第2話 ある平日夜の通話

 新宿を闊歩する間、ある日の夜の会話を思い出そう。


「レーヴィットに言わせれば人間は他人や世界から逃れるべくもない存立構造をしているというが、しかし実感としてはやはりどこまでいっても孤独だというペシミズム、これがいまや傍流に退けられているのが生きづらさにつながっているよね。ところで玲奈れな君、明日は暇?」


「とりあえず、明日も平日」


「にべもないね」


 その日の夜もベッドに寝転がって通話をしていた。明日の朝までにクソ上司に提出しないといけない営業資料が未だに弊社名を紹介するだけで終わっているのは明日のぼくが何とか誤魔化してくれるだろう。そんな死刑執行前夜の切羽詰まったぼくとは対照的に、夏川は研究室にのんべんだらりと三日も泊まっているらしい。「私の家は図書館であり、住むに適する場所ではないんだよ」という彼女の掃除放棄宣言で一旦は納得していた。


「では週末かな。玲奈君は今週末も出勤の予定かい?」


「いや、久々に休日という名が体を成しそうだよ。この水曜日時点では」


「あと数日の世界線が壊れないことを祈るばかりだね。君への研究報告が今や山積してしまっているのだから」


 耳に当てたスマホ越しに紙をシャラシャラとめくる音がする。夏川は昔から本を読むのが異常に早かったような気がする。気がすると留保するのは一応彼女とは高校からの同級生であるにも関わらず、まともにコミュニケーションを交わすようになったのがここ何週間かの話だからだ。高校時代での夏川へのうっすらとした印象を列挙すれば放課後に教室のうしろで黒板を我が物顔で占有し、難しそうな本をシャラシャラとやってはなにがしかをチョークで書きなぐっている変人。クラスでのあだ名は哲学者だがこれは夏川自身がそう呼びたまえと吹聴したとの噂。模試では常に学年トップ。翻って体育はからっきしだったが体育祭の校庭で皆が全校リレーなどに歓声嬌声を飛ばす中、ホメロスのオデュッセイアを砂場に寝転がり読みふけっていたというのは幾つもの証言が示している。


 つまるところ夏川という人間は、若き頃のぼくにとってキャラの立った見世物であった。テレビの向こうの誰それと変わらない位相に夏川はいた。アイドルであった。タレントであった。彼女とぼくの住まう世界は頑健なフェンスで隔てられていると信じていた。


 そんな別世界の住人が突如ぼくに──謂わばテレビの前のいち視聴者に過ぎなかった、平々凡々なぼくにコンタクトをとってきたのが数週間前のこと。それもただSNSでいいねしましたフォローしましたとかいう次元ではない。あの夏川がぼくに、


「玲奈君と話がしたいんだ」


 と大胆にも告げてきたのだ。いつの間にか友達登録されていたLINEでである。どうやって連絡先を突き止めたとのかという問い詰めに対して夏川は「きみの実存の熱を感じたまでだよ」と取りつく島もない。


 それからというもの、この謎の通話の時間が継起している。ぼくは平日の仕事から帰ってきた午後十時のベッドの上で、夏川は何泊目かの研究室の机で、他愛も益体もない会話というよりは夏川の「研究報告」と称する謎の高説を浴びる滝行。これがぼくの毎晩の習慣となりかけていた。


 なんとなく懐かしい感覚がした。夏川がという事ではない。


「しかし君が自己実存を疎外してまで好き好んでやりくさっている労働というモノには学的興味があるね。私は賃金労働者になった試しがないから見聞でしかないが、どうやら君だけでなく多くの大人がやっているらしいじゃないか。故に公正世界仮説に則れば労働にも何かしらの旨味があるんだと思うのだよ」


「旨味といえば賃金以外の何物でもないよ」


「賃金のために労働で実存を疎外するのが世の常なのだとしたら今一度世直しをするべきだね。なるほど金は生きるために必要だ。しかし金を得る手段は賃金労働以外にもごまんとあるというのに敢えて労苦に万人が飛び込もうとする集団動機がわからない。狂気以外に説明がつくのかね、玲奈君」


「手段はごまんとあるといってもね……」


「あるだろう。ギャンブル、強盗、賞金……君だってかつて新人賞を狙っていたらしいじゃないか?」


「別に賞金が狙いだったわけじゃないよ」


 では何が狙いだったのかといえば答えに窮するし、いまやどうでもいいことなのだが。


「でも他の手段として挙げられるのがそのくらいだというなら、狂気以外の説明はつくよ。つまり、確実性だね。ギャンブルも強盗も賞金も望めば確実に金が手に入るというわけではない。前者二つに関してはリスクという究極の不確実性が伴う。ひるがえって労働は少しの理不尽さえ忍べば確実に決められた賃金が振り込まれる」


