩にだけ掛けて玄関へ向かおうとした。が、この期に及んでリビングルームの脱ぎ散らかされた玲奈先輩の衣類とか、机に置かれた皿、空の缶だったりがなぜか気になってしまって、せめてこのくらいは片付けていこうかなと戻ってきた。なに他人の家の廊下で右往左往しているんだわたしは。


 いい加減、落ち着こう。落ち着けば見えてくるものがあるはず。

 先輩の白いワイシャツが捨てられている横に腰を下ろして考える。落ち着いて見えてきたのは、今のわたしがおかれている圧倒的な詰み状況だった。


 昨晩の例のコンビニ現場であがった刺殺死体は、当時こそわたし以外に直接の目撃者こそいなかったものの、控室にいただろう店員やその他客にすぐに見つかり、今頃、報道の手に落ちていて然るべきだろうこと。防犯カメラやらなんやらも絡めて、刺殺の容疑がまずかけられるのはたったひとりであること。よりにもよって死んだのが同じ会社の上司であること。


 。わたしは無実だとわたし自身が解っているのだ、なんならちょっとした事情聴取くらいは丁度良い悲劇として受け取ってやろうという覚悟すらある。わたしは何も悪いことをしていない。問題なのは、詰みなのはただひとつ、玲奈先輩とわたしのゆるやかな関係は、このままゆるやかに終わっていくのだろうという確信。死んだ健志さんが玲奈先輩の恋人、というのはもちろんであるが、こういった非常事態下にあっていっしょに乗り越えられるほど、わたしと玲奈先輩のこれまでに奥行きはない、突き詰めてしまえば仕事仲間に過ぎない。わたしは玲奈先輩のことを圧倒的に知らない、と気づいてそれは出会ってから半年ほどだと思えばごく当然なのであるが、どうやらこの嘉村茉希という人間、つい十二時間前まで「自分は先輩のだらしないプライベートな一面を知っている」と、勝手に親しみを感じて浮かれていたようなのだ。


 どんどん冷静になってくる。恥ずかしい。そんなものはわたしが一方的に盗み見しているようなものなのに。わたしにとって玲奈先輩が唯一であったとして、逆もそうとは限らないのに。先の事情聴取云々がわたしにとって丁度良い悲劇だとすれば、殺されたのが他でもない健志さんだというのは世界にとってさしずめ丁度良い喜劇なんだろう。とかく要するに、今のわたしにできるのは玲奈先輩の前から姿を消し、他人になることだけだ。明日の仕事でも会うだろとか会社の人間が殺されているのに営業するつもりなのかとか、そもそも姿を消すなんて遁世するわけでもあるまいし無理だろうかそういったことは


「あ、茉希ちゃん起きてたんだ。さすがにこんな時間だしか」


「あ──」


 午後一時半。刺殺事件から十二時間。テレビやスマホでその件に触れていないなどと望むべくもなく。


 目の前にいるのは、買い物袋を提げて帰ってきた、神妙な面持ちの玲奈先輩。


 完全に詰んだ。



 ノーメイクでも綺麗だなあ、とかせめて思ってもいいですか。


 *


 調布のコンビニでの事件を雪島消と大山友威は昨晩の通報の時点でいちはやく知っていたが、その犠牲者があの吉井健志と知ったのはつい先ほど、ふたりで「調査」を行っていた最中のことであった。


 二人は大山宅に集っていた。一人は無職男性、もう一人は捜査を外されて暇な男性。


 そしてもうひとり、女子高生がいた。本バイトに関わることを姉の上司に止められたにも関わらず、ある興味から言いくるめて今日も稼ぎを得に来ているという少女。


「この世界ってすごいですね! ダークウェブに個人情報ぜんぶ落ちてるじゃないですか! 昨日死んだ人とかすぐに割り出せるんですね! てか大山さん昨日ピザ食べすぎてお給料全滅したので今日は倍額ください!」


「嘉村さん妹はアホキャラとして扱っていいのか困る解読の才能を持っているね」


「あたしIQ的なやつ高いんで!」


 雪島は戸惑っていた。落ち着かずワンルームの端で腕を組んで立ちながら大山とバイトの女子高生を眺めるにつけ、昨日からの雇用関係の割には随分と打ち解けている様子だが、雑然とした一室に赤の他人だった未成年女子を現ナマで呼びつける大山という男の倫理観は審議の余地があるし、おいそれとついていくこの女子高生には言い知れぬ底知れなさを感じる。十何年と堅い世界で生きてきたので存じ上げなかったが、令和の時代では気にしすぎなのだろうか。


 とかく、自分の仕事に集中しよう。元警視監ではなく雪島消としての仕事。雪島は目の前の二人の会話が一息つくのを見計らって、


「それで、例の身元は吉井健志、で間違いないんだな?」


「はい!……」女子高生は例によって軽い調子で応えてきたが、すぐに陰を含んだ表情に。どういうことか──ああ、そうか。吉井健志は秋田玲奈の元恋人で、この人にとって秋田玲奈は、事前の大山からの話によると──踏まえれば、彼女にとって酷な話だったか。


「あ、別に心配はいらないですよ!」女子高生は諸手をオーバーに振って主張する。「どちらかというとお姉ちゃんのほうが心配なんですよ、あたし。お姉ちゃんああ見えてけっこう苦労してるんで……」


