第42話 休日勤務

「百地、この論文をサラッと読んでくれる。 読み終えたら、あなたが考えた理論に対するリスクを数値化してみて」



「ハッ?」


 彼女の声に我に帰った俺は、思わず声をあげてしまった。

 気落ちしている気持ちが伝わってしまったのか、貴子は俺を見据えている。


 母の事を思うと怒りしか湧いてこない。見捨てられていると分かってはいても、現実を突きつけられると、やはりショックだ。


 そんな俺のことを気遣うかのように、貴子は、俺の顔を覗き込んだ。



「この論文は、アメリカのマクド大学のベントン教授が書いたものよ。 AIによる弊害や危険性を数値化するための考え方がまとめられているわ」


 貴子から、300ページはあろうかと思われる論文を渡された。



「この量を読んで理解するのに、俺の頭では3日はかかります」



「あなたは東慶大学の大学院生なんでしょ。 もっと早く読めないの?」



「すみません。 英語が苦手なもんで …」



「それじゃダメよ。 英語が苦手なんて言ってたら落ちこぼれちゃうわ。 ここには選ばれて来たんだから、期待を裏切らないようにね」


 貴子は、淡々と厳しいことを言う。俺は、凄く不安になってしまった。



「最大限の努力をします」


 緊張から声が裏返り、奇妙な声を発してしまった。



「真面目にやってよね!」


 容赦のない言葉を聞くと、俺を気遣っている訳でないようだ。


 それにしても、彼女の可愛らしい表情に、俺は、上下関係も忘れ見惚れてしまった。



 その後、無駄口を叩かず集中した。しかし、1時間に20ページを読むのが関の山だ。自分のレベルの低さに情けなくなった。



 時間は、あっという間に過ぎ、夕方の5時をまわっていた。


 おもむろに、貴子が声をかけて来た。



「どう、読み終えた?」



「すみません。 頑張ったんですが、半分も読めません。 理論の概要は何となく分かりましたが、詳細な内容まではとても …」


 自信なさそうな俺の顔を見て、貴子は励ますかのように微笑んだ。



「そう、分かったわ。 その論文はあなたに差し上げるから、家に帰ったら続きを読みなさい。 今日は終わりにして、飲みに行くわよ」



「えっ、鈴木座長と2人でですか?」



「なに、不満なの?」



「いや、そんなことは …。 ただ、男と女だから、良いのかなって思って」



「なに言ってんの。 もしかして、下心でもあるの?」



「いえ、とんでもないです。 お供します」



「よろしい、連れて行ってあげるわ」


 貴子と2人で飲みに行けると思うと嬉しいハズなのだが、母の事があったせいか、何かスッキリとしないものがあった。


 俺は、それを打ち消すかのように、息を吐いた。



 俺は、貴子に連れられて街へ向かった。


 大学を出て20分ほど歩くと、小さな古い居酒屋が見えてきた。


 貴子は、当然のような顔をして歩いて行く。恐らく、いつも来ている店なのだろう。


 店に着き、ノレンをくぐると、店主と思しき初老の男性が声をかけて来た。

 


「いらっしゃい! 鈴木先生、今日はお2人なんやね」


 店は混んでいて、お客でごった返している。恐らく、隠れ名店なのだろう。美味しそうな匂いに、思わず唾が込み上げてきた。



「そうよ、2人よ。 空いてる席は、あるかしら?」



「いつもの個室へどうぞ。 鈴木先生のために空けてあるんや」



「ありがとう」


 店主が話した後、貴子は慣れた様子で奥に歩いて行った。

 俺は、遅れないようについて行く、まるで母親に連れられた息子のようだ。



「私は入り口に座るから、あなたは奥の席にどうぞ」



「はい。 でも奥は上座だから、鈴木座長が …」



「あなたは、お客様よ。 さあさあ、早く上がって!」


 彼女の勢いに押され、俺は席に座った。

 

 

「遠慮しないで、好きなものを頼みなさい。 奢ったげるわ」


 彼女は、にこやかに笑った。


 美しい笑顔に、思わず引き込まれてしまう。

 そのせいか、思うように会話が弾まない。まずいと思った。



「そんな、俺も払いますから」



「緊張してるの? 私が怖い?」



「そんな、滅相もない。 ただ、奢ってもらうなんて、男としてできません」



「気にしないで。 その代わり成果をあげてよ。 例の論文は明日の夕方までに読み終える事。 それで、報告するのよ」



「はい。 頑張ります」


 母の件で、この先の仕送りを断るつもりだったから、奢られる事は都合が良い。しかし、よく考えてみると、論文など読んでいる場合でないのかもしれない。

 この先、大学にいられるかどうかの瀬戸際にいるのだ。剛が支援してくれると言うが、さすがに甘える訳にいかない。


 そんな事を思いながら、飲み始めた。



「鈴木座長は、酒が行ける口なんですか?」



「なんで? 今時、女性だってお酒くらい飲むわよ」



「座長はワインとかのイメージなんですが、いきなり日本酒のロックなんて …。 女性で、あまりいないと思うんですが」



「それは偏見ね。 私は日本酒派よ。 百地は、何が好きなの?」



「俺は、何でも行ける派です」



「そう。 じゃあ、今日は同じ日本酒にしなさい。 注文が楽で良いわ」


 貴子は、悪戯っぽく笑った。

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