第8話 嘉村茉希の履歴書
湿っぽいだけの夏が過ぎて、わたしは十九回目の十一月を迎えた。
二ヶ月前にボブカットにしたばかりの髪ももう伸びてきて、マフラーにしまうと丁度良い。適当に着てきたパーカーとジーパンではまだ肌寒くて、最近はオフィススーツばかり着ていて鈍感になってしまったと辟易する。
もう十一月だ。季節の移ろいにワクワクすることは働き始めてからめっきり少なくなったが、朝起きてきょうは一枚多く羽織ろうか、マフラーでも巻こうかとするのは、息をするにもつんと冷たい外気とはうって変わってあたたかみのある愉しさだと思う。それが仕事のない土曜日の昼ともなればなおさらだ。
なおさらのはずだった。
「悪い悪い、十二時に豪徳寺駅集合のところ間違えて十二時に起床してしまって二十三分の遅刻を為してしまった。とはいえ本当は俺の家で集合でも良かったところなのにわざわざ駅まで迎えに行ってやろうという殊勝さを考量すれば罪はプラマイゼロといったところだが──おや、そこに居るのは俺が待ち合わせをしていたはずの同僚・秋田玲奈さんではなくその直属の後輩にして俺のきっての後輩でもあるところの嘉村茉希さんじゃないか」
「大山さん、お疲れさまです」
大山(何となくムカついたので脳内で呼び捨てにしてみました)は寝癖の立った頭で、首元の緩いシャツにウルトラライトダウンだけを羽織ってわたしの前に現れた。瘦せこけた顔と無精ひげが嫌でも目に入る。コンビニに水道代でも払いに来たのかといった出で立ちだが、この先輩は今日という日にわたしを呼びつけていたのだ。
……いや、本当の所はわたしではなく──
「先輩今日急遽来れなくなっちゃって……わたしが代わりに話を聞きに来ました。事前に連絡できてなくてすみません」
「成程いきさつは分からないが秋田さんと示し合わせているなら差し支えない。嘉村さんはいつも秋田さんと一緒にいるからな」
久々に巻いたマフラーの静電気が弾けた。
「ハトが鉄砲喰らって昇天したような顔をするなよ嘉村さん。一緒にいるのは事実じゃないか。ところで気になったのだが先ほど嘉村さんは秋田さんのことを「先輩」と呼んだね。それだとこの俺こと
「そのような覚えはありませんが……」
大山(先ほど脳内で呼び捨てにした時は少し罪悪感を覚えましたが、続けさせていただきます)は何の深い考えもなく言の葉を繰り出しているようで、このままだとまさに埒が明かないので、
「あの、駅前で立ち話もあれなので……」
「ああそうだな。俺たちはこの後サイゼリヤに行くんだったな」
「あの、違います」
「冗談だよ。昨日の件でしばらくサイゼはおろか迂闊な外出自体ができなくなったからな。だから無念の予定変更である訳だが……」
大山とわたしは、豪徳寺駅最寄りのアパート──もとい大山の家へと向かう。お呼ばれでも何でもなく、大山が大事な話があるとかで彼の同僚でツーカーの秋田先輩を呼び出していたところ、先輩から昨晩急に打診があってわたしが代理で仕向けられているというただそれだけだ。
大山とはほとんど話したことがない。なぜなら彼はほとんど職場にこないからだ。何なら先月クビになって今は有休消化中だとも聞く。つまるところ、このサイゼリヤ狂が損ねていると言った「先輩」の一意性は実は担保されているのだ。
すなわち、大山はもはや先輩ではない。
だってのに、なんで家に行って二人で話さなきゃいけないの!