「その確実性が盾となり、理不尽が少しではなくなり横行しているという」


「しかも最近は賃金が振り込まれることすら確実でない場合もあるね」


「矛盾だらけだ。ゆえに私が先に仮定した公正世界仮説そのものが誤りなのだろう」


「ぼくは最初からそう思ってたよ」


「まったくこの世界は狂っている」


 世界が狂っている。夏川の研究報告はいつもこの一言に結論するのである。


 壁掛けの時計をみると短針と長針が重なっていた。




 懐かしいのはきっと、夏川のような変人についていこうとするこの気概である。自分も変人ぶろうと精一杯背伸びするこの感じである。夏川は今も文学研究を生業としているが、思い返せばかつてぼくにもそのような頃があったような気がする。気がすると留保するのはかつての自分があまりに労働によって埋没してしまったからだと思う。だから懐かしいのだ。フロイトに感銘を受け、伊藤計劃を崇め、千葉雅也に反抗し、ヘーゲルに挑んでは破れ、口直しにギブスンを読んでいた、いつか自分もこういうものを生業とする知識人になれるだろうと高をくくっていた高校時代が懐かしいのだ。高校での成績も一番だったと思う。夏川と同じクラスになるまでは。


 夏川はぼくをはるかに凌駕する変人だった。いやぼくはただの変人気取りだったのだ、比べることすらおこがましい、夏川とぼくの住まう世界は決定的に異なっていたのだ。それでも夏川はきっとぼくの理想だった。そしてぼくが変人であろうとすることを、いつしか世界が許してくれなくなった。大学時代は何者にも成れないと解り切っていながら本ばかりを読み、運転免許や接客バイト、サークル活動なんぞには目もくれず、それでも人生が好転しなさそうな事に三年次に勘づき、凡百への最後の抵抗として小説を書いてみたりもしたがついに挫折し、ごく無個性の会社へ滑り込む以外の途を閉ざしてしまった。夏川だけが社会の波に呑まれずに済んだのだ。


 ではなぜどうして、夏川とぼくは


「私が世界を変える力を手にしたというのは最早繰り返すまでもないだろうが」


 夏川は今日もこのセリフを口にする。


「繰り返す必要はないけど、具体性を欠いてて何とも言いがたいよ」


「では有り体に言い直せば、この腐り切って馬鹿馬鹿しいにもほどがある世界を、ついにぶっ壊す方法を私は編み出した。すべてを研究に捧げた甲斐があったというものだ。私が玲奈に会って話したいのは、まさにこの方法と実行に関する作戦だ」


 なぜどうして、夏川とぼくはかつて接点がなかったのだろう。 

 話せば話すほど、夏川はぼくの人生の分岐に決定的な影響を与えている気がするのに。しかしどうしても、夏川と高校時代大学時代に何かを為した記憶がさっぱり思い浮かんでこないのである。


 そしてどうして、夏川はぼくを


「世界を壊さんとするためには、まず現行の世界が腐敗しきっていることを充分認識する必要がある。そのために玲奈君とここ何日か有意義極まりない会話をしてきたのだ。そしてついに今週末決行だ。世界を壊すために「夏へ行く」、名付けて「夏流離譚」計画」


 どうしてこのぼくを選んだのだろうか?


 何年も会っていない、いまやいち労働者に過ぎないこのぼくを。なぜ夏川は「夏流離譚」計画の助手に抜擢しようとするのだろう?


「ああそれで待ち合わせだが、新宿駅前でお願いしたい。新宿駅というのを玲奈君は知っているか?」


「そりゃあ。東口の広場でいいかな?」


「ふん」夏川は珍しく沈黙した。「東口、とやらではなく新宿駅と指定しているんだが」


 なるほど。


「そして新宿駅を進むと、大変豪勢かつリーズナブルで研究生の清貧なる私にも優しい優れた店があるのだそうだ。そこで件の話に花を咲かせることにしよう」


 サイゼリヤと云うんだが、と夏川は言う。


 なるほど。確かに夏川は、研究に全てを捧げてきたのだろう。



 週末の待ち合わせ場所や時間について詳細を詰め、ついでに新宿駅における東口という概念についてひとしきりのセミナーを開講してから、ぼくたちは通話を打ち切った。


 思い返せば、あの時である。あの時ぼくが衝動に任せて「このほうが何となく面白くなりそうだ」という主人公気分に浸らなければ。あるいはこの上手くいかない社会に反旗を翻せるかもしれない話だと色めくこともしなければ。そうして夏川との関係を毎晩の通話から逸しないようにしておけば、今年もごく普通のぼんやりとした八月を過ごしていたのかもしれない。しかし一方で、そのような可能世界へと分岐することはあり得なかったのだろうとも思う。というのも、


「ありがとう玲奈君。今週末はこの世界にとって大仰でなく歴史的な瞬間となるだろう」


 夏川がぼくを選ぶ理由はわからずとも、ぼくが夏川を選ぶ理由は明確にあるからだ。


 あるような気がするからだ。



 というか夏へ行くって何のポエムだ?



 その結果が週末、夏川の死体である。


 夏へ流離する前に夏川の内臓が身体から流離していた。まさぐると血濡れた遺書も流離していたのである。


 おあとは何もよろしくなかった。


(続く)

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