 そりゃあ──お姉さんにとっては直属の先輩の──おそらく恋人か何か、なのだろうから、単なるショックを超えて身辺に落ち着かない部分が出てくるだろう。この女子高生、先に姉の心配をするとは、随分と気丈な──


「いま、お姉ちゃんが好きなひととちょうど上手くいきかけてるんですよ」


 ──ただの快活な少女かと思っていたが、そんな顔もできるのか。


「そんなわけで、健志さんの件をしらべたいんだったら──多分お姉ちゃんにきくのが一番早いんですけど、今はそっとしておいてあげてもらえないですか。そのへんの推理的な役割は、代わりにあたしがやるんで」


 なるほど──それがバイトを続ける理由か、と雪島は合点する。


「──私情では理解できるが、しかしやむを得ない場合もあるのは解っていただきたい」


「もー!大人ってこれだから!!」


 女子高生らしい、と言っては物議をかもしそうだが無遠慮に地団太を踏む、この少女は後に大山から聞いたところ、名を嘉村渚沙と言うらしい。その日のバイトが終わり、「人の心がない大人達ばーか!! こんなことしても何の意味もないんだから!」としつこく詰ってきた嘉村渚沙が大山宅を後にした後、満足そうに机に突っ伏して眠りこけている大山とモニターに映されている銃を持った男性の3Dモデルを尻目に、雪島は先ほどまであの女子高生が読んでいたタブレットに目を通していた。「World Dark Web」──随分と安直なサイト名だ。全編英語であったが、英字新聞程度であれば読むことができる雪島にもなんとか解読は可能だった。


 世界中の個人情報があり、Maki KamuraとRena Akitaの名をさがして素性を暴いてやろうと思ったが、膨大すぎる情報量を前に三十分ほどで諦めた。こんなものを何の気無しに読んでいたとはあの少女、そこまでの傑物のようには見えなかったが──


 雪島がこの日、大山宅を訪れたのは他でもない吉井健志が刺されたことについて経緯を整理するためだった。しかし結果として今日は大した進捗も得られず、女子高生に罵られるだけで終わってしまった。何にせよ、お姉さん思い、家族思いというのは良いことだという学びを得たのだ、と腑に落とす他ない。


 *


「今日も休みなんだし、ゆっくりしていきなよ。明日一緒に会社行くでもいいんだし」


 買い物袋から食材を冷蔵庫に移しながら玲奈先輩はあれこれわたしに言うのだけれど、その慮りや他愛なさは微塵も受け取ることができず。


 健志さんに関する話題に、先輩はあれからひとことも触れていない。少し前まで姿を消そうなどと考えていたのに完全にタイミングを失ってしまった。まさか、昨晩の事件を知らないのか──? わたし自身は怖くてニュースの類に今日いまだ触れていないのであるが、実はまだ報道の段階にあがっていないのだろうか? ……否、仮に健志さんの死が知れ渡っていないのだとしても、本来彼はこの家に今もいるはずで、わたしと渚沙の訪問にあわせて一時的に一晩、不在にするという約束だったのだ。なので「今日もゆっくりしていきなよ」という玲奈先輩の申し送りは、ありがたいのだけれど一方で不自然でもある。何かしら一言でも、彼への言及があって然るべきなのに──恋人なわけだし。


 玲奈先輩と顔を合わせた時点では、全部白状するべきだけどその覚悟は悲劇的すぎるあまりできていないといった手合いだったのに……刻々と、気味の悪い時間が流れている。ほんとうに気味が悪い。休日、玲奈先輩とふたりきりだというのに正に生殺し状態。


 とはいえ、この時間を終わらせようと踏み切るかといえば、


「茉希ちゃんまだ何も食べてないよね? 一緒にお昼ご飯にしよっか。てかテレビでもつける?」


「……あ、えと……テレビは、いいです。ご飯も悪いですし──」


「いいよー別に、どうせ冷凍食品だし手間も何も、っていうと別方向で失礼だね。テレビも静かなのアレかなと思って言ったんだけど、茉希ちゃんがいいならいいよ私も普段そんなに見ない派閥だし」


 なんというか──都合がよすぎる。まるで健志さんの件など一体存在しなかったかのようで、リビングルームにとろんとした粘性の強い時間が流れている。この気味の悪い均衡は、わたし自身から崩しにいこうと思わない限り、あるいは現在バイト中の渚沙が再び帰ってこない限り、保たれるのだろうと予感した。そうか、渚沙が──渚沙も知らないのかな、健志さんのこと。などと、察しを入れるまでもなく、何があろうと明日の出社という圧倒的な「リミット」が存在するのだ。わたしが玲奈先輩に合わせる顔がなくなるのは、今のゆるやかな関係がゆるやかにおしまいになってゆくのは、必定の未来なのだ。わたしはその時をもって丁度良くない悲劇の犠牲者となるのだ。


 ……そうなのだとすれば。


「あの、テレビはいいですわたしも観ない、というかそもそも家にテレビないですし。あの、お昼ごはん一緒して、いいですか」


 せめてこのひとときだけでも楽しもう──というのは、悪人の所業なのでしょうか。


 大丈夫。わたしはいつもこうやって深入りすることなく、上辺の関係だけで充分楽しめてきたんだ。そうでなきゃ、これまでやり過ごせない出来事が多すぎた。

 だから今回だって、大丈夫だ。



(続)

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