第6話 不適合者ランデブー

 小田急沿線にて二日連続で殺人が起きたとなればさしもの薄情と孤独のターミナル街・新宿といえど厳戒態勢を張らざるを得ないようで、午後八時、すっかり闇に落ちた新宿に舞い戻ってくるや否や駅構内外をうろつく黒服警官の姿が目立っていた。構内のアナウンスも耳慣れない臨時のそば立った雰囲気のものが流れているような気がする。


 無論そのような情勢に耳目をやる精神的余裕は、今のぼくにはないのであるが。



 先輩とされていた人とは新宿駅改札で逃げるように別れた。ぼくとされていたこの人物とおそらく恋半ばの関係にあった先輩らしき人は、例の「ふたつの死体」の現場より逃げ戻ってきたぼくらしきこの人物が酷く怯えていたと見るや、当然の権利下という面をしてぼくと思しき肉体を抱き寄せたり茶髪を撫でたりしくさってきた。ただただ気持ち悪かった、と感じるのはぼくの勝手な都合である。ぼくらしきこの人生順調女と先輩らしき優男の間では取るに足らないスキンシップの範疇であろうにせよ、とかくあのときのぼくを襲った吐き気は、お互いが殺し合うように倒れていた死体共の放つ腐臭でもなければ、慣れない異性からのボディタッチでもなく、あるいは当初の用を果たせず新宿へとトンボ返りすることと相成った徒労感でもなしに。



「大丈夫なのか? 家まで送って行くが…なんなら俺の家に……」


「ああすみません君たち。心労お察しするところではありますが事件の目撃者として今後も取調べにご協力願いたいと云うのが検察として告げざるをえないお願いでね。昨日の新宿駅前の件と並べて」


「すみませんそんな場合じゃないんで!」



 このぼくは、一体誰なのだ?



「玲奈、お前酷い顔してるぞ……本当に大丈夫なのか……?」

玲奈と呼ぶな。玲奈はぼくであって、この人生順調女の名前じゃないだろうが。


 優しくしてくれるな。お前はこの八方美人女の良き恋人かもしれないが、このぼくにとっては嫌味なクソ上司だろうが。


 なんだこれは。夏川の言を引くまでもなく──世界が狂っている。


 いや狂っているのはぼくなのか?


 ぼくの正体は仕事も人間関係も順調で、同期唯一の昇進に喜び、珍しく定時に上がれた日にはデートへと繰り出すような順風満帆女なのであって、


 仕事は何かと理由をつけて休み、本ばかり読んでおり人間関係が希薄の頭でっかちで、同期の中では学歴が最も良かったのに仕事の要領が自分でも信じられないくらい悪い、その癖プライドを薄めることができずに上司へ毒づいてしまうのを止められない、あのぼくでは元からなかったのだろうか?


 そう考えれば世界は何もおかしくない。唯一おかしいのはこのぼくだ。殺人現場を見て心労が祟ったのだろう。この災難を現実と認めたくないのだろうぼくは。そうだろう。


「無理しないで泊まって行けよ。俺の家に。お前の家、結構会社から遠かっただろう? 今の様子でちゃんと帰れるのか不安だ……」



 そんなわけないだろう。


 間違いなくこの肉体とは別に流離するこの記憶に、どう説明をつけろという。


 今や後にしたあのアパートが、このぼくの紛れもなく住んでいた家であって、


 目の当たりにしたふたつの死体が、他でもないこのぼくの肉体と、


 ぼくが今朝逢ったばかりの少女──夏川の肉体であったことに。


 誰か合理的な説明をつけてほしい。そして世界で唯一狂っているぼくを我に返らせてほしい。


 成程──これが孤独で、狂った世界。



 ──世界はあの手この手で邪魔しようとする。私は圧倒的に孤独であった


 毎晩のように語らった、尊大なる哲学者の言葉が蘇る。この八月、夏川と親しくなった夏は、気の迷いでも妄想でも決してない。懐かしくて陰ながらワクワクした、このぼくの確かな記憶であり思い出である。


