夏流離譚

在存

第1章:肉体と精神に関する夏川の論考

第1話 新宿駅東口前にて

 人生経験の乏しさたるや汗顔もののぼくである。会う予定だった友人が待ち合わせ場所の新宿駅前で死体になっていた場合の対処法がわからない。


人ごみの中うずくまって口をあけることしかできない無様なぼくを、通りすがる人々が一様に見てみぬ振りをするのが背中越しに感じとれる。大学時代、家で本ばかり読んでいて生の死体に出くわしたことがないのを心の底から恥じるのだった。


 二〇二二年、八月の昼空の下。友人もとい夏川なつかわは、新宿駅東口前の高架の歩道橋前で横たわっていた。黒くてぶかぶかのコートを着ていて中は上裸だった。安物と思われるリュックはチャックがあいていて、紙束やらノートブックやらハードカバーの本やらが無造作に詰め込まれている。それが研究関連のなにがしであると解ったのは夏川が大学院に通っていたからだ。因むと夏川と同級生のぼくは社会人二年目である。


 因んでる場合ではない。


 夏川の様子はごく傍目に見れば黒ずんだ謎の物体が転がっているようであった。近づいてそれを人と視認したとしても行き場を失った不審者と合点するのが並べての感性だろう。だからこの不審者の死体に目もくれず、避けて歩いたとしてもまるで不思議はない。そうして然るべきだしぼくもそうするべきだったのだ。しかしぼくは労働者としてせっかくの休日、この哲学者(と哲学専攻の夏川は自称していた)に呼び出されていた。高校では接点がなく、大学を異にして縁すら失われていた(ちなみに夏川は東大、ぼくは早稲田の心理学である)夏川と最近になって連絡をとるようになり、そしてつい先ほどまで、ぼくは無邪気に夏川に会いたいと思っていた。


 その末路が夏川の死体である。なぜ死体と解ったのかというと外套の下の上裸が血まみれであり腹がえぐれており泡をふいていたからである。顔面はというと苦悶に歪み白目をひんむき、などといったことはなく眠るように無であり、ただ垂れ流すように泡をふいていた。とかく、貴重な休日が大変なことになってしまった。前門に虎がいることに虎へ触れるまで気づかなかった。しかもその虎は死んでいた。きっと李徴子だったのである。


 ついでにこの時点では頭が回っていなかったがぼくは死体だけでなく現場物に触り放題、指紋残し放題の第一発見者であるらしい。このぼくこそが大の不審者であるらしい。容疑者であるらしい。数分後、自分なりに冷静かつ殊勝な気持ちになって警察へ通報することになるぼくであるが、その実、虎の死体にべたべたと呑気に触りながら後門の狼をみずからおびき寄せていたのである。



「述懐ありがとう。ただ君らの出身大学とかの情報は要らないね。あと半端なレトリックとか混ぜてきたけど普通に紙面の無駄だしもし君がいつか社会をリタイアして悠々小説家になりたいと薄ぼんやりにでも考えているのなら諦めたほうがいいよまあ前科がついてしまった以上まっとうに生き進めること自体を諦めなきゃいけないけどね」


 某所猛暑の取調室。窓越しには風情の感じられない都会の緑が見える。パープルのスーツを着たおまわりさんの耳元には一筋の汗が垂れていた。正面に座るぼくにひとしきりまくし立てると、机の上のリモコンを取ってエアコンに向けてピッと音を鳴らす。スーツを脱げばいいのにと思った。


 室内は煙いにおいがした。本で読んだことのある状況である。検察官を名乗る彼はぼくがやったと疑っているのだ。現場での夏川の死に方がやはり絶対的に凄惨だったのか、ぼくに嫌疑をかける検察官の目にも当初は怯えの色が残っていたように感じていた。しかしぼくの口ぶりを聞くにつけ、コイツが実際にやったのかどうかは知らないが、少なくともただの人生経験の少ない若造だと舐めるに値すると納得したのか、取り調べの節々に気色の悪い説教が混じるようになった。ぼくは会社のクソ上司四十四歳独身の顔を想起した。歳ばかり食ってキャリアだけで仕事をやっている、ぼくよりも学歴の遥かに低い無能である(と口にしたことは勿論ないけれども)。


 こういう述懐が要らないという訳か。


 しかしお陰様でぼくにも反抗心が芽生えてきた。ぼくは自分が殺しをやっていないことを知っている。ぼくは悪くない。仮に自分が悪くなくても立場が上の者に詰られたらへりくだっておいた方が得であるというのは二年間の社会人生活で学んだけれども、ここは社会ではない。ちょっと鬱憤晴らしをしてやりたい気持ちになった。


 現にすでにそれは実行されている。ぼくは目の前のパープルスーツから目を逸らしてポケットに手をやった。重要な手掛かりであろうコレの事をぼくは敢えて供述していない。


 ポケットに忍ぶは、夏川からの遺書。


 ぼくは社会なんぞに絶対負けたりしないと、冷笑と抵抗が生きがいなのだと意気込んで、新宿駅東口前にて歩み勇んでいる。


 遺書とは逆のポケットに入れていたスマートフォンが震えた。バイブレーションの法則的に上司からの営業資料の催促であろう。休日に電話を掛けてくれるなよと、当然のように無視をした。



 言い忘れていたがぼくと夏川は女である。


(続く)

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