第10話 非劇(前)

 わたしはずっと悲劇的な運命っていうものの実在を信じていて、いつかそれに選ばれて、「嘉村茉希という主人公」になってみたいと思っていた。


 とはいえ。そのために特段人より努力しているわけでもなく、


 ほんとうに悲劇的「終末」を迎えてしまうのも、それはそれでごめんだし、


 平凡極めた日々を今すぐ変えたいなんて切迫感は少しもなく──冷房の効いた部屋でだらっとする今のまんまでも、人生なんとかなりそう、と色々を先延ばししちゃって、


 つまり高校二年生という年相応、いやきっと年未満の、甘っちょろい厨二じみた妄想に過ぎないと一方では自覚していながらも──


「しっかり大人しく寝てなさいよ! 本とか読まずに」


 ある七月の朝、三十九度の高熱を出した。人生でもこれほどの発熱は覚えがない。むろん、高校生活はじめての病欠。


 わたしに通り一遍の警句を並べて家を出るお母さんの後ろ姿が、つけっぱなしのテレビが、枕元で目覚ましという朝の仕事を奪われてしまったデジタル時計が、熱に浮かされてゆらめいて見える。歪んで見える。


 ……読書なんて誰にしつけられるまでもなく、数ページ時点でまぶたの重さがそれを拒むだろう。


 だから今日は母の言いつけを守る子になって、何も考えず寝ていようと思った──



「……午前九時になりました。今朝のニュースをお伝えします。東京は七月にしては珍しく記録的な猛暑日となり、熱中症対策が欠かせません……」


 布団をかけ直し、両目をぎゅっと閉じたところで薄まる気配のない、胸の中でごろごろと転がる高揚感が。何も考えないなんてことをわたしに許してはくれなかった。


 ──つまるところ。高熱で学校を休むというのは、わたしにとって丁度良い悲劇の運命だったのだ。


 例えば大雪で交通が乱れ、学校が休校になった時のように、


 例えば隣国からミサイルが飛んできた時のように、


 震度五強の地震が遠からず近からずの場所をおそった時のように──



 いつもとちょっと違った一日が始まろうとしていることに、たとえそれが家の布団で寝呆けるだけだったとしても、わたしは呑気にもワクワクしていたのである。無機質な教科書のような人生を、有名予備校講師の参考書へと誰かが書き換えてくれることを。


 この時点では、呑気にも。


 主役を張るにはあまりに──わたしという人間は、場数と演技力と殊勝さを欠いているいう。数日後には嫌でも気づくことになる事実になんて考えもやらず。




「今日プール開きなのに休むとかもったいな!笑笑」


 クラスメイトの亜衣からの労りの欠片もないLINEで、熟睡できずに視界の暗闇を持て余していたわたしは目覚めてしまった。


 リビングに移動し乾いた口を冷蔵庫のアップルジュースで潤しながら、ソファに座ってワイドショーを眺めつつLINEを返す。この時間帯の番組、いったい誰が見てるんだろうね。ところで時計は短針がちょうど十を指していた。二時間目か……亜衣のほうは授業中じゃないの、と突っ込むことは最早この場において無粋であり。


「もったいないと思えるのは亜衣みたいな泳げるスポーツマンだけだよ」


「あれ茉希泳げないんだっけ?」


「生憎、万年図書委員なものでね」


「そかー。まあいいや。三時間目からの水泳が楽しみすぎて授業全然耳に入ってこなくてLINEしちゃったわ~」


「普段は授業が耳に入っててスマホもいじらないみたいに言うじゃん。今現国だっけ?」


「そだね。期末試験もう終わってるしガチで聞く意味ないのに真面目に新しい範囲入ってるの意味不」


「でも夏休み明けの課題確認テストの範囲でしょ? ちゃんと受けたほうがいいよ」


「そういう殊勝さは悪友には似つかわしくないからいつかできるであろう運命の人に向けたほうがいいよ」


 当面そういう人が現れる予定がなくてね、

 といなしたかったけれど、ばつが悪くなったのでわたしは、


「確かに~。てか高熱でまじで頭痛い」


「ただのダル絡みモードに入ったね」


「元からそれが目的だよ」


 相手が授業中なことなんて気にもせず連絡を続けていたが、今度は既読がしばらくつかなかった。先生に指名されたのか、見つかったのか、三時間目の水泳に備えて英気を居眠りによって養い始めたのか。いずれにせよ、また暇になってしまった。


 頭はとうに冴えてしまっているし、話し相手もいない。成程午前のワイドショーは今のわたしのような人間のための救済として用意されていたのだろう。画面のむこうではマリトッツォをどこかで見た女性タレントが大げさなリアクションで頬張っていた。


 ふと。


「夏風邪でぶっ倒れちゃった」


 もう少し誰かに構ってほしくて、この時間帯ならばぎりぎり即レスが来るだろうと信じて。わたしは一通のLINEを送った。


 「ええ!?お姉ちゃん大丈夫!?!!?」


 信じた通りすぐに返ってきたのは、亜衣とはうって変わって真正面からのいたわり。


「頭はけっこう痛くて学校休んでるんだけど、まあこうしてLINEするくらいの余裕は残ってるかな」


「だめだよLINEとかしてたら! ポカリ飲んで寝なきゃ! すぐスマホ閉じて!」


 テキストコミュニケーションなことを忘れるスピードで飛んでくる諫言。しかし、


「今そっちは何時?」


「午前一時だよそろそろ寝ようかなと思っていた頃だよ! 安眠妨害だよ! 安眠妨害は大事な人相手にしかしちゃ駄目なんだよ!」


「そっか~」


 後半のアドバイスはスルーを決め込む。

 というかLINEをやめろというのなら、すぐ既読をつけて期待通りの返事を寄越してくるのをやめてほしい。こっちだってやめられなくなるから。


 一か月前からイギリスに留学している渚沙は、そのコミュ強と英語力をいかんなく発揮して色々と満喫なさっているようだが、わたしが妥当な時間に連絡を送れば大抵一分以内には反応を返してくれる。