 そうだ、確かに間違っているのはこの世界だ。身をもってそう実感できたとき、ぼくは夏川の数々の高説や遺書に秘められた想いを理解できたような気がした、とは云え彼女のように発起して世界に抗ってみよう──例えば自分の肉体を無茶苦茶に傷つけて臓物引きずり出して死んでやろう等といった気概は最早ぼくには残されておらず、もとい初めからそのように勇ましい立派な人物ではぼくはなく、あるいは例の検事からの取り調べを素直に受けて事を畳もうなんて平和ボケた決意もとうに非現実的だと悟り、


「おい玲奈! 待てよ! お前!……」


 先輩から、世界から、走り逃げることしかできなかった。


 しかし小田急線沿いをいくら走っても、走っても、息が切れても、やがて新宿にたどり着いても──世界はどこまでも世界であり、逃げようもないのだという残酷な事実を受け容れるには。ぼくの正気はとうに消え失せてしまっていたのである。


 成程ぼくはしょうもない人間だ。人生経験の乏しさたるや汗顔もののぼくである。死んだと思っていた友人に自室で殺され、なにゆえか他人の人生に憑いて歩むことになった──と解釈するのがさしあたりは妥当だろう──その場合の対処法がわからない。人生の記憶をふたつ手にしたと思えば白眉の経験豊かではないか等ととうそぶけるほど、やはり正気がない。汗が止まらなかった。




 このぼくの、大いなる流離の発端となったあの瞬間。





 次に目覚めると時計は午後三時を指していた。冷房が自動で切れていた。視界がゆらめいて見え、額がじっとりと汗ばんでいた。


 今度も深くは寝つけなかった。平日の昼間にハメを外して眠ることが敵わない程度にはぼくの身体は社会人ナイズされているらしい。関連していえば夏川は三徹後に三日間眠り続けることで彼女にとっての一日を二十四時間でなく体感七十二時間にすることで私はこの狂った世界に楔を売っているのだよなどとかつて高説を垂れていたことがあったが、その武勇伝には到底至らないにせよこのぼくも大学生の頃は前夜から午後六時くらいまでぶっ通しで寝ることができた、というのに今や目覚めることを拒み目を閉じているだけ以外の仕方で熟睡することができなくなったのだから剣呑の極みである。剣呑の用法ってこれで合っていただろうか。



 次に隣で眠っていたはずの夏川の様子を見ようとする。夏川はいなかった。

 というか仰向けのぼくに馬乗りでまたがりぼくの腹に包丁をかざしていらっしゃった。



 視界がゆらめいて見えるのも額がじっとりと汗ばんでいるのも寝ている暇ではなかったのもこの異常状況のせいである。叙述トリックでもって精一杯抵抗するも無駄であった。


 他方青髪少女の姿をした夏川は素知らぬ様子で、くりっとした目と小ぶりな鼻のあどけない顔にまるで相応しくない、けれども聞き慣れた強弁でぼくに言う。


「玲奈君はかつて作家を志し新人賞を狙っていたと言っていたが、その夢をぼんやりにでも抱いたのはいつだったか記憶にあるかね」


「この状況で回答するには他愛がなさすぎる話題だね」


「つれないな。もうこれは決まったことなのだから、ソクラテスの弁明だと思って答えてくれたまえ」


 決まったこと?


 夏川が寝起きのぼくに包丁を突き立てていることが。


 その後充分想定できる、けれども納得したがい展開が。


。それを思い出せるか、試してみてくれたまえ」


 全部全部、夏川には織り込み済みだったというのだろうか?



「黙りこくるのか。では玲奈君の好みに合わせて一段階帰納した質問に替えよう。玲奈君は自分の今の人生と照らし合わせて、なんか思っていたのと違うな、と微かにでも感じたことはないだろうか?」



 まだ理解が追いつかない。



 夏川はこの状況で、ぼくからどんな言葉を引き出そうとしている?


