第5話 死体がふたつ


 玲奈ちゃん、今日はもう上がり?


「うん、この後用事ありまして~」


 いいなー退勤後に遊びに行く体力、もうあたしくらいの歳になると残ってないよー


「ちょっと私と先輩よっつしか変わらないじゃないですか!私の余命あと四年ってことですか?」


 おいあたしを死人扱いすな笑笑


 てかアレ? 用事ってもしかしてアレですか? 玲奈ちゃんいつもと違って髪結んでるよね、気合入っちゃってるんじゃない?


「もーそれ以上は野暮ですよー笑」


 はいはい笑 あーそういえば玲奈ちゃん、改めてだけど、


 昇進おめでとう!


「はい、ありがとうございますっ!」



 午後六時、オフィスのエントランスをいつもより軽やかに抜けられた。まだ日没していない中を退勤するのは久しぶりだ。


 このあとの待ち合わせ場所には向かいのスタバを指定されている。あの先輩今日は絶対定時であがるからって言ってたけど、どうせ呼吸をするように新しい仕事を任されていて、私が待ちぼうけになるのは目に見えてる。


 それが充分予見できていたので、スタバの一席につくと仕事用のPCを開き、先輩が来るまでに片付けようと思っていたタスクにとりかかる。


 タスクというのは社内報の記入で、この度ありがたくも昇進したのに際して意識的に取り組んだこととか感謝の念とか、そういう感じのやつだ。要するに雑務も雑務なんだけど、これに限って取り組むのにいやな気はしない。社会人二年目、同期のなかで唯一の出世となると鼻高々にタイピングが進みます。



『私は入社当時、学歴も頭のできも自信がまったくありませんでした。同期には有名な大学を出ている人、色々なことを知ってる人、などなどすごい人たちに囲まれて、ついていけるか正直不安でした。でも、入社時研修で教わった「素直の精神」を胸に、先輩方との一期一会も大事にして……ついにチームリーダーへと昇進することができました。私がこの二年間で学んだのは──



「よっす」


 後ろから肩を叩かれた。


 先輩の健志けんしさんはもう片方の手でスマホをみながら現れた。マップで場所を調べているようだった。


 この後予約のお店の場所を調べてくれているのかと思っていたけど、事情はどうやら異なるようだった。


「あんな事があったのに、一日経ったらもう何ともなしって感じなんだな……」


「何か言いました?」


「や──まあいっか、お前は鈍感でいいな」


 新宿駅までの道のりを並んで歩く先輩は不機嫌そうなご様子だった。


「ったく、小学校じゃねえんだからよ」


 お店は歌舞伎町の方面だったはずだけれど、健志さんと私はなぜか新宿駅小田急線の構内へ向かおうとしている。


 先輩が言うには、


「玲奈の同期? だったと思うんだけど、今日全社会議スッポかした奴いただろ。そいつに今日の書類届けてやれ、ついでに元気そうか見に来てくれって」


「確かに風邪で休んだクラスメイトのお見舞いっぽいですね」


 私たちは駅の改札をくぐりぬけた。例の私の同期は小田急線各駅でいくつか進んだところに住んでいるらしい。ホームは仕事帰りのスーツ姿でいっぱいだった。小田急新宿駅に来たのは初めてだけど、柔らかいオレンジ色の光が懐かしい雰囲気で好きかもしれない。


 他方、健志さんは露骨にどんどん表情を硬くする。私との食事をじゃまされたことを怒ってくれているんだ、と解釈するのはポジティブがすぎるだろうか。


 私は視線をあげて先輩に話を振る。身長差があるのだ。


「でもメールとかでデータを送ればいいんじゃないですか? わざわざ直接届けなくても……それに忙しい先輩が行く必要……」


「と、俺も抗議したんだけどな。一応俺がアイツの上長にあたるから、と俺の更なる上司四十四歳の前で玉砕した。上長つっても部署が同じなだけで大して関わりないのに……それにアイツ、無断で連絡つかずサボったのは今回がたぶん初めてだが、何かにつけて休もうとしたり土壇場で有給入れたり……まあつまり、今回の件だけじゃないってことだな」