 もっとも、平日の日本時間午前十時イギリス時間午前一時に取り合ったのは今回が初めてだけれど。むしろ妹の生活リズムのほうが心配になってくる。


 誰譲りでもない渚沙の無鉄砲は海の向こうでも鳴りを潜める気配がないが──この瞬間に限っては、話し相手ができて望外である。


「今家にひとりでめっちゃ暇なんだよね、寝ようにも全然眠くなくてさ」


「はえ~~、これだから恋人作ろうって言ってるんだよあたしは! こういう時こそ頼るもんじゃん!」


「だからそういうの興味ないって言っとろうが。あんたみたいに上手くはやれないよ」


「ん~~あたしはただ皆と友達なだけなんだけどなあ~~あれ、てかお母さんは?あ、パートなんだっけ」


「誰かさんの留学したいっていう唐突かつ壮大な野望の犠牲としてね」


 わたしたちの通う中高一貫校では、毎年指定校での交換留学が行われており、そこに妹は飛びつき応募したという恰好なのである。


「あーー!そういう事言う!あたし寝てもいいんだよ?」


「でも時差のおかげで、この時間帯にLINEできてるって思えばいいかもね」


 もっとも渚沙が日本の授業中、亜衣のようにスマホを弄っていない保証は全くない。


「あ、そういえば今日ね!近所に超おいしいステーキ屋さん見つけて入ったの!胃袋崩壊しちゃったよ~」


「報告のテンションと内容が釣り合ってないけど、一人でお店入れたの? 順応じゃん」


 渚沙の言う「胃袋崩壊」が「舌鼓を打つ」と大体同義であることをわたしは長年の経験で知っている。


「うん!そりゃ一ヶ月もすればね!」


「そういやいつ帰ってくるんだっけ?」


「一年後だよ! 全然先だよ! 何度も言ってるけど!」


 そうか──


 いくら図太い渚沙とはいえ国外に解き放たれたことをわたしは姉としてそれなりに憂慮していて、それは妹に対する放任主義が過ぎる母親からの反動もくみしていた。


 あるいは、自分よりもはるかにスピーディーに人生をやっている妹に対する純粋な焦りも。なんて熱に浮かされた勢いでつい自戒してしまって、いたたまれなくなってしまい、


「じゃ、ごめんね真夜中に連絡しちゃって。食べるものとか気をつけてね」


「えーめっちゃお母さんっぽいこと言うじゃん!お母さんにも言われたことないのに!」


 適当に動物が無表情をしているスタンプで返し、暇を充たしてくれたことに内心だけで感謝しておいた。お母さんはもっと母親としてのアガペーを妹にも与えてやるべきでは。


 昔からそうだ、わたしと違って妹は妙に信頼を勝ち取っているところがある。留学どころか家の外に出ることすらわたしは門限二十一時があるのに。明らかに渚沙のほうがわたしより生命力が高そうなのは、人生の質ををスピーディーに高めているのは、そりゃそうだけれど。


「起きたら返信して。喉とか痛くない? 昼ご飯は冷蔵庫に作り置きがあるから、無理せず食べなね。夜何買って来たらいい?」


 証拠に、母親から心配の辞書のようなLINEがわたし宛てに届く。こんなだから嘉村家において、心配の三角貿易体制が強化されるばかりなのだ。今の自分が臥せていることなんて棚に上げてそんなことを思う。


 風邪で休んでいなかったらあり得なかったちょっとした会話の節々に非日常を、妹が日々海の向こうで経験しているであろう、途絶えない彼氏とはぐくんでいるだろうそれと比べれはあまりにみみっちいにせよ──それでもわたしにとって「丁度良い悲劇の運命」を見出し、浮足立つ。


 ……他方で、普通に頭がいたくて。


 母親には「大丈夫」とだけ返し、他にも何件かあったようであるLINEの通知は一旦見逃して、わたしは無理にでももうひと眠りすることにした。午前十時半。学校では二時間目が終わり、クラスメイトは水着へ着替えている頃である……



「このLINEというものは相も変わらず面白い。人それぞれの人生の演り方が如実に端的に現れる。世界に対して多くの顔を持つ人間は、このように誰かとの連絡を絶やさないのだな。世界との関わりに齟齬をきたさずやれている君たちは、このように他愛もない会話を続けていられるのだな。いいフィールドワークであった。非肉抜きで羨ましいと感じる。むろん一方ではこういうのを見聞すれば気持ちが悪い吐き気がする底気味悪い嘔吐を催す胸やけがする不愉快極まりない鳥肌が粟立つ疎ましい虫唾が走るグロいと思うから、今の私には一生真似できないだろう。いつか、真似できる私になってみたいものだ。


 ところで君たちのLINEには感謝しないといけない。最初にこの教室に入った時に蛻の殻で面食らってしまったがすぐにプールによる移動教室だと解ることができたから。

 君たちはそうやって私が停まっている間にどんどん世界に順応する。相変わらず世界は狂っている。もとい、最悪だ」



 次に目を覚ました時。

 LINEにしては異様な堅苦しい長文が、亜衣から送りつけられているのをわたしは温かい布団の中で目にした。



 これが亜衣からの今生最後のLINEとなったのだが、



 当然この時点のわたしはそう勘づくことなどなく、例の長文も何かの乗っ取り的なアレだろうと合点し、このままぬるい世界で丁度良い悲劇に浸っていられると思っていた。


 本当の悲劇はとうに幕を下ろしていた、と今ならば。


(続)

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