大山と並んで歩く。無言があまりに気まずいので、少し回想に付き合ってください。
嘉村茉希。二〇〇七年生まれ、二〇二六年の今年で十九歳。
昨年、転校した先の高校を卒業し、そのまま中堅メーカー企業に就職。現在は高校二年生の妹と二人暮らし、家族とは別居。資格等は特になし。趣味は読書。
履歴書に書けるのはここまでだ。
遡ること一日。金曜日の午後三時。オフィスには早くも「もういいだろう、さっさと土日にさせてくれ」とでも聞こえてきそうな能率の悪い雰囲気が流れているなか、皆のパソコン画面から一斉にパポっという通知音が鳴り響いた。
通知内容を確認する間もなく、続いて奥の会議室から役員さん達がなだれてきて、そのうちわたしや秋田先輩の部署の統括であるところの四十八歳独身(と前に先輩が呼んでいて、おもしろいのでわたしも脳内で呼ばせていただいてます)が血相を変えてわたしたちのデスクの島へと駆け寄ってきた。
「何かあったんですか」
わたしの隣に座っていた秋田先輩が真っ先に四十八歳独身のほうを向いて尋ねる。四十八歳独身は待ってましたとばかりに口をぱくぱくさせてから、
「今度は一気に十五人だ」
そのことばだけで、わたしたちは事をおおむね把握した。
十五人が死んだのだ。
東京各地における、連続集団怪死事件。
身近な東京のあちこちで、集団で転がる死体が連日見つかっているとくればセンセーションを巻き起こすには充分だった。
二週間前、池袋サンシャインシティの屋上で四人が割腹して倒れているのを皮切りに。
上野、アメ横の裏地で五人。
新橋駅の高架下で八人。
そして今日先ほど、歌舞伎町にて十五人。
一度起こるだけでもショッキングな事件がここ数日は立て続けで、わたし含め素知らぬふりを決め込むことができなくなっている。
なぜ怪死と暫定にも呼ばれているかというと、死の動機がまったく掴めないこと、そして犯人──がいるとすれば──その消息がこれもまったく掴めないことによる。死の連続を食い止めるための糸口が不自然なまでに見つからないのだ。あたかも無から死体が降ってきたような、命が無造作に何者かに捧げられているような──ゆえに怪死事件。
いくつかのネットニュースによれば、これ以上の被害拡大を防ぐための緊急の外出自粛要請が秒読みであるという。東京の人口比でいえば被害者もまだ取るに足らない数であるとはいえ、昨日までいた場所が次の事件現場になるのは身につまされるものだ。
そしてわたしの勤めるこの会社でも、社員の身の安全第一ということで急遽帰宅命令が発令、一足早い華金を迎えることとなった。喜びのムードは無論ないけれども、心のどこかで浮足立っていそうな社員もちらほら。わたしはといえば久々に先輩と同じ帰途につくことができ、背中に翼が生えた気分だった。
「全然仕事終わってない……こりゃ今夜もサービスかなぁ。とりあえず来週頭までの発注のスケジュールは切っておかないと……」
「この期に及んで仕事の話を……」
秋田先輩とわたしは、会社を出て新宿を──まさに先刻事が起きたばかりの新宿をそそくさと歩いていた。隙あらばこの後先輩の家にお邪魔する方向に運命が傾かないかと探る一方、当の先輩は裏腹に浮かばない様子で仕事の話題ばかり振ってくる。
「そりゃあ……丁度いいと思ってね」
「丁度いいって……」
あ。
先輩の意図を理解したわたしは思わず視線を下にはずす。わたしのことを気遣ってくれてたんだ。
二年前、わたしの身に起きた事を想起しないように。
そのまま足元を見やったままでいると、頭にぽふっと感触が。先輩はわたしの髪をくしゃっとしながら、
「ま、事態が事態だし。私だけ働いても周りが機能停止してたら意味ないね。今週末くらいはサボらせていただこうかな」
え、じゃあ!