 それで俺の責任になるのマジで意味わかんねえ、と先輩は微笑みながらつぶやく。今回の件で先輩までが評価を下げたらかわいそうだ。部下の責任をもつのは上司、とはいえ部下だって社会人なわけだし、最終的には自助しなければいけないだろうに。


「部下が玲奈だったらどんなに楽だったかと思うよ」


「私と顔を合わせる機会が増えて楽になりますかね?」


「心労は増すかもな」


 二人で笑いあう。ふと幸せなひと時だなと浮かれ気が頭をよぎる。


 新宿、終点です──車内にお忘れ物がないか、お確かめください──


「アイツ学歴は良い癖に典型的な……陰口はやめとくか。アイツなあ、アイツ……っ…」


 怪訝な様子の先輩。


「どうしました?」



 五番ホームから、快速急行、小田原ゆきが発車します──



「いや……こんなこと言うの可笑しいんだけどさ──お前の同期のアイツ……」



 


 えええ、いや何言ってるんですか先輩。ボケですか? ん? ボケにしては真面目な顔ですね。あ、シュール的な? 最近流行りの。違います?


 違いますか。じゃあ目をつぶって答えますけど、同期のあの子は、

 あの子は、



 思い出せなかった。そういえばさっきから一度も、私も含めてあの子を名前で呼んでいなかったな。


 おもわず天を仰いだ。柔らかいオレンジ色の蛍光。天井がゆらめいて見える。


 次に来た小田急各駅に乗り込む。車内では誰もがスマホを覗き込むようにみていた。新宿を出発し、南新宿、参宮橋と過ぎてゆく。誰も降りる素振りを見せない。誰も気に留める素振りを見せない。



 各駅しか止まらないこじんまりとした駅で私たちは下車した。


 先ほどの一件で先輩と私の間に気まずさが残っている。なぜ先輩にとっての部下、私にとっての同期の名前が、これから訪ねようとしているその子の名前が思い出せなかったのだろう? 折角その子へ書類を届け次第先輩との楽しい用事が待っているのだから、わだかまりは今のうちに解いておきたい──という焦りと、原因究明への好奇心と、これ以上──これ以上深入りしないほうがいいんじゃないか、という謎の危ぶみ。そう、危ぶみが私たちを支配していた。会話をするのが怖い。十年ぶりに会った親戚に先輩が見える。


 スマホでマップを覗き込みながら住宅街へ歩みを進める先輩。目を少しでも離せばどこか知らないところに行ってしまうような気がして、私は無言足早についていく。時間が果てしなく延びて感じる。


 そうだ。記憶不全的なものかもしれない。先輩も私も最近激務続きだったし。昨日だって一週間も放置していた営業資料の事をクソ上司にガン詰めされて終電近くまで、


 あれ。じゃあなんで今の私は定時で帰ってるんだろう。てか同期いちの出世頭なのに営業資料放置したりとかしないでしょ、あとクソ上司とか言っちゃ駄目でしょ社会なんだから。どうしたんだよ私、私ってば、


 私って、



 午後七時、空に闇が刺し始める。



 閑静な住宅街に似つかわしくない人だかりが前方にできていた。変哲のないアパートの入口付近には、物騒な警棒を持って野次馬の整理をするポリス。パープルスーツに身を包んだ仰々しい様子で電話やらメモやらをしている大人達。その後ろには年齢身長さまざまの家族連れや男性など、一様に神妙な面持ち。さらに後方にはパトカーが停まっている。


「マジかよ……」


 健志さんが聞いたこともない頼りなげな声を漏らす。状況が呑み込めていない私に持っていたスマホの画面を差し出してくる。見ると、ちょうど私たちの目の前のアパートに目的地のピンが立っていた。


