第3話 究極の俗物

 夏川の死体を見た翌日、仕事を休んだ。

 無断欠勤は二年間の社会人生活でも初めてであった(有断ならば、今までに食ったパンの枚数くらいある)。なぜ休んだのかというとひとえに気持ち悪かったのである。吐き気がしたのである。湿気ごもった電車に出荷されることに今日は耐えられる気がしなかった。


 昨晩までは平常だったのである。一向に終わっていない営業資料も昨日無視した上司からの電話も素知らぬ顔でデスクにふんぞり返るつもりでいた。しかし今朝目が覚めて冷蔵庫のウーロン茶を見ると、すぐに夏川の静脈血を想起し下腹部が疼いた。吐き気がした。ときに、きっと無断欠勤をしおおせる世の人々はこのように圧倒的な無力感にさいなまれたのだろう、ぼくの仕事に関する憂慮はちっぽけなモノだったのだろうと理解した。


 そして社用の携帯とパソコンを今日はクローゼットに封じ込めることに決め、ぼくは再びベッドインした。




 昨日。事情聴取がひと段落し、第一発見者であるぼくは未だ疑われており電話にいつでも出られるよう構えておけと脅しをかけられつつも一旦解放された。ぼくはちょっとした解放感にまかせて、夏川と行く予定だったサイゼリヤへ向かうことにした。


 サイゼリヤへの入店自体は案外一年ぶり程度だった(サイゼリヤで毎晩デキャンタとハムで晩酌をしている同僚・同部署の大山という謎の男に一度連れられたのだ。ぼくはそれを以後拒んでいるわけではないが大山が出社をサボりまくっており滅多に鉢合わせなくなったのだ)が、日曜日の昼下がりに独りで入店する二十四歳女性というのは曰くがつかないとやっていられないだろう。


 本来同伴するはずだった夏川が死んだ以上、あの大山曰くバグうまイタリアンランドへ単騎で臨む理由もないのだが、せっかく貴重な日曜日を布団の中で半合法の動画を観るに費やしたりインターネットで釣り記事を回遊しつづけて気がつくと月曜日になっていたりする普段の過ごし方よりかは余程マシだと思ったのである。


 ずっと太ももの付け根が湿った感覚があった。ポケットにある夏川の遺書は血濡れが不思議と乾かない。思い出したくない彼女の遺言が勝手にぼくのまわりで反響を始めた。




 私は今日死ぬことにした。夏へ行くために必要なことだからだ。


 この世界を離れ、夏へ行くために一番大事なのは雰囲気だ。主人公気分だ。狂気だ。だからこの伝え事ばかりは敢えて手紙というノスタルジックな形を選んだ。


 おそらく玲奈君がこの手紙にありつく頃、私の死体を見つけては諸々の厄介事に巻き込まれようとする予兆を肌に感じていることだろう。死に方もとうに決めている、できるだけ君にとって鮮烈な印象が残るものとなるよう仕組ませていただくつもりだ。これも君の為を思っての事であると理解いただきたい。


 少し、自分語りをしよう。私の一生を思い返せば、ただただ空虚でつまらなかった。俗にいう青春の対極にあったという感想しか残らない。放課後にアイスを食べに行く同級生、ラウンドワンに行く同級生、集まって試験勉強をする同級生、文化祭よりも部活動を優先する同級生、そういった色々が人生に含まれている輩が羨ましかった。


 このように私は究極の俗物であることを当時は認められず、自分こそがもっとも人間強度の高い変人であろうと振舞ってきた。しかしいまや認めざるを得ない──結局自分は、もう一度青春の夏を過ごしたいだけなのである。こんな私でも記憶の奥底に眠る、楽しかったかもしれない夏をやってみたいのだ──


 遺書はここで途切れていた。インクが切れてくれて、夏川が事切れてくれて本当に良かったとぼくは思った。読み返し、思い返すたびにぞわっとする──自分が書いたのか、と見紛いそうになるからである。



 サイゼに入ると見知った顔の男が飲み食いしていた。


「あれ、お前」


「たまたまです」


 気がつくと大山と相席する流れになっていた。ぼくは社会ではひたすらレッセフェールすることで生き延びてきたのである。


 机には食べかけの皿や半分空いたデキャンタ、グラスがおひとり様とは信じがたい量広げられていた。大山曰く午前中のパチンコで当たった分で豪遊しているらしい。


 職場でも例外なく友達の少ないぼくであるが、この男は、


「で?俺のホームに来た理由は?」


「だからたまたまですって」


「そうか。あ、すみませんアロスティチーニ一皿と生ジョッキひとつ」


 ぼくの注文をとる気は少しもないらしい。後でよくわからない謎のドリアを注文した。その後も大山はぼくがいることを半ば無視するように滔々と咀嚼しては物語りつづけた。


 この男は、明確に自分の世界を持っておりぼくと異なる世界に生きていて、その距離感が社会では物珍しくてぼくにとってはある意味心地が良かった。あと彼は仕事の話をしない。だから相席を許している。他の同僚面々を思い起こせば、仕事と彼氏の愚痴しか言わず共通の敵を作ることでしか会話できない弱者の癖にやれ玲奈ちゃんは彼氏いるのだの職場のあの人がどうだの平気でぼくの世界につけ入り込んでこようとする身の程知らずばかりがぼくの記憶メモリを食っていることを知らしめるが、他方で社会とは身の程を知れば知るほど損をする機構でもあるので正しい淘汰の結果をぼくは厭がっているに過ぎない、つまりぼくが淘汰される対象であることを確認したに過ぎない。


