第2章:運命を信じない夏川による復讐
幕間 二年後と二年前
水泳後の午後の教室ほど心地よく気だるい空間はない。多くの人がここを以て青春の原初体験となすのだろう。窓より吹き込む風が視界を一層淡くする。
前後左右に座るクラスメイトに倣い、わたしも授業をバックミュージックに眠気に身を任せようと──後ろから肩を叩かれ、びくっと意識がふいに返ってくる。
先生にバレるほど間抜けな寝方はしていなかったはずだけど……恐々と振り返ると、後ろの席の子だった。緑色のふせん紙をひらひらと見せつけてくる。どのみち安眠が妨げられてなんだかなあ、面倒いなあさっさと寝ておけば良かったなあ、と渋々手を伸ばした。
メモ回しが要るくらいセンセーショナルな話題については心当たりがまったくない。クラスのイマドキに置いていかれるようなわたしではないはずだ。強いていえば「来週のテストって教科書の何ページからだっけ?」とか「六限って教室移動?」みたいな些事。つまり眠気の波に逆らってまで回すほど重要なメモではないということだ。それほどまでにこの気だるさは心地がよい。
そんなわけでこいつを横流しだけ済ませてやろう、と受け取った紙をそのまま前の子へよこそうとすると、
今度は後ろの席から赤い水が飛んできた。
頬が濡れた。
血しぶきだった。
ぼちょっ、という音を最後に教室がしばらく凪ぐ。
ああもう、本当にさっさと寝ておけば良かったなあ、と。
やおら、クラスメイトの聞いたこともない金切り声が一斉に響きわたる。
人は案外機械に似ている。本当の異常事態におかれると、意識って鮮明になるんじゃなくて強制シャットダウンしようとするのだ。机に突っ伏したまま動けないでいたが、なんとなくメモの内容だけでも見ておこうと顔を少しだけ挙げて、目を開けて、
瞬間、視界が赤黒くなった。
「そんな訳でここの高校にも私の居場所はなかった訳だが」
夏川は音楽室でグランドピアノを弾いていた。ランダムに鍵盤を手のひらで押し潰すだけの不協和音を耳障りだから止めてくれ──と指摘できる人間は校舎には残されておらず。鍵盤を押す度に手のひら型の黒い跡が残る。「これじゃあ黒鍵がどこかわからなくなってしまうね」と夏川はようやく気が済み、ピアノを離れてフローリングへと座りこむ。
世界から音が消える。制服のブラウスの裏にしのばせていた包丁を取り出し、自らの腹前へとかざす。
「何回目だ、これで」
もはや数えたことのない、次の誰かの人生への流離を試みる。
もはや数えたことのない、一人残らず殺した世界を後にして。
「夏へ行くのがここまで難儀だとはな──何度でも死んで、君へとたどり着こう」
あの日からわたしは「運命」という言葉がずっと大好きだった。
たまたま風邪で休んだ日の学校であんな凄惨なことがあってから、じぶんは運命に愛されてるんだっていよいよ確信しないといけなくなったのだ。友達も先生もみんな──って考えそうになるのを紛らわせるためってのも多分にあるけど。
これは、そんなわたし、
(続)
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