と分かりやすく口にはしないけど、期待を込めて先輩の顔を見上げてみる。最近まで茶色だった髪を黒に染め直して、彫りの深い目鼻もあわせてザ・仕事できそうな人の風格。どこか陰のある表情。
覚悟を決めて──今夜家行ってもいいですか、とずっと喉あたりで滞留していた台詞を漏らしてみると、
「あー、ごめん今夜は……健志と……」
あ、察した。
健志というのは秋田先輩が最近同棲を始めた彼氏さんのことだ。
わたしの背中に生えていた翼の片方がたぶん今折れた。
「露骨にガッカリを顔に出さないでよ」
「別に、出してないですけどね」
「ごめんってー」
先輩はけらけら笑いながら言う。わたしのがっかりの真意を先輩は理解してくれているのだろうか。
じゃあ明日土曜日はどうなんですか? と何様って感じの不遜を装って訊いてみる。
「私の家好きだねえ。……ああごめん、明日は明日で……ってそんな顔するのやめて」
相変わらず秋田先輩は仕事同様、プライベートが堅い。ガードが堅い。つけ入る隙がない。告白するのなら、わたしはこの先輩のことが好きである。頼りになる上司と部下の関係でなく、俗にいう愛情の類であることも理解できていて我ながらタチが悪いと思う。
有り体にいえばわたしはとにかく先輩の気を引きたい。帰途をともにしたこともひたすらチャンスだと思っていた。だけれど先輩はいつものように、慣れた調子でわたしの事をかわしてくる。
もう表情に出すのはやめてやろうと足取りを早めようとした時すがら、先輩のスマホの着信音が鳴り。
「あー、うん、もしもし? うん、明日はよろしくお願い……ああ場所? そっか、確かにサイゼだと……うん……そっか……了解」
通話が終わり、その経緯をこちらから問うまでもなく、秋田先輩は失くしたと思った財布を友達に探してもらっている最中に自分のポケットから見つけた時のような、申し訳なさそうな様子でわたしに相談を持ち掛け。
曰く、先輩の代わりにとある人物(先輩の同僚)に明日、代わりに会いに行って、曰く重要な話を聞いてきてはくれないかと。
いくら秋田先輩の頼みとはいえ、流石に想像と理解の範疇を超えていたのでリアクションに困っていると、
「あのね、本当は明日新宿のサイゼリヤでその人と会う予定だったんだけどさ、今新宿こんな状況でしょ? で、飲食店とかも土日は全部閉まっちゃうらしくて……それで場所がその人の家に変更になって……」
珍しく歯切れの悪い先輩の様子から、わたしは意図をなんとなく察した。
「ああ、もしかしてその家には行きたくない、的な?」
そうだね、と口にする先輩は、相変わらず陰のある表情。また見惚れてしまう。
「それで、本当にごめん……この借りは茉希ちゃんの気の済むまで返してあげるから」
「ん?」
「土曜の夜、その件が終わったらうち来てよ。お詫び──って言ったら変だけど。健志にも言っておくから」
「ほんとですか!」
折れた片翼が復活した。
つくづく我ながら思考が単純だなと思うが、いつも仕事やらで頼ってばかりの先輩きってのお願いということで、ここはひとつ任務をまっとうさせていただくことにしよう。
「それで、その人ってどういう? どこに住んでるんですか?」
大山君っていって。
豪徳寺のアパートに住んでるんだよと口にする先輩は、
うわの空でわたしなんか少しも見ていないようだった。
わたしに親切に優しくしてくれたり、こうして頼ってくれてるのも、わたしにだけの特別なんかじゃなく──本当はわたしのことなんて眼中にさえなかったとしても。
ふだんは仕事で完璧に振舞うかたわら、たまに別次元に生きているような、儚げな陰を湛えたカオをする先輩を──どうしてか好きになってしまった以上。
そんな先輩を、いつか必ず振り向かせたいとわたしは思うのである。
──ああ、とはいいましても。
本当は休日デートとかしてみたいけど、そんなモノを誘えるような積極性はただでさえ、わたしには備わっていない。ガードの堅い先輩という牙城を崩すのはとても敵わない──だから色々な思いを押し込んで、この仕事帰りの時間や、たまの先輩のお家にお邪魔する時間を、精一杯楽しもうと決めている。
これが社会人なりの慎ましさだ。ということにしておこう。
「すまないそういえば俺の家はガス水道が止まっていて飲み水もまともに用意できないからセブンイレブンに寄ってあれこれ調達しよう。因むとセブンのチョコチップクッキーは神様が両手で作った逸品だな」
「あの……」
回想終了。わたしは大山に連れられて、道中のセブンに寄り道をしていた。
数分一緒に過ごすだけでも、この男のダメっぷりが感じとれる。秋田先輩が「呼び捨てにしてもいいよ」と言い放ったのも頷けてしまう。そんなダメ人間と先輩はどうしてつるんでいるんだろう──というのはさておき。
いい加減話題がなくて辛くなってきたわたしは、どんよりと重い口を開き、
「今日の大事な話ってなんなんですか?」
「詳しくは家に着いてからだが」大山はチョコチップクッキーの箱を物色しながら答える。「まあ、今まさに起きてる例の怪死事件についてだな」
ぞくっと、途端に畏まった気分になる。
二年前の某日。
当時高校二年生だったわたしは、池袋高校で起きた、教科書にも刻まれうる最悪の事件に巻き込まれた。
クラスメイトが一人残らず惨殺され、わたしだけが生き残り。
わたしは転校を余儀なくされた。
履歴書に書けない過去である。
(続)
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