 その点大山はぼくと同じ側の人間であると、情緒に疎いぼくでもわかる。


「困難は分割せよと誰かしらが言ったらしいが、分割の仕方がわからなくて困ってるってのに何の意味のないアドバイスで良い気になっているのがムカつくな。ところでお前、俺は貯金を少しずつ分割して使うのがまるで不得手なんだが、死んだ方がいいのか?」


「そうかもしれないですね」


 と、平素ならば生焼け返事をしていたところだろうが数時間前に見たものが見たもので、少しばかり返答に詰まってしまった。


 夏川にはどうして、死ぬ必要が──彼女の死に顔をまた思い出した。初めて気持ち悪さがこみ上げた。店内だろ馬鹿と慌ててお冷を飲んで落ち着ける。


「お、きたきたアロスティチーニ。これサイゼで一番うまいぜ」


 大山はぼくの事を引き続き気にせず肉の乗った皿を掲げる。最高だこの男は。確かに美味しそうな旨味の香りがして、今の気分でなければ一口いただこうかという気にさせる程であったが──


「あなたが推すなら間違いないでしょうね。少し食べてみたいかも」


 などというぼくからの社交辞令に応じるはずもなく、大山は串から肉を外して口に次々と放り込んでいく。この食漢がぼくよりも瘦せ型であることは夏川の言葉を借りれば「世界が狂っている」である。


 この状況ならば、と思った。


「あなた友人亡くしたことあります?てかホカホカの死体見たことあります?」


「その二つの質問は並列してないように思うが、順に答えれば前者はイエス後者はノーだな。ホカホカということで通夜は除いた」


「いや並列しているんですよ。さっき友人がホカホカの死体になっているのを見かけてきました」


 あえて軽い感じで言わなければまた気持ち悪さがこみ上げてきてしまうと思った。この下腹部の不快感はなにに由来するのだろう。


「はえー」大山はまったく興味がなさそうだった。最高だこの男は。「悲しかったか?」


「そのうち悲しくなるんでしょうけど、今は訳わからなさが勝っていますね」


 どこかで一連の出来事そのものを現実におけるものと捉え損ねている向きがぼくにはあった。それは夏川が未だにぼくにとって見世物だったからだ。アイドルだったからだ。タレントだったからだ。それは夏川がぼくにコンタクトを取って来、数瞬間にわたって毎晩語り合おうとついぞ変わらなかった。ゆえに夏川の死はドラマであり、アニメであり、ドキュメンタリーに過ぎなかった。


 


 夏川という女性はどこまでもただの人間で、ぼくに近しい悩みを抱えていたのだ。


 そう知ってしまった瞬間、夏川という存在はぼくにとって悪友になってしまった。そして夏川の死体はドラマでもアニメでもドキュメンタリーでもなく──


「トイレ行ってくるわ」大山は急に席を外した。彼の事だから偶然の気遣いだろうが、しかしできればトイレ以外の場所を選んでほしかったものだ。このぼくこそ、トイレに駆け込んで思いっきり吐きたい気分なのだから。冷静にぼくは数時間前に友人の死体を見て、しかも第一発見者として今後も司法の厄介になるであろう悲劇の当事者なのだ。


 夏川の死体は、ぼくにとってちゃんと悲劇になってしまったのだ。


 テーブルのアロスティチーニは冷えて香りがまったく届かなくなった。




 ところで平日の二度寝はもう少し気持ち良いものだと思っていた。少なくとも大学生の頃はそうだった。というか、社用の携帯がクローゼット奥でひっきりなしにバイブ音を鳴らしており熟睡するどころではなかった。


 少し経って、そういえば昨日の取り調べの際に握られたぼくの携帯番号は社用のものにしてしまったと思いだした。あの取り調べのパープルスーツの男性などから連絡がありそれを無視していたのだとしたら厄介だな──これ以上面倒事を増やしたくはない。以後は取り調べに反抗することなく対応し、ぼくが無実であることをとりあえず解ってもらおう。そうすれば、夏川はぼくにとって再び見世物へと戻る。出来事へと堕ちる。夏川はきっと自分が死ぬことでぼくをも巻き込み何かをしでかそうと目論んでいたのだろうが、それを酌量する余裕はもうぼくにはない。夏川のことを出来事として処理精算できるのは、今が最後のタイミングなのだろうと予感した。


 かくして、この時点でぼくは社会への反抗だなんだといった非日常の一切にやる気がなくなっていた。夏川の死体に底知れぬ気持ち悪さを感じてからは、普通にこれまでのうだつの上がらない生活に戻ってしまうのが、気に食わないものの一番楽そうに思えてきた。


 しかし、世界は相も変わらずお狂いなさっているようで。



 インターホンが鳴る。



 ぼくは社会に戻れる、最後のタイミングを逸することとなる。



(続く)

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