「私にはある。この肉体、この世界は私が思っていたのと違う、てんで思い通りにならない──この違和感を一生において片時も忘れたことがない。加えて」


「……ったっ…!」


 腹部に鋭い痛みが走る。珠汗が吹き出す。

 夏川はこのぼくの目を捉えたまま──なにゆえかは知らないが、本気でナイフを突き立てて、ぼくを殺そうとしている。


「ちょっ……やめっ……んっ……!」


「私には幼い頃から──と少女の身体で術懐するのも滑稽だが、何故か無数の知識が頭に蓄えられていた。歳不相応の落ち着きが備わっていた。気味悪がられるほど知見が豊かだった。教えられるまでもなく誰よりも勉強ができた。世界のどこを眺めてもデジャヴを覚えた。周りの皆が純粋に日々を楽しんでいるのを見て憎しみや妬みを抱くのにも疲れた」


 すっと身体の力が抜けてきた。手足がベッドと一体化したような感覚である。


 もしかしてぼく、このまま、


「私のではないはずの人生のアセットが私のなかにある。そのせいで人生がうまくいかない。世界が狂っている。これはどういう訳なのかと私は自らの記憶の泉に問い尋ねつづけてきた。その答えをようやく仮説し、つい昨日この身──もとい、あの死体の身をもって証明してみせたのだよ。私の精神はきっと、数々の流離を繰り返し、あの長髪の女性、この少女の身体に辿り着いたのだろうと。それを本日私はようやく自覚することができた」


 このまま、マジであなたに殺されるんでしょうか。


「だから次は玲奈君、いまや君を殺して君にも流離を自覚してもらいたい──」


「──さっきから何やってるの!?」


 指の感覚が失われゆくまま、ぼくは全身の力を振り絞って夏川を振りほどこうとする。


 しかし夏川の方が早かった。夏川は包丁を持つ右手を一度ぼくの腹から外し、そのまま覆いかぶさるようにぼくの両肩へと遣る。刃の銀色が視界の端で光った。


 その視界は次の瞬間、青髪によって失われる。少女の顔が眼前に現れる。


 鼻先同士がくっつく。唇が触れてしまいそうな至近距離にぼくは唾を飲む。時間が一瞬だけ凪ぎ、次には壁掛け時計の長針の進むカチッという音が聞こえた。


 次に長針の音が鳴るとき、ぼくはナイフで刺されているのだろうと確信したが──


「……駄目か。駄目だなあ」


 ぼくの頬に液体が垂れる。この涙は、ぼくのものではなかった。


 ぼくに覆いかぶさるのをやめ、がばっと起きあがった夏川は──驚くべきことに泣いていたのである。


「君の指摘する通りだよ。私は何をやっているんだろうな。玲奈君、このような状況で言うことでは到底ないと重々理解しつつ、どうしても次の流離の前に言い遺しておきたい──私は、君に■■■■■と言いたいのだ」


 また、長針の進む音だけが聞こえる。


「でもこの「■■■■■」は、私がどこかの人生で拾ってきた、陳腐な知識としての言語に過ぎない。この私の玲奈君への感情を言い表すにはあまりにニュアンスを損ねている。この感情を私のものにし、君に伝えるには、この何者でもなかった人生では片手落ちなのだ。この狂った世界では駄目なのだ。もっと流離して、最も良い人生と世界を見つけなければ駄目なのだ。駄目なんだよ」


 この少女は一体何を言い出している。


「そして玲奈君も「その玲奈君」では駄目なのだ。私が■■した玲奈君も結局、私にとっては世界なのだからな。だから」

君と私で、もう一度世界を流離しよう。


 最も良い私と、最も良い君で再び出逢えたなら──私は君に■■■■■と言える。


 君もきっと私のように、次に流離した人生で「玲奈」を自覚してくれるだろうから。



 腹の痛みがにわかに鋭さを増す。視界から色が失せた。不意に目を閉じていただけなのだが。ごぽっ、びちょっ、とぼくの身体が聴き慣れぬ音を漏らす。



 私は君がどこに流離したとしても、何度でも君のもとにたどり着くだろう。何せ私は君の実存の熱をいつも感じているのだからね。


 だから、後は玲奈君次第なのだ、夏へと行くためには。是非君は、君のままでいてくれたまえ。


 もし君が流離した先で首尾よく「玲奈」を覚えていた時のために、「夏流離譚」計画が次なる章へと無事進んだ時のために、所謂合言葉を残しておこう。


 ──



 そうして、ぼくは死んで同期の人生順調女の人生へと流離し。

 ぼくを殺した後に自刃したのだろう夏川は、どこかへ消えていってしまったのである。


(続)

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