 同期の子、あそこに住んでいるんだ……しかしアパートのふもとは大人たちに完全に塞がれていて、そうでなくてもこれ以上近づいちゃいけない雰囲気が露骨に漂っている。


 立ち往生している私たちに気づいたのか、群がりから大人がひとり私たちのもとへ寄ってきた。しわがれたスーツがドラマやドキュメンタリーの類のオーラを醸している。


「もしかして君たちも住人? ごめんなさいちょっと今避難してもらってましてね、」


 先輩が一歩私の前に出て、


「事件とかあったんですか? その……」


「だったらまだ楽だったんですけどねえ」パープルスーツの方──おそらくおまわりさん的な人だろう──は無理に明るい感じで言う。「は流石の私でも堪えますね。ねえ昨日の新宿での件から」


 新宿の件?


「あなた達もこの辺に住んでいるなら耳に入っているでしょう? 新宿駅での殺人事件」


 さ、さつじん? そんなことがあったんですか?


「そりゃもちろん知ってますけど……」


 え? 先輩知ってるんですか? なんで私だけ知らないの

 てことは、と先輩は唾を呑み、刑事さんが口を開くのを待つ。次に発せられた言葉は予想通りのものだった。

 はい、新宿駅東口前で死体が見つかった昨日の件から、二日連続です。


 いやだから、新宿駅東口って何? 記憶にないんですけど──


 瞬間、下腹部に気持ち悪さがこみ上げた。


 目の前のアパートは、ここは──



 自宅じゃないか。



「ちょっと君!」


「おい玲奈! お前……」


 身体が勝手に走り出していた。


 物騒な大人たちを分け入ってアパートへと進む。階段を昇る。差し押さえ用の黄色いテープが廊下に張り巡らされていたが、知ったことではない。


 見慣れた玄関の前に着いた。


「やめなさい! 君! まだ現場は処理待ちで……っ」


 下の階から罵声がぼんやりと聞こえる。辺りは完全に暮れている。


 わずかに玄関は開いたままで固定されていた。視てはいけない事は理解できていたのに、私の好奇心はなぜか止まらない。


 その先を視ようと覗き込むと、

 凄まじい悪臭がした。


 腹の奥から吐き気がせり上がってくる。



 死体である。ここで殺人事件が起きたのである。死体現場を見たこともない私には刺激が強すぎた──


 いやいや、死体は昨日見たばっかりじゃないか。ちゃんと記憶している。私は記憶力に秀でているのだから。そんな私の記憶するところによれば、だ──



 ここは同期なんかじゃなく、紛れもない私、玲奈の家で、


 奥で死んで転がっているのは、他でもないわタし、玲奈で、


 会社や人間関係がうまくいっているこの自分は、玲奈なんかじゃない。



 我慢しきれず膝をついて吐いている私は、このぼくだ。


 このぼくこそが玲奈なのに。

 この身体は一体、誰なんだ。



 そしてそんな事が吹き飛ぶくらい荒唐無稽なことに──


 ぼくがいま視ているのは、血まみれで倒れているぼく自身の死体であった。



『本委員会は、件の新宿一帯連続殺人事件について事実関係を把握し、今後の対応について検証・検討するためのものである。

事件の概要:令和三年八月二十三日(月)午後六時頃、アパート「XXレジデンス」(東京都世田谷区豪徳寺X丁目)にて、身元不明の被害者(死者)がふたつ見分された。一方は二十代半ば、もう一方は十代前半と推定される。身元は不明。


 被害者(死者)はいずれもうつぶせに倒れていて、身体の近くには刃物があり、血痕の状況から死亡推定時刻は午後四時程。


 被害者(死者)は折り重なるように伏せていたことから、無理心中の可能性もあり、詳しい経緯を引き続き捜査を進める。』